41 跡取という事実
四月一日。
オフィスの近くにある公園の桜は、今日に合わせるかのように満開になった。
「華やかになるわねえ」
島田の姉、河野真由美が一人の社員を見つめると、意味ありげに笑った。
彼女の視線の先にいるのは、先ほど入社式を終えたばかりの新入社員、片桐さくらである。
新調したライトグレーのスーツを着てデスクに座っている。項で纏められている髪は、卒業式の前に美容室に行ったらしく、僅かに明るい色になり緩くウェーブがかかっていた。背の中程という長さは前と変わらないのに、雰囲気が随分変わった。年末辺りからあか抜けて来たとは思っていたが、ここに来てはっきりと変化が目に見えた。
上原が変身を気にしているのが分かる。と言っても彼の場合はそれがすぐに口に出る。
「島田さんー、なんか片桐の女子力が上がってますよ」
書類を持って来た上原にこそこそ話しかけられて、島田は思わずムッとする。じろじろ見るなと言いたいのをぐっと堪えた。
苛立ちは彼女の右手薬指に嵌められている指輪を見ると少しだけ解消された。だが、肝心の上原は気にする様子もない。カジュアル過ぎて単なるファッションの一部と考えているのかもしれない。
失敗だったかと己の選択を悔やむ。
安くはないが、高く見えない物を選んだ結果が、あの花を象ったデザインだった。高級品に見えたら受け取らないと思えたのだ。
彼女はあれからずっと指輪を身に付けてくれている。それを見て、自分の彼女だと確認する。
今もそうやってほっとしている自分に気づいて、島田はげんなりとする。
(そうなんだよな……)
確認が必要なのだ。
付き合って四ヶ月経つというのに、未だにメシ友の域を抜けていない気がしてならない。
デートもするし、その度にキスだってする。それなのに、親密度が上がらない。距離が縮まっている気が全くしない。
付き合う前が「ご飯までですよ」と線を引かれていたのならば、今は「キスまでですよ」と線を引かれているような気がする。そして島田にはその線を乗り越える勇気がない。
クリスマスイブにさりげなく躱されたのが未だに地味に効いているのだ。
一度拒まれると二度目にトライするのには一度目以上の力が要る。また避けられたらと思うと一歩踏み出せない。
(完全に自覚してないのが厄介なんだよな)
頭では分かっていて、普通に付き合おうと努力しているのだろうけれど、無意識に男と関わる事を避けている。本能的に危険だと感じてどこかで逃げている。それはきっと二十年にも渡る母親の教育の成果なのだろう。『結婚までは駄目だ』と言われ続けて染み付いているのだ。
元々が素直でいい子だからこそ根が深い。島田のように僅かにでもひねくれていれば、もっと早いうちに反抗して鎖から逃れられただろうにと可哀相に思う。
(あーあ。ほんとは卒業式にだって行きたかったのに)
さくらの母親の事を思い出すと先日の不愉快な出来事が蘇る。
卒業式、晴れ姿を見たくて迎えに行くと言ったら、両親を優先されてしまったのだ。
女子大に男がいると目立つからという理由は分かったし、その時は納得したが、後で友人の田中に聞いたところ、卒業生の彼氏らしき男が結構な頻度で来場していたという話。少し話すくらいならきっと両親にばれる事もなかったと思うし、両親を見送った後ならば時間も取れたと思う。だが、不信を抱かせるような僅かな可能性も彼女は恐れていた。
不満を抱えつつ写真を見せてもらったが、予想どおりに矢絣の着物と袴がものすごく良く似合っていて、直に見ることができなくて悔しかった。
――なにより自分が未だ両親に次いで二番目だというのが悔しいのだ。
彼女の一番になるにはどうすればいいのか。それがこのところの島田の悩みの種だった。
「片桐ー、コーヒーくれ」
島田がぼんやりしているうちに上原がさくらにちょっかいをかけにいく。巨体の割にフットワークが軽いのがいつも羨ましい。
「一杯十円です。オプションで砂糖とクリーム追加だとプラス二十円ですよ」
「んー……じゃあ、砂糖だけ追加で」
注文を受けてさくらがコーヒーを淹れる。
年末辺りからよく見る光景だ。そのおかげなのか、上原は痩せたと思う。十キロは落としたのではないだろうか。一時期本気で体の心配をしていたが、改善が見られたことにはほっとしている。彼が欠けては仕事が回らない。だが、
(そろそろ自分で用意して来いよ)
インスタントコーヒーも砂糖もミルクも自分で買って来れば済む話だ。それを怠るのは、さくらとの接触を楽しんでいるからなのではとついつい穿った見方をしてしまう。
(さくらちゃんにしても、気づいてるだろうに言わないのはどうしてなんだ)
自分で用意した方が安いですよ。そのひと言が出ないのは、商魂逞しいのかそれとも――
「ちょっと、けいちゃん」
河野の声がかかり、島田は眉間の皺を伸ばした。オフィスの一番奥のデスクに向かうと「なんだ?」と問うた。
「朝からずっと目で追ってるわよお?」
嬉しいのは分かるけど、分かりやすすぎるんだけどーと密やかに指摘されて慌てる。眼鏡を外すと誤摩化すように布で拭いて、話題を変えようと尋ねた。
「それで、本題は?」
「さっきのメール見た?」
ああ、と思い出して頷く。
「見たけど。なんで俺が行かないといけないのか分からん」
今朝送られて来たメールを見て、島田の機嫌はこれ以上ないくらいに悪くなった。せっかくの晴れの日だというのに台無しにされた気分だったのだ。
内容は合同就職説明会へ島田美装の人事部として出席しろというものだった。確かに非常勤の役員として籍は置いているものの、急な仕事を強引に押し付けられ腹が立った。こちらの仕事をないがしろにされている気がして仕方がないのだ。
「あの人たち、けいちゃんを連れ戻したくて必死なのよ」
「それなら余計に嫌だ」
「父さんの頼みでも?」
「…………卑怯だろ、それ」
島田は顔をしかめた。昨年の年末から何かとそればかりだ。昔ならあっさり撥ね除けた願いでも、今はどうしても拒絶出来ない。
「俺は――これからもここでやって行きたいんだ」
まだ、SHIMADAでは何も出来てない。呻くように言うけれど、姉は譲らない。
「っていっても、この会社だっていつか手放さないといけない。あんた、いくら逃げても跡取りって事実からは逃げられないのよ」
考えないようにしている事をきっぱりと言われて島田は腐る。
「義兄さんのどっちかに継いでもらえばいいだろ」
「香苗のところは置いておいて、うちの夫はそういう器じゃないもの」
平気で夫を扱き下ろす妻の図に、彼女の家での力関係を見せつけられる。確かに優しい義兄より姉の方が経営者に向いているとは思うが。
「じいちゃんもお父さんもけいちゃんに期待してるのよ」
「んなこと、嫌ってほど分かってる。だけどあっちに行け、こっちに行けって勝手すぎるんだよ。俺が必死で仕事を覚えたとたん、これだ」
「……事情が変わった事くらい、子供じゃないんだから分かるでしょ」
渋い顔で姉は諭した。こういう顔をするとき、姉は姉に完全に戻り、島田はただの弟でしかなくなる。勝ち目がない。
ふて腐れて黙り込む島田に、社長の仮面を付けた姉のひと言が刺さった。
「――しょうがないわね。社長命令よ。助っ人に行って来なさい」
反抗など無駄だという事を悟ると島田はうんざりとため息をついた。




