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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
幕間
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幕間 卒業旅行の計画

「――じゃあ、そういうことやけん、心配せんでいいけんね! ほんっと恥ずかしいけん、絶対かけ直してこんでよ!?」

 念を押すとさくらは電話を切る。相手は例のごとく母である。

 今夜、研究室の忘年会があるのだ。学生と研究室の卒業生を一挙に集めて学内の合宿所を借り切ってすき焼きパーティーをする。恒例の行事で、学生が準備を全て取り仕切るのだ。来年度に配属になることが決定している三年生と一緒に。

 去年事情は話してあるものの、騒ぎでもおこっては迷惑なのでもう一度確認の電話をしたというわけである。(ちなみに、去年はわざわざ研究室に折り返し確認の電話がかかって来た)

「さくらー、それ逆効果だってば」

 電話が聞こえていたのか、藤沢が白菜を切りながら呆れたような声を出す。彼女の隣には既に刻まれた春菊と葱が山となっている。

「そうそう、そんな風に『絶対』とか言ったら火に油注いじゃうよ」

 やれやれと肩をすくめながら広瀬は椎茸の石突をとっている。こちらも隣には豆腐の山。

 さくらはガスコンロの前で糸こんにゃくの下ゆでと、割り下の作成係だ。砂糖とみりんとしょうゆ、酒を鍋で煮詰めている。分量は研究室伝統のレシピに沿っている。大量に使うので市販の物を買うよりも経済的なのだ。

「今回は別にいいけどさ、実害ほとんど無いし。でも今後の事考えるとアリバイ工作はもっと自然にやらないと」

 藤沢は意味ありげにニヤニヤ笑う。

「アリバイ?」

 さくらは首を傾げる。

「だよねえ。あ、アリバイと言えば。京子ちゃん、例の旅行の件、どうしようか?」

 広瀬が頷いた後、突如思い出したように藤沢に話をふった。

「行くよー、三月に湯布院だよね?」

「卒業旅行、行くんだ? 広瀬と?」

 気になって尋ねると藤沢は気まずそうに眉を下げる。

「さくらも一緒に行ければって思ったんだけどさあ」

「あー、ごめん……お金がない」

 さくらだって出来る事なら行きたい。だが、二月にほとんどバイトを入れられない事を考えると、三月はかなりカツカツのはずだ。その上、疑り深い母親の妨害が考えられる。

「そう言うと思ったんだよ。残念」

 答えを受けて広瀬が一瞬しょぼくれたが、何か思いついたように手を打った。

「あー、じゃあ、五月くらいにすればいいんだ。就職してるし、お給料ももらった後だから、少しは余裕あるよね?」

「あ、いい考え。それなら車もありかも。色々回れて便利だよね」

 藤沢も頷いている。

 とたんに二人して盛り上がり始めるが、さくらは思わず突っ込む。

「それ、既に卒業旅行じゃなくない?」

「いいんだよ。要はアリバイ作りなんだから」

 藤沢がへらりと笑う。

「アリバイ?」

 さくらが再び出て来た言葉にきょとんとすると、藤沢が出来の悪い生徒に説明をくれる。

「さくら、鈍い。卒業旅行も兼ねて、彼氏連れで行くんだってば。彼と旅行には行きたいけどさあ、さすがに二人きりでとなるといくら寛容なうちの親でも渋い顔するんだよ。そこで、現地で三人で撮った写真でも見せれば、親も安心するでしょーが」

「おお、なるほど。頭いい」

 さくらは素直に感心したが、直後彼氏連れで旅行ということがどういう事かに思い当たって目を丸くする。

「えーと、お二人さんは、宿はどうされるおつもりで?」

 思わず丁寧に尋ねると、広瀬に「やだー、決まってんじゃん!」と背中を殴られる。

(決まってるって――修学旅行みたいに男女分かれて……ってな事があるわけはないか)

 さくらは一瞬考えこんだが、結局大きくため息をついて断った。

「……ええと、旅行は楽しそうだけど、遠慮しとくわー」

 思い浮かぶのはクリスマスの夜の“あのこと”。未だ消化出来ていないのだが、ただ一つ分かるのは、あの時に『やばい』と思ってしまったということは、まだ彼とそうしたいとは思っていないという事だ。

 さくらにはまだ彼と深い関係になる覚悟がない。

 それは恥ずかしいからとかいう乙女的かまととな思考からでもない気がした。生物学専攻の学生として、人間の――というよりは動物の本能には理解がある。自然な事だとして受け止められるつもりだった。

 島田を好きだとは思うけれど、何かがブレーキをかける。この間のように。

 あのとき、もっと別の対応をする――例えば聞こえない振りをするとか、恥ずかしがるとか――という道もあったけれど、さくらはあのように隣人を理由にテンションを下げて逃げた。

 今度同じことがあっても、きっと何かを理由に逃げてしまうと思う。

(まあ、まだ、付き合って一月も経ってないし)

 付き合った時間の浅さのせいにするが、どこかでそれだけじゃないと思う自分がいた。旅行の計画は五月なのだ。交際半年、しかも二人とも社会人おとなとなると、体の関係を持ってもおかしくないし、相手もそう望むだろう。

(でもなあ――)

 もやもやする思考を整理出来ないままに、毒を吐かれるのを躊躇って、当たり障り無く答える。

「どうやら薄給らしいし、もうちょっと落ち着いてからの方がいいっぽい」

「え、薄給なの?」

 藤沢と広瀬は驚いた顔をする。とりあえず分かりやすい理由の方で納得してもらえそうでほっとすると、さくらはにっと笑った。

「多分時給的にはあんまりかわらないんじゃないかな。でも雇ってもらえるだけで感謝だよ。――ってわけで、とりあえず旅行は二人で行って来て」

 広瀬が「そっか、残念。また誘うね」と言う隣で、藤沢が僅かに怪訝そうな顔をしていた。



 本格的に忘年会が始まったのは午後六時だった。

 煮詰めた割り下の匂いが漂う中、久しぶりの再会に卒業生が沸いている。二十名はいるだろうか。師走というのにこれだけの人数が集まるのは、ひとえに桑原教授の人望だろうとさくらは思う。

「来年はあっち側かあ」

 藤沢が感慨深そうに声を上げ、「一年、早かったねえ」と広瀬も頷いた。

 乾杯が終わり、宴が開始するとさくらたちの出番はほとんど終わりだ。準備を終えた学生は下座に集まる。社交的な藤沢は早速ビールを持って先輩のところに挨拶に行っている。さくらと広瀬も一通り挨拶をすませると途中で肉を大量にゲットして席に戻った。そこに三年生が「お疲れさまでした!」とビールを注ぎにやってくる。

 体育会系の後輩なみちゃんが、どこで聞きつけたのか「片桐先輩、内定おめでとうございますー」と声を上げ、他の三人もおめでとうございますーと続いた。

 今年の三年生は四人だ。さくらたちの代は少なかったが、研究室の定員は四人。就職難もあって生物系は人気がないが、今年はよく集まった方だと思う。

「諦めかけてたんだけど、奇跡的に決まったよー」

 さくらがやれやれと苦笑いすると、なみちゃんが興味深そうに尋ねた。

「どんな会社なんですか?」

「社員四人の小さな会社だよ。バイト先でそのまま雇ってもらえることになったんだ」

「へー、インターンみたい。すごいですねー」

 インターンというほど大げさではないが、先に労働体験するという意味では似たようなものかもしれない。

「すごくはないけど、楽しいよ」

「いいですねー。私も決まるといいんですけど、今年も結構厳しそうです」

「もうそんな時期? 年々早くなってない?」

 去年のこの時期はまだぼんやりしていたさくらは驚くが、その頃から動いていた広瀬は「そんな時期だよ」と苦笑いした。なみちゃんも頷く。

「この間も合同説明会行って来たんですけど、まだ全然イメージ湧かなくって」

「ついつい、大きいところとか華やかなところばっかりに目がいっちゃって」

「そうそう」

 三年生が各々訴える。

「いいところあったの?」

 広瀬が尋ねると、皆眉を下げた。

「やっぱり生物系は学部卒だとほとんど無くって。だからせめて待遇がいいところがいいなと思うんですけど、でも待遇もそんなに変わんないっていうか」

 やはり一年でそんなに事情は変わらないらしい。皆がしんみりすると、なみちゃんが場を和ませようとしたのか、くすりと笑った。

「――だから、人事担当者が若くてイケメンだとちょっと心が揺れます」

「あー、それ、ちょっとだけ分かる」

「説明会に来るのって人事部だからオヤジばっかりだもんねぇ。確かにイケメンがいると目立つ」

「企業側が人寄せしてたりしてー!」

「有り得る!」

 三年生がわっと賛同して各々の活動について語り出すのを機に、その輪からさくらと広瀬は二人で離れる。一年しか違わないのに、なんというか若い。

「さくらのところも島田さん置いてたら殺到するよー。心配だよねえ」

 広瀬がにやにやと笑ってさくらに囁いた。

「そうかなあ」

 首を傾げる。彼はさくらの好み的にはストライクではあるが、どちらかというと地味な外見をしているし、しかも仕事ではメガネを掛けて印象的な目を隠している。現に今までに食いついた女性をミサちゃん以外には知らない。

(上原置いておくほうがインパクトはあると思うなあ。ほら、ハチミツの瓶でも持たせたら絶対可愛いよ)

 想像してほくそ笑む。

「――てか、募集自体今はしてないみたいだし、説明会に出る事もないと思うけどねぇ」

 しばらく河野、島田、上原、それからさくらの四人で、今までとそう変わらない日々が続くのだ。

 大きな変化とは無縁だと笑っていたが、それがさくらの勝手な思い込みだったと分かったのは少し先の事だった。

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