表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
二.秋分のころ
40/91

40 指輪よりいい物

 アパートに辿り着いたところでさくらは立ち止まった。隣人の男が家に入っていっているところだったのだ。滅多に顔を合わせる事がないが、確かこの近辺の大学生のはずだった。彼女連れらしく、後ろに立っている女が促されて部屋に入っていく。

(あ、デートかな)

 そう思った直後、自分たちも同じように見えるのかもしれないとはっとする。

 島田と一緒のところを何となく見られたくなくて、彼らの姿が見えなくなるまでさくらはそこで立ちすくんだ。

「どうした?」

 島田が怪訝そうにさくらを見るので、

「すみません。ご近所付き合いとかしてないもんで、顔合わせるの気まずいんです」

 と言い訳すると、

「むしろしてたら驚くよ」

 島田が軽く笑い、いつも通りの笑顔に少々ぎこちなかった二人の間の空気が緩んだ。

 アパートの扉を開けたとたん、さくらは「げ」と声を出す。ただでさえ狭い玄関をダンボールが占領している。例の両親からのクリスマスプレゼントだ。

「すみません、そういえば散らかってました!」

 慌ててさくらがダンボールを壁際に押しやり、スリッパを出そうとすると島田は吹き出しながら「俺、ここでいいよ」とテンパったさくらをなだめる。

「え、でも」

「だから。夜中に男を部屋に上げたら駄目。勘違いされるって言っただろう?」

 島田は僅かに困った顔でさくらを見つめた。

「勘違いっていうのは、ええと」

「誘われてるのかなって、どうしても期待する」

 一歩島田が足を踏み出す。狭い玄関。人二人が立つのがやっとのスペースで動かれるとバランスが取れない。膝が折れて倒れそうになったさくらを島田が抱き寄せた。腰に回った手に驚いて見上げると、そこに島田の顔が降ってきた。

「――――」

 引き結んだ唇の上に島田の唇が覆い被さった。久々のキスにうっとりと目を閉じるが、彼はすぐに唇を離す。

「んーと」

 もの言いたげに彼はさくらの頬に触れる。

「力抜ける?」

「え? 力入ってます?」

「ちょっと深呼吸してみて」

 首を傾げつつさくらが言われた通りにすると、息を吐く前に再び唇を奪われた。そして、初めて深まった口づけに、彼が言いたかった事をすぐに理解する。そういえば、さくらはいつもしっかりと口を閉じていた。

(わ、わわわわわ)

 抱擁されながらの角度のついたキス。洋画みたいな熱烈なラブシーンを想像して頭が煮えた。

 刺激が強過ぎて足に力が入らず、腰が砕け、ダンボールの上に腰掛ける形になる。重みに耐えきれず、箱がお尻の形に潰れるのが分かった。

(イモはいいけど柿が潰れるかも。あ、ラーメンが粉々になる!)

 焦って僅かに体をずらすと、フローリングに着地し、そのまま寝転がる形になった。

(あ、れ?)

 見上げると真剣な顔をした島田がさくらを見下ろしている。

「――いい?」

 尋ねられても何の事を問われているのかすぐには分からなかった。だが、彼の手はさくらの手首を抑えていて、足の間には彼の膝があった。彼の前で脱ぐつもりはなかったはずのコートのボタンはなぜか外されていて、間抜けなスウェット姿が明るみに出ている。状況を理解するに連れ、じわじわと言葉が身に染みてくる。

(もしかして)

 いや、もしかしなくてもこれは押し倒されているのではないだろうか。

(ものすごく、やばい?)

 答えを待たずに島田が身を伏せ、さくらが息を呑んだその時、


『あ、あ、あああぁん』


 と艶かしい嬌声が突如部屋に轟いた。

 唖然とした島田が確認するようにさくらを見下ろしている。さくらは必死で首を横に振った。

「わ、私じゃないです!」

「……そうだろうけど」

 俺まだ何もしてないし、と島田は困惑顔で隣の壁を睨んだ。壁からはまだ声が聞こえて来る。嬌声に混じり、今度は男の声で『好きだよ』『可愛いよ』などむずがゆくて鳥肌が立ちそうな言葉。つまり、これは真っ最中らしい。しかも、

「そこ、隣の間取りだと多分お風呂ですよ」

 身も蓋もなく言ってしまえば、余所の睦言というのは大変しらける。

 己の置かれた状況も忘れて、すごいですね、とさくらが冷静に指摘すると、島田はげんなりとした顔をした。

 そして大きくため息をつくと、くしゃくしゃと髪を掻き回し、玄関の縁に座り込んだ。

「あの……とりあえず部屋に移動してコーヒー飲みます? あっちだとまだ音がましだと、思うんですけど」

 さくらが提案すると、島田は力なく頷く。

「そうする。本当に話だけして帰るつもりだったのに、どうして――あ、そっか……匂いと、」

 島田はさくらの下ろした髪を見て、それからスウェット姿を見下ろした。

「風呂上がりって、教えてくれないと。反則、それ」

 痛い指摘にさくらはコートの前を押さえて縮こまった。

「すみません。色気のない恰好で」

「…………そうじゃなくて」

 島田は再び大きなため息をついた。

「上原じゃないけど、……さすがにその違いは分かるよ」

 言われてさくらは気づいた。トレーナーの下は、新品の下着どころか、普段の下着さえない状態である。寝る時には付けないのだ。

 ぼっと赤くなるさくらを見て、島田はいよいよ弱った顔になった。

「あー、もう、渡す物渡したらさっさと帰る」

 自分に言い聞かせるように島田は言うと、さくらに続いて奥の部屋に移動する。と言っても1DKの間取りである。扉を開ければすぐだった。

 さくらが狭いキッチンでコーヒーを入れている間、島田は珍しそうに部屋を観察していた。

「片付いてるね」

 そう言われるが、散らかっていないのは物が無いせいである。ベッドと小さなローテーブル。一つある本棚には『生化学』『細胞生物学』など面白みのなさそうな理学書がずらりと並ぶ。片付いているというよりは殺風景と言った方がいい部屋だ。それが妙に恥ずかしい。

 ぬいぐるみの一つでも置いておくべきか、そう悩みながらコーヒーをテーブルに置いて島田の隣に座ると、彼はメッセンジャーバッグを開け、封筒と小さな箱を取り出した。

「なんですか?」

「開けてみて」

「あ」

 まず箱を開けたさくらは目を見開く。指輪だったのだ。

「とりあえず手っ取り早い虫除け」

 金の台の上に花を象った水色の石が乗っている可愛らしいリングだ。アクセサリーとは無縁のさくらでも自分の誕生石くらいは知っていた。

「トルコ石、ですか? 高そう」

 一瞬怯むと、島田はすぐに否定した。

「安物で悪いけど。これなら普段使いしやすいかなって」

 さくらは恐る恐る箱から抜き取ると指にはめようとする。

(左? 右?)

 と悩んでいると、島田が指輪を取り上げて、右手の薬指にはめた。

「左はまだ空けておいて。これは玩具みたいな物だから、そこには相応しくない」

 指にきちんと収まったリングに感動しながら、さくらは微笑んだ。

「ありがとうございます。すごく嬉しいです――あ、ちょっと待って下さい、私もプレゼントがあるんです」

 クローゼットをあけると、次回のバイトの時に渡そうと思っていたものを取り出した。

「ええと……なんだか釣り合い取れなくって申し訳ないんですけど」

「開けてみていい?」

「はい」

 ガサガサと包装を解く音。中から手袋が出て来る。島田と比べてあまりに安易なセレクトにさくらは自分にがっかりした。

 だが、島田は手袋を見て驚いている。

「これ、もしかして手編み?」

「…………はい」

 編み物など、それこそ高校生の時に“もし彼が出来た場合”を夢見て練習したとき以来だった。残念ながらさくらが付き合ったのは夏だったので、その腕が活用される事はなかったのだが。

 おそらくこういう場合の定番であるマフラーは、彼が素敵なものを既に持っているので悩んでいた。手袋にしたのは、自転車に乗るときの手が寒そうだなあと思っていたから。正直に言うと、それほど器用でないさくらが十日ほどで編み上げるのは大変だった。

「ありがとう。俺、こういうの貰ったのはじめて」

 しみじみと手袋を見つめる島田に照れて、さくらはふとテーブルの上に置かれた封筒を気にした。SHIMADAの社名が入った封筒だった。

「それ、開けてみて。指輪よりいいものが入ってる。――あ、でもその前に、簡単な面接するかな。さくらちゃん、今後もうちで働くつもりある?」

「え? ええ、もちろん!」

 バイトの話だと思って気軽に頷いたが、あと三ヶ月というのにどうして彼がそんな事を聞くのかを考えたとたん、さくらの全身に電流のような物が走った。

(え、前言っていた『就職は決まる』って――もしかして)

 島田がにっと笑って、さくらは封筒を手に取った。

 手が震えるのを叱咤しながら、そっと取り出したそれは、

「内定通知書――え、でも」

 もしかして、彼女だから心配して?――ととっさに思ってしまった。それは仕事には容赦ない島田らしくない。

 彼はそんなさくらの内面などお見通しとばかりに優しく微笑む。

「さくらちゃんが自分で勝ちとったんだよ。この間の仕事を取れたおかげで、いくつか新しい仕事を受注出来たんだから。来年度は人を増やさないとやって行けない。河野とも相談して決めたんだ。――もしうちの会社を希望してくれるなら、中の書類に記入して返送してくれる?」

「ありがとうございます……!」

 思わず涙ぐむさくらに島田は少し悩んだ様子を見せた後、恐る恐るのように手を伸ばして抱き寄せた。

 軽くハグをされると、島田のジャケットから僅かに覚えのある匂いがした。あれ? と思っていると、彼は慌てたように離れて、バッグを持ち上げた。

「じゃ、俺、帰る」

「え、あ、もうですか?」

「これ以上いると、帰れなくなりそう」

 そこで島田はうんざりと壁越しにまだ何か物音が聞こえて来る隣を睨む。

「惜しいけど、でも、最初でこれはあんまりかなあって思うし、がっついてるって思われるのも嫌だし。なによりよそに聞かせたくないし」

 ブツブツ言いながら島田はブーツを履く。

「やっぱり、早めに引っ越したほうがいい。治安が良くて、もっと防音がしっかりしてるところ」

「でもここ格安なんですよ。高給取りになったら引っ越しますよ」

 へらへら笑うと、島田は渋い顔をして「どうやら、また理由・・がいるな」と何やら考え込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ