38 寿司と休日出勤
「おい片桐! お前なんてことしてくれんだよ」
その日の夕方。顔を合わせるなりもの言いたげにさくらを睨んでいた上原は、慌ただしく河野が帰ったとたん、待ってましたとばかりに目を釣り上げた。
「ど、どうかしたんですかー?」
仕事でミスがあったかと思って、慌てて彼のデスクに駆けつけると、彼は全く別の事で不満を爆発させた。
「先週末合コンやったんだけどよ」
「合コン?」
「忘れてんじゃねえ。お前、友達紹介しただろーが」
「あ」
自分の事で精一杯ですっかり忘れていたが、そういえばこの間ミサちゃんを紹介したのだった。
「ホントに会ったんですか。か、彼女がどうかしました?」
「連絡したらものすごく乗り気だったくせにさ、いざ会ったらすっげー感じ悪いの。話は聞かねえし、笑いもしねえ。飲んで食べておごらせて、あげくに島田さんのことだけしつこく聞いて来るんだからよ。前に面接受けに来た時から狙ってたんだろ、あれ。先に言っとけっつうの」
(……あ、やっぱり)
と思いつつ、
「そ、そうなんですかー?」
とさくらは誤摩化しながら思わず顔を引きつらせる。島田がどう思ったかを気にしたのだ。
このところ、河野が退社する頃には島田が必ずいる。理由を聞いたら、寒いから外回りを早めに切り上げることにしたらしい。自転車だと辛いですよね、とさくらが言うと、彼はオフィスが寒いからしょうがないんだと言って困った顔をしていた。だが暖房を入れ、ドアを閉めたオフィスは暖かく、意味がよく分からないままだった。
上原が島田を見るのと同時にちらりと席を窺うと、彼は珍しく上の空と言った様子でディスプレイを見つめている。二人の話が聞こえていないようにも見えた。
「あんまり悔しかったからよー、上げ底すんなって言ったらキレられた」
さくらは目を丸くする。
「上げ底って…………え、分かるんですか」
「当たり前だろ。男ってのはまず胸を見る。どれだけ見てると思ってんだ。本物と偽物の区別くらいつく」
(って、それを女の前で言うか? あー、そうだった。女子力ゼロで女じゃなかった、私)
上原のあまりのデリカシーのなさと、相変わらず女扱いされていない事にさくらはがっくりと肩を落とす。
上原は島田に同意を求める。
「島田さんも本物かどうかは見ればすぐ分かりますよねー。形が不自然ですもんねー。あれ、男の鬘と同じくらいの重大な詐欺っすよ」
そんなもん? さくらは思わず問うような目で彼を見た。
「……俺に振るな。分かるのはお前くらいだろ」
島田はうんざりした顔を上原に向け、その後さくらの様子をちらりと窺う。そして僅かに気まずそうに目を逸らす。
「またまた、謙遜されないでもいいですよ」
「それ以上言ったら、セクハラってことにする」
「僕が? 島田さんにセクハラですか?」
「――さっさと仕事に戻れ」
島田にぎろりと睨まれ落胆した上原は、キーボードを叩きながらさくらに話を振った。
「そういや、片桐、明後日空いてるか? 前言ってた寿司、早くしねーと期限切れになるぞ」
「え、」
明後日水曜日と言えば天皇誕生日。祝日だ。クリスマスイブの前日となると、デートをする人間も多いはず。
ちらりと島田を見る。彼の目は眼鏡に隠れて見えないが、唇はむっつりと閉じている。とても口を出してくれる雰囲気ではない。
それも仕方なく、職場では二人が付き合っている事は内緒にしようということになっているからだった。河野は勘づいているようだが、空気を読んで口を噤んでいる。ただでさえ四人という少人数で動かしているのに、その事で変にぎくしゃくするのは皆本意でないのだ。
「えーと、朝から晩まで研究があるんで」
おどおどしながら断るが、
「長くて一時間くらいだぞ? 昼か夜、空けとけ」
相変わらず上原は強引である。
決定事項のように言われてさくらは焦った。
(さすがに、まずい。ここで押し切られたら絶対まずい……ような気がする)
さすがに恋人がいるのに他の男と食事に行くのは反則という感覚はあった。しかし島田と付き合っているという事を隠しているため断る口実が見つからない。
あわあわとしていると、島田がガタンと音を立てて急に立ち上がったので、さくらは思わず椅子の上で飛び上がった。
「残念だが、二十三日、俺と上原は休日出勤」
「え、なんでですか?」
上原はぎょっと目を剥く。
「新しいカタログの作成を出来るだけ急ぎたい。この間の花のサインを加えたもの、新年の挨拶の時に持って回りたいんだ」
突如出された助け舟にさくらがほっと息を吐いたとき、ちらりと島田がこちらを見た。ふっと彼の口元が綻んだので、さくらは微笑み返した。だが、眼鏡の奥の島田の目が笑っていない事に気が付き、背筋がすっと冷える。
「じゃーしょうがないっすね。寿司はまた今度にするか」
「あ、ええ、はい」
上原の方を向いて頷いたが、背中に視線が突き刺さっている気がする。さくらは後ろを振り向くのが恐ろしくてたまらなかった。
上原は結局九時まで残業した。貰ったカタログ作成に早速取りかかったのだ。妙に楽しそうに仕事をこなすと、さくらと島田と共にオフィスを出た。
いつもはオフィスの鍵を閉める前にキスがあったのだが、上原のせいで無理そうだった。ちらりと島田を見るが、彼は涼しい顔をしたまま。自分だけが期待していたようで、寂しさに小さくため息をつく。
東区方面に帰る上原とは駅近くになってようやく別れ、島田と二人になった帰り道。それまで黙っていた島田が口を開く。
「あれ、分かっててやってる気がするな。たち悪い。気持ちは分かるけど」
島田はむっつりと顔をしかめている。その顔には未だ眼鏡がかかったまま。仕事が終わったというのに珍しく冷たい顔のままの島田にさくらは戸惑った。
「どうしたんですか。なんか、変ですよ?」
「そりゃあ変だろうね。彼女が目の前で口説かれてて平気な男がいたらすごい」
口説くという言葉があまりにそぐわなくて、さくらは少し笑った。
「口説かれてはない気がするんですけど。まず、私、女子力ゼロで対象外でしょうし」
島田は大きなため息をつく。妙に刺々しい態度に、さくらは先ほどの冷たい視線を思い出して怯えた。
「もしかして――怒ってるんですか」
「怒ってるよ」
「でも、断る理由、思いつかなくって」
さくらがしょんぼりすると、島田が少し表情を和らげた。やっと眼鏡を外し、柔らかい笑みを見せる。
「ごめん、ちょっとイライラしてた。……いろいろ考えないといけない事が多くて」
「仕事、大変ですもんね」
「仕事の事じゃないよ」
「じゃあ、なんですか」
「……虫除けは思ってたより大変ってこと」
「虫?」
「俺、さくらちゃんと上原を二人きりにさせたくなくていろいろ工夫してるのに」
「え、あ! そうなんですか」
(あ、もしかして、オフィスの戸を開けてたのって――)
ようやく虫が何か理解したさくらに、島田はやれやれと肩を落とした。
「……ここまで疎いとさすがに困る」
彼の表情は酷く曇っている。
嫉妬、なのかもしれない。そう思うと心が妙に騒ぎ出す。
だが上原の事だけで彼がここまで憂鬱そうな顔をするだろうか。そんな疑問が沸き上がって、浮ついた気分になれなかった。
「――それだけですか?」
何気なく問う。島田はふいに街路樹を見上げる。
十二月の始めから街中の街路樹の枝に白や青のイルミネーションが飾られる。皆それを見てクリスマスが近づいた事を意識するのだ。さくらは思わず期待する。だが、島田は躊躇うように言った。
「クリスマスは――ごめん、先約があって、午後から河野と社を出なきゃならない。終わるのが何時になるか分からないから夕方もちょっと時間が取れなくて」
「大丈夫ですよ。母が突撃するかもしれないし、一人の方が安心です」
理解のある事を言いながらも、思っていたよりがっかりした自分に驚いた。顔に出ないように、お腹に力を入れる。
島田は僅かに苦しそうな顔でさくらを見つめる。そしてふいに手を取ってぎゅっと握りしめる。
「ごめん」
再び謝られて、さくらはその言葉に含まれる妙な重々しさが気になった。




