37 数ヶ月先の未来
連れて行かれたのは郊外にあるうどん屋だった。例の安くて美味い店かと安心していたら、うどんが一杯七百円近くして、さくらは驚いた。
「ここね、うどんも美味いけど、丼ものがさらに美味いんだ」
うどん屋なのにカツ丼を頼む島田につられて、さくらもカツ丼を頼んだ。半熟の卵とカラリと揚がったカツが絶妙に絡んでいる。それだけではなく出汁がいいのだろう、ものすごく美味しい。食べ物に関して――いやそれだけではないけれど――妥協がない人だと改めて思った。
「俺さ、考えたんだけど」
「何をです?」
「お母さんとうまくやって行く方法」
「……」
一気にテンションが下がりそうになると、島田はにやりと笑った。
「その上で、さくらちゃんともいい関係を築く方法」
なんとなく含むものを感じ、さくらは赤くなる。つまり電話で話した、恋人となった二人の前にある障害をどう乗り越えるかという話なのだろう。改めて考えると、ものすごく恥ずかしい。
「徐々にさっき電話で話したみたいに距離をとるのがいいとは思うけど、一度に行動して刺激するのは却ってまずいかもしれないから。要は、安心させてあげればいいんだと思う」
「どうやってです?」
「例えばだけど。電話がかかって来て欲しくない時は、事前にこちらから電話をかける。突撃されたくないときには、前もってこっちから出向いて顔を見せておく。ただしわざとらしくないように」
「……なるほど……うーん、でも絶対わざとらしくなりそう」
さくらちゃんはそういうの苦手かもね、と島田は苦笑いする。
カツ丼を食べ終わると、島田は「今日は大学は?」と問う。
「えーと、ちょっと差し迫ってるので、行こうと思ってます……」
みどりんの事は気になるが、どうにも島田と離れがたく、さくらは心境の変化に戸惑った。大事なものというのはこうも簡単に変わってしまうものなのだろうか。
「じゃあ、送ろう」
あっさりと言われ、寂しく思う。車に乗り込み、シートベルトをする。
島田がエンジンをかけ、そして前にやったようにさくらの座るシートに手をかけた。ああ、バックするのか――そう思って身構えずに見ていたら、島田の顔が近づいた。
昨日より少しだけ長いキスにぼうっとなると、
「隙だらけ」
となぜか文句を言われた。
今度こそ島田は車を発進させると、大学へと向かった。
そうして付き合いはじめたさくらだが、島田との関係はそれほど大きく変わらなかった。以前と同じように一緒のオフィスで仕事をして、一緒に駅まで帰るだけ。そして週末に夕食を一緒にとるだけだった。
というのも、さくらの卒業研究が佳境に入り、島田の仕事も時を同じくして忙しくなったからだった。例の仕事が本決まりしたのだ。
一気に職場は慌ただしくなり、島田は打ち合わせで外に出ずっぱり。さくらはサインの細かい修正や、上原と一緒に文字のデザインなどに必死だった。
――ただ、週末の食事の質が微妙に変わった。それから仕事の帰りがけ、別れ際のキスがある事は大きな変化ではあった。
「さくら、この頃何かあったのー?」
年末が近づき、クリスマスも間近となったある日。
学生課の前で求人を探していたさくらは声の主を振り返る。学科の友人だった。
この頃そんな風に学友に声を掛けられることが多い。
「就職決まった?」
「いいや? まだ。なんで?」
さくらは首を傾げる。求人を見ている人間に問うような事ではない。だが彼女の方も何か腑に落ちない様子だった。
「んー、なんとなく雰囲気変わった気が」
「そう? なーんも変わんないけど」
求人の検索に付き合ってくれていた広瀬が隣でニヤニヤしている。それを横目で睨みながら、さくらは澄ます。
友人二人には例の告白の翌日、顔を見るなり詳しく話せと追求されたため、一応報告を入れたら、おめでとうと祝福された。
彼女たちが言うには、あの後からさくらはバイトに行く日と行かない日がとても分かりやすくなったそうで。
そこまで意識しているつもりはないけれど、多少人目を――というよりは島田の目を気にするようになった。上司と部下ならば気にする必要はなかったけれど、並んだ時のバランスを考えるようになった。要は釣り合いたいと思うようになったのだ。
伸ばしっぱなしだった髪も切り揃えた。服や化粧品も買い足した。もちろん出来る範囲でだけれど。
「彼氏も出来たし、あとは就職だねー」
一通り掲示板を見た後、広瀬が溜息と共に吐き出す。
「こればっかりはねぇ……」
島田はあんな風に言ったけれど、就職が決まる兆しなど何も見えない。十二月も末となると、求人はさらに減り続け、さくらの希望職種になると皆無と言っていい。
「派遣か、もしくはフリーターしながら探すしかないのかなあ」
となると、一人暮らしをするのはかなり苦しくなって来る。
「でもねぇ、ここで踏ん張らないと、就職浪人はやっぱり不利だよ……もうちょっと条件妥協してみない? デザインはデザインでも、Webデザインとかならもうちょっとあるかもしれないし」
一通り苦労し、色々考えたはずの広瀬は、さくらの今後が余計に心配なのだろう。
「んー……後がないし、よく調べて考えてみる」
「島田さんとよく相談するといいよ。そうだ。小さいところだけど、案外コネ持ってるかもしれないし」
「だねえ」
コネ云々は置いておいても、とりあえず励ましてもらえれば元気が出そうだ。
「いっそ永久就職すればいいよー」
広瀬がまたそんなことを言うので、
「いいねー」
付き合いはじめて半月も経たないさくらには全く想像出来ず、冗談かと思ってケラケラと笑って返す。だが、広瀬は「さくらのところ、相手社会人だし、卒業したら別にものすごく変な話って訳でもないと思うけどなあ」と真面目顔だった。
「うちでも、そういう話、ぽつぽつでるよ?」
「え、そうなの」
びっくりしてさくらは立ち止まる。
「付き合い長いからさあ。それに、彼、今は地元だけど転勤多いみたいだから、その時は考えないとなって思ってる」
「……あ、そうか」
そういえば、広瀬の彼は大手の機械メーカーに内定が決まったと聞いた。最初は郊外の工場で働くらしく、家が遠くなると広瀬は不満を漏らしていた。
「それもあって、少しでも手に職がつけばなあと思って、プログラマーを選んだんだけどね。転職が多い職種だし、ま、向いてそうってのが一番大きかったけど」
「広瀬はしっかりしてるね」
「さくらも十分しっかりしてるって」
そう言われるけれど、さくらには数ヶ月先の未来さえ見えていない。数年後まで見据えて行動している広瀬が眩しいと思った。
「ところで、さくら。クリスマスはどうするの?」
研究室に戻る途中、広瀬にニヤニヤと笑いかけられたが、さくらは一蹴する。
「んー? 予定ない」
「うそでしょ」
広瀬は目を丸くする。
「いや、ホントに。話さえ出ない。仕事超忙しいっぽい」
「えー、付き合って初めてのクリスマスで、それはないでしょ、いくらなんでも」
「べつにキリスト教徒じゃないしさあ」
そういいつつ、恋人と過ごすクリスマスにちょっとした憧れはあったのは確かだ。だが、もし島田が暇だったとしても願いは叶わないだろう。
「何寂しい事言ってんの。さくらから誘えば?」
「いや、無理。鬼気迫る顔で仕事してる人にそんな浮ついた事言えないし。ほら、私も実験が差し迫ってるから」
「食事くらいいいと思うけどなあ」
広瀬はまるで自分の事のように悔しそうに言う。
「なんで広瀬が不満そうなんだよ。そっちもデートするんでしょ? 自分とこだけで楽しめばいいじゃん」
「だってさあ。こっちは新鮮なネタが欲しいんだよ。だってクリスマスだよー、恋人たちの一大イベントだよー?」
さくらは苦笑いする。普通はそうなのかもしれないけれど、さくらたちにはそうはいかない理由があった。
「そういうイベントの時だからこそ家で待機するのが一番なんだって。絶対警戒してる。下手したら突撃があるかもしれないし」
「あー……」
さくらの母を思い出したのだろう。広瀬は渋い顔をする。
「それって、島田さんはどう思ってるの?」
「出来るだけ刺激しない方向でって事になってる。面倒だからねー」
「でもいつまでも隠してはおけないよねえ」
さくらは神妙に頷く。
「その辺は追々考える。とにかく卒業までは大人しくしておいた方が心証がいいと思うんだ」
「色々考えてるんだ。それなら今回はしょうがないかあ。あーあ。藤沢とケーキを賭けてたのになあ。いくら堅物のさくらでもクリスマスならさすがにちゅーくらい許すだろうってさあ」
ひひひと笑いながら言われた言葉にさくらは飛び跳ねそうになるが、辛うじて堪えた。
「……ないって。賭け事のネタにするな!」
さすがに既に済んでますとは言えない。詳しく聞かれたら恥ずかしくて死にそうだ。顔を引きつらせながら、文句を言って誤摩化した。




