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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
二.秋分のころ
36/91

36 依存してたのは

 翌日の日曜日。十二月とは思えないほど穏やかな日差しの中、さくらは小さなベランダに置いている洗濯機を回していた。目下の洗濯槽では昨夜無駄になった下着が洗濯ネットに包まれてくるくると回っている。ドライコースなのでかなり水流は穏やかだ。

(これ、この先使うことあるのかなあ)

 このまま行くと、それは新婚初夜なのではないかとさえ思えて来る。その頃には使っていなくても劣化していそうだと思った。

 蓋を閉めると、窓枠に腰掛ける。そして仰向けに寝転がると、大きく息を吐く。

 膝を抱えると、昨夜の出来事に想いを馳せた。

 あの時は言われたことの方が衝撃的だったのだろうか。家に帰ってからじわじわと思い出して飛び上がりそうな気分になった。

 キスのことである。

 巷で言われているような味も何もあったものではなかった。覚えているのは、近づいた時に見えた島田の顔と、感触。

 さくらは指を唇にのせる。

(ちがうな。もっと、柔らかかったような――)

 人差し指と中指を揃え、そっと触れたところで、はっとした。

「――なにやってんだ、私は」

 ごろりと転がると、フローリングの床に頭を打ち付けて己の目を覚まさせようとする。

「断るんでしょーが」

 夜中散々悩んだ末、答えは出た。島田に迷惑はかけたくない。気軽なお付き合いにあんな重たいオマケは絶対要らない。だから、断って、それから。

(仕事……辞めないと駄目だろうなあ)

 考えるとさらに落ち込んだ。さくらだって辞めたくなどない。居心地のいいあの空間を手放したくなかった。

 断ったからといって、島田はそんなことは望まないだろうけれど、振った相手と一緒に仕事ができるほどさくらも図太くない。となるとまたバイトを探さなければならなくなる。

 こんな条件の良いバイトがあるとは思えないだろうからきっと生活も苦しくなる。

 第一さくらが就職するまでの三ヶ月だけ雇ってくれるようなところなど、見つかるだろうか。

 そこまで考えて、さくらは再び頭を床に打ち付けた。

(っていうか、就職も決まってないのに。――あと三ヶ月で決まるのかなぁ……)

 就職の事を考えたとたん、何かが心の隅っこに引っかかった。だけどそれを打ち消すくらいの勢いで不安が押し寄せ、母の言葉が浮かび上がる。

(確か、実家の近所に求人があったとか言っていなかったか……。もういっそ、家に帰ったらバイトもせずに、今ほど干渉もされずにのんびり過ごせる――……)

 ついそんな未来に思いを馳せかけ、

「うおう!」

 さくらは三たび床に頭を打ち付けた。

(何弱気になってるわけ!? おかーさんの思うツボだよ、それじゃ!)

 島田から逃げれば逃げるほど、なぜか母の元に吸い寄せられている気がする。

 だからと言って、さくらとしては島田にはどうしても迷惑はかけられない。重荷は背負わせられない。

 昔夢見た。さくらと一緒に母の束縛から逃げてくれる人と巡り会えたら、と。でも、そういった相手に巡り会う事など無理なのだ。現代の日本にそんなドラマチックな恋など落ちているわけがない。

「やっぱ、どう考えても無理だって」

 さくらは改めて言い聞かせると、起き上がって窓を閉める。バッグから携帯を取り出すと、部屋の真ん中で胡座をかいた。登録後一度もかけた事のない番号を呼び出す。呼び出し音を数えながら、大きく息を吸込んだ。


『……はい』

 掠れた眠そうな声だ。いつもと違うように聞こえてさくらは怯んだ。

「――もしもし、あの。こちら島田さんの携帯ですか?」

『さくらちゃん?』

 間違い電話ではなかった事に安心する。時計を見ると十時だが、休日の朝だ。もしかしたらまだ寝ていたのかもしれない。

「すみません、起こしちゃいましたか?」

『いや――昨日から寝てないから』

「え、なんで」

 思わずそう言ったものの、さくらだって眠れなかった。島田もそうなのかもしれない、すぐに思い当たる。

 島田は答えずに逆に問う。

『――返事?』

「……はい」

『月曜日でも良かったのに』

「モヤモヤするのって、嫌なんで」

『今、家? ……もし良かったら、出て来れない? ランチでもどうかな』

 島田はそう誘ったが、さくらは断る。ひと言で終わる話だ。

「いえ、あの――すみません。私、……島田さんとお付き合い出来ません」

 島田は少し黙り込んだ後、尋ねた。

『俺じゃ、だめってこと?』

「いえ、逆です。私は、島田さんには相応しくないって話です。島田さんにはもっと素敵な女の人が似合います」

『素敵ってどういう人の事?』

「わ、わかりませんけど、美人で、頭がよくって――ほら、河野さんみたいな」

 とにかく変な付属品のついていない女だ。

『俺から見ると、さくらちゃんは美人だし頭もいい。十分魅力的だけど』

 歯の浮くような台詞にさくらは頭が沸騰しそうだった。

「それはきっと勘違いです。内定の一つも取れないような女ですよ」

『そりゃ、採用する側に見る目がないだけだろ』

「持ち上げても駄目です。と、――とにかく、無理です」

 さくらは断固固辞する。

『なんか納得いかないな。説得力ない』

 引き下がらない島田に、さくらは仕方なく本音を漏らす。気は進まないけれど、分かってもらうには事情をちゃんと知ってもらうしかなさそうだ。

「島田さんだって、知ってるでしょう? 私の母」

 島田は小さく息をついた。

『……やっぱりそういうことか』

「普通のお付き合い、出来ません」

『別に普通を目指す必要ないし。俺、今まで通り、さくらちゃんの事情に合わせるつもりだよ。お母さんを変に刺激するつもりもない』

 意外に理解のある島田の言葉に、さくらは揺れた。

「でも……デートでも遅くなったり出来ないですし、ええと、島田さんが望んでるようなこと――」

 さすがに言いよどんだ。恋人でもない男性相手にこんな話をしてもいいものだろうか。いや、恋人だとしてもちょっとキスをしたくらいで気が早すぎないか。もしかしたら、自分もそう望んでいるように思われるかもしれない。

(ああああ、私、一体なに言ってるわけ!)

 電話口でさくらは赤面する。

『あー……俺、そんなにがっついて見えた?』

 がっかりしたような声にさくらは動揺する。

 だがここまで言ってしまったのならば、いっそ勢いで主張してしまった方がいい。

「ええと、……つまり、そういうの、多分無理です」

『要するに、結婚まではできませんって話?』

 さくらは耳まで赤くなりながら、頷く。

「そう、です」

 できちゃった結婚がおめでた婚や授かり婚等と呼ばれるようになり、婚前妊娠が二十五%という現代では時代錯誤な話だ。さすがにここで引き下がるだろうと思った。だが、島田は違った。

『じゃあ、結婚する?』

 さらっと言ってのける彼に、さくらは唖然とする。

「じょ、冗談きついっす……」

『別に、冗談でもないけど――まあ、結婚ってなると、今は俺の方に問題があるか』

「島田さんに?」

『うん。とにかく、断られる理由は分かった』

 島田は問いをはぐらかすが、とりあえず話がつきそうで、さくらはほっとした。

「納得してもらえるんですね?」

『いや、逆にそういうことなら、諦める必要全くないだろ?』

「どうして」

『君は、お母さんの事さえなければ、俺と付き合いたいと思ってるから』

「…………そ、そんなことないですって!」

 図星を指されてぎくりとした。話が振り出しに戻りそうになり、さくらは慌てた。そこに、島田の静かな声が響いた。

『目を開けて、よく周りを見て。さくらちゃん、君はもうすぐ卒業するんだよ。大学からも、お母さんからもね』

「え? 卒業?」

 一瞬何を言われているか分からずに、聞き返す。島田は新人に仕事を説明するような丁寧さで、話を始めた。

『卒業して就職したら、君は自由だ。だって自分の力で生きていけるんだ。もう束縛される理由はない。俺は、今でさえ君が干渉されるのはおかしい気がしてるくらいだ。奨学金とバイト代で既に自活しているのに、どうしてさくらちゃんは“籠”から逃げ出さない?』

「逃げられないから、です」

 どうしてそんな風に責められるのか分からず、呆然と答えた。

『いいや。逃げようとしてないだけだ。――例えばね。君が気にしてる、門限も突然の訪問も怖くなくなる方法はあるよ? 今のアパートを出て、別の家を借りる。今のところみたいに気軽に来れないようなところを探すんだ。そして今度は理由を付けて固定電話を引かない。もしくは携帯への転送機能を使う』

 考えもしなかった事を立て続けに言われて、ぽかんとする。

「え、でも、そんなお金ないですし、家を借りるのは、保証人とか要りますし」

『保証人には俺がなってあげるし、お金は貸す』

「返せないので借りられません!」

『就職するんだから、大丈夫』

「就職まだ決まってないですし!」

『就職は、決まるよ。近いうちに』

 島田は何か予言するように言った。

『俺、この間聞いた。さくらちゃんがお母さんに言ってるの。“失敗してもいいんよ。なんもせんで後悔するくらいやったらね”って。ここで俺から逃げても、将来同じ事が起こる。その度に後悔しつづけるのか?』

「あれは――、仕事の事ですし」

 さくらはむきになって否定するが、島田は譲らない。珍しく鋭い声でさくらを責めた。

『仕事も恋愛も、同じ事だ。人を好きになるのに親の了承なんかいるかよ。君はもう、子供じゃない。自分のことくらい、自分で決めるんだ』

「…………」


 ――もう子供扱いせんとって。自分のことくらい、自分で決めるって!――


 島田に言われたからではない。自分で放った言葉に責め立てられ、さくらは何も言えずに涙を拭いた。

(束縛、されてたんじゃない。私、自分で選んで籠の中にいたんだ)

 依存していたのは母だけではない。さくらもまた母に依存していた。母との関係が壊れるのが怖かった。気づかされて、途方に暮れた。

 そんなさくらに島田は優しく囁いた。

『一人で立つのは怖いかもしれない。でも勇気を出して。一歩ずつでいいから離れてみて。転びそうになったら、俺が支えるから』

 聞いたとたん、さくらはもう駄目だと思った。ギリギリで踏みとどまっていたけれど、堕ちた。

「……すみません、島田さん」

 鼻をすすりながら言うと、島田は僅かに怯んだ声を出した。

『…………何? まだ駄目って言うわけ?』

 さくらは、島田のランチの誘いを受けていれば良かったと、残念に思う。今の言葉は、顔を見て聞きたかった。なんて勿体ない。

「違います。なんか……会いたいです、今すぐ」



 それを聞くと島田は『すぐ行く』と電話を切った。そして十五分ほどしたあと、再び電話が鳴る。

『表のコンビニにいるから』

 まだ着替えて顔を洗ったところだったさくらは慌てる。準備が全く追いつかない。「ちょっと待ってて下さい!」とすぐに化粧をしてアパートを飛び出した。

 コンビニには見覚えのある車。その隣に立つ島田は、昨日と同じくジーンズで、薄手のカットソーの上にカーディガンを羽織っている。

 相当急いで来たのか髪には軽く寝癖がついていた。さくらが「寝癖ついてます」と笑うと、島田は気まずそうに頭を掻いた。

「乗って」

 助手席のドアを開けられて、大人しく乗り込む。島田がそのまま運転席に座り、ポケットからカフェオレを出した。

「そこで買ったんだ。ちょっと冷えたかもしれないけど」

「ありがとうございます」

 渡される時に手が触れる。初めて触れる手は男の人らしく、大きく固かった。

「ええと、――付き合ってくれるんだよね?」

 じっと見つめられ確認されて、さくらは姿勢を正し、厳かに頷く。

「どうぞよろしくお願いします」

 島田はさくらの手を缶ごと一瞬強く握った後、「こちらこそ」と真面目な顔で言って車を出した。

「どこに行くんですか?」

 さくらが問うと、彼は「とりあえず、朝メシ兼昼メシ」とにっと笑った。

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