35 告白と論理演算
微かに泡立つ淡い色のカクテルはモスコミュールだそうだ。ライムの輪切りが浮いている。食前にビールを一杯くらいしか飲まないさくらは、いつも酒よりも食べ物に目移りするためカクテルには全く詳しくない。炭酸の入った甘く軽い飲みもので、ジュースのようだ。それほど酒が好きではないさくらでもたくさん飲めそうな味だった。
緊張のあまり異常に喉が渇いていたさくらは、料理がまだだというのに、すでにグラスの半分ほどを空けていた。
緊張の理由はいくつもあった。
その一。島田のスーツ以外の姿を見たのは初めてだったこと。そしてその姿がいつもとは違えど、素敵だったことだ。
髪型をラフに崩し、黒の薄手のセーターにヴィンテージジーンズ。足元はショートブーツ。まったく気取っていないのだが、おそらく質が良いものなのだろう、なぜだかスーツよりも高そうに見え、そのせいか学生にも見えなかった。
その二。今いる店は、島田のそんな服装でも入れる店だ。以前歓迎会で来たことのある店、『1969』である。今日の席はカウンターではなく、奥のテーブル席ではあったけれど。
店に連れて行ってもらってさくらは少なからず動揺した。
島田は「ここ、本当に美味いんだ。この間は食い逸れたから」と苦笑いしていたが、さくらは最初に夕食に誘われた時の事を思い出さずにいられなかった。
どうやら島田のお気に入りの店。こんな風に二度目の誘いがあるならば、あのときの誘いはやっぱり歓迎会じゃなかったのかも。そんな気がして来てしょうがない。
そして。その三にして一番の理由は、島田にこれから言われるであろう言葉に、さくらが妙に怯えてしまっているからだ。
件の残業事件の翌日、研究室で友人二人に相談したものの、狂喜乱舞した二人が言うことは程度は違えど似たようなことだった。
『ニンニク料理は避けたほうがいいけど、和食以外にあたったらほぼ入ってるから、基本的に歯ブラシ持参。りんごジュースも!』
と広瀬より。
『とりあえずパンツは新品にしておけ。あと絶対上下セットのヤツね』
と藤沢より。
さくらはその手の心配は絶対ないと言い切ったが、念には念を入れろとのこと。
二人とも助言に関する経験はあるのだろうか。いやあるからこそのアドバイスなのだろうが、そこのところを問うと、上手くいけばまた相談に乗ってあげると躱されてしまった。
もっと別の相談――例えば島田がさくらを誘った理由についてなど――をしたかったというのに、そんなの分かり切っているとあっさりと飛ばされた。そして服は何がいいと勝手に盛り上がったあげく、最後に重要なことだからとそれぞれに耳打ちしてくれたのだ。
助言を鼻で笑いたかったさくらだが、結局日曜日にこっそりと買い物に行ってしまった。バッグの中にはしっかりと買い込んだ歯ブラシセットとりんごジュースが入っている。そしていつもより綺麗目な服の下には、清水の舞台から飛び降りるような気分で買った、給料の十分の一ほどの値段の下着。余所のお嬢さんはどうか知らないが、金欠のさくらにとって大奮発である。
(私は、何か期待してるわけ?)
告白もされてないのに、いや、もしかしたら仕事の話に終始して告白などされないかもしれないというのに、気合いの入った下着を身に着けている。食後に歯を磨こうと思っている。客観的に見ると馬鹿らしくて泣けて来る。
(いいよ、どっちも無駄になるわけじゃないし!)
歯ブラシは家で使えばいいし、りんごジュースは飲めば美味しい。下着は洗ってしまっておけば、いつか使うかもしれない。使う機会がなければ、勿体ないが普段使いにすればいい。
ぐちぐち考えていると、島田がメニューをとってカクテルの追加を促した。気が付けば一杯目が空になっていた。
「何を飲む?」
「ええと、詳しくないので。同じのでいいです」
いつもはソフトドリンクといくところだが、珍しく二杯目を頼む。すでに少しフワフワとした気分だったが、飲んでいたほうが気が紛れそうだった。
「じゃあ、ビールとモスコミュールを一杯ずつ」
島田が注文し、さくらは問う。
「島田さんはいつもビールだけなんですか?」
「ウイスキーとかも飲むけど、俺そんなに酒が強い方じゃないし。さくらちゃんは?」
「飲む機会があんまり無くて。両親が飲む方なんで、弱いわけじゃないと思いますけど」
ビールなら三杯くらいは平気だったと思う。そう言うと、島田は少しほっとした様子だった。
そしておもむろにメッセンジャーバッグから茶封筒を取り出す。
「なんですか? それ」
「――この間の仕事だけど」
さくらの問いに答えず、島田は勝手に話を進める。何か関係があるのだろうかと不思議に思いながらも、さくらは話題に乗った。
「上手くいくといいですね」
今週の始めに島田が客先に案を持ち込んだ。現在検討中で採用不採用の結果待ちなのだ。入試の合格発表のような気分を久々に味わっているところだった。
「全力は尽くしたし期待して待とう。もし今回駄目でも、あのデザインはいつか絶対使えるよ。次回のカタログにも載せようと思ってるし。……それにしても、さくらちゃんがあんなイラスト描けるって知らなかったな」
「履歴書に書かなかったですかね」
さくらは思い出そうとするが、あれは夏のこと。記憶は曖昧だ。
「使えるアプリとしか書いてなかったかな。……他にも書いてなかったことはあったけど」
「そうですか?」
何か重要な書き漏らしがあっただろうかと首を傾げる。
「履歴書で分かることは、住所、名前、電話番号、学歴、職歴、特技。――それから生年月日くらい、かな」
最後に付け加えられた言葉に頬が染まる。誤摩化すようにカクテルに手を付ける。
島田は何食わぬ顔でビールを飲むと話を続けた。
「書いてくれれば良かったのに。そうしたらもうちょっと早くからそういう仕事回したんだけど。趣味も書く欄はあるだろう?」
さくらは苦笑いをする。絵を楽しく描けるようになったのは、本当に最近のこと。
「…………しばらく描いてなかったんです。絵は、ずっと前に、諦めていたんで」
「え?」
何を話そうとしているのだろう。さくらは自分で自分に問う。だが、飲んだ酒のせいなのか、口が普段より軽くなっている。
「高校の時、私、美術部だったんです。でも、私の実力じゃ絵で食べていくのは無理だって親に言われて、そっち方面の進路諦めたんです。たまたま成績は程々に良かったんで、大学も無事に合格したんですけど……でも、そのことをずっと悔やんでて。どうしてあのときもっと真剣に訴えなかったんだろうって。やってみなければ分からないって頑張れなかったんだろうって」
それを思い出させてくれたのは島田の言葉だった。
(ああ、私、伝えたかっんだ)
伝えそびれていた感謝の気持ちが口から出る言葉に乗る。
「だから、久々にああやって描けて、私、すごく嬉しかったんです。大事な仕事だったのに、任せて下さって、ありがとうございました」
島田はしばし絶句していた。そんなに驚くことだろうか? さくらが怪訝に思って様子を伺うと、
「生物が専攻だから、てっきり…………なんだ、じゃあ、そういうことなら」
島田は頭を掻きながら、大きく息をつく。そして、ひどく真剣な顔でさくらを見つめた。
「あのさ、変なこと訊くかもしれないけど」
「なんですか?」
雰囲気に押され、さくらは身構える。
「――規模がすごく小さい会社で、給料は少ない。残業は多い。だけど、好きな仕事ができるところ。それと大会社で、給料も高くて残業もない、比較的楽な仕事。さくらちゃんなら、どっちを選ぶ?」
「小さくても好きな仕事を出来るところです、けど?」
さくらは即答した。
「そっか」
島田はふっと笑うと、先ほど出したばかりの茶封筒をバッグに仕舞い込んだ。
「それ、なんなんです? すごく気になるんですけど」
「いや、どうもこれは必要なさそうだから」
「見せて下さいよー。思わせぶりなのは困ります」
むっと口を尖らせると、島田は「あ、さくらちゃん、ちょっと酔ってる?」と笑って誤摩化した。
ちょうどそこに料理が運ばれて来る。空になったグラスを見て店員が注文を訊くので、さくらはもう一杯モスコミュールを貰うことにした。
生春巻きに始まり、白身魚のカルパッチョ、スペアリブの香草焼きにオマール海老のクリームパスタ。多国籍料理の店らしく出て来るものは国籍不明な感じだったが、全て美味しかった。
そして三杯目のカクテルでさくらに完全に酔いが回るころ、それは運ばれて来る。
「あ、ケーキ……」
小さいけれどホールケーキだった。店員の手の上のそれをうっとりと見つめていたさくらだが、テーブルに置かれたものを真上から見て唖然とした。
ケーキの上には『Happy Birthday』の文字が入ったプレートがあった。
島田がくすりと笑い、店員から受け取ったライターでろうそくに火をつける。
「二十二歳の誕生日、おめでとう」
島田の目の中でろうそくの炎が揺らめく。息をすることをしばらく忘れて、さくらはそれに魅入っていた。
ケーキの味もよく分からないまま、それでも夢中で食べた――いや夢中であるふりをした。
あれ以上彼と見つめ合えば何かを言われそうで。島田を見ていられなかったのだ。
会計を終え、店を出る。近道しようと誘われるままに入った公園は、寒さも手伝って人気が少ない。日暮れが早い時期、八時過ぎでも真夜中にも感じた。
オリオンの輝く夜空から吹きおりて来る風は氷のように冷たいのに、頬が熱くてたまらなかった。酒も入ってのろのろと歩くさくらの隣、島田の顔も少し赤い。
深呼吸で体の中の熱を追い出すと、さくらは思い切って口を開いた。訊くのは怖いけれど、訊かないまま今日を終えるわけにはいかないと思ったのだ。
「どうして、こんな風に誘ってくれたんですか」
ようやく口に出せた問いに、二人の間にあった沈黙が消えた。
島田は少し考えてから答える。
「俺さ、……さくらちゃんを正々堂々とメシに誘う理由が欲しいんだよね」
「理由?」
予想した答えと違ったのもあるが、まず答えになっていないような気がして、さくらは拍子抜けする。
島田はうん、と頷く。
「まず君は理由がないと誘いに乗って来ないし。最初は歓迎会、次は独身男の寂しい夕食のメシとも。逆に理由があればすぐに乗るし。……上原の誘いもお礼って言われてほいほい受けてた」
「…………」
これはもしかして酔っているのだろうか、妙に愚痴っぽい。島田の意外な一面にさくらは驚く。
「俺は単純にさくらちゃんと一緒にこんな風に美味いメシを食いたかった。いつもの店じゃ話も出来ないだろう? 仕事頑張ったら、ご褒美とかそういうのでもいいけどさ、毎週だと、理由もネタ切れ」
島田はそこまで言うと、真面目な顔になる。
「だから、俺は、君と付き合いたい。それなら一緒にメシ食べる理由にもなるだろう?」
理屈っぽいが穴のある島田の告白(?)に、さくらは戸惑う。普通ならばときめくはずの場面のはずなのに、何かが引っかかって冷静になってしまう。
(何か、話の組み立て方がおかしいような……)
(一緒にご飯を食べるためには、付き合わなければならない……ってのは『真』じゃないよね)
浮かび上がりそうになる場違いな論理演算を追い払って、尋ねた。
「あの、つまり『メシとも』を続けたいから、私と付き合いたいんですか? それだったら、別に付き合わなくてお友達でも――」
「…………」
さくらの言葉に島田が不機嫌そうに眉を寄せる。
(あ、怒らせた)
そう思った直後、ふいにさくらの唇の上に柔らかい感触が降って来た。
「当然、メシだけじゃない。“こういうこと”は『お友達』じゃ出来ないよな?」
幻かと思うくらいの短い時間だった。呆然となったさくらが真っ先に考えたのは、
(あ、歯磨くの、忘れた)
ということ。
そして、次になぜかぽんと浮かんだのは、
(どうやって断ろう)
ということだった。
島田をどう思っているか。
嫌いではない。むしろ好きなのだと思う。
だけど素直に飛び込めないのは、過去のトラウマのせいなのだろう。あの母の妨害に耐えられる男がいるとはどうしても思えない。
島田は大人の男性だ。つまりさくらとも大人の付き合いを望んでいるだろう。キスをしたということはそういうことだと思う。となると、今後、確実に障害は出て来る。
早い門限、家の電話にアパートへの突撃。恋人がいない状態でも、あれだけの騒動が起きるくらいなのだ。恋人が出来たと考えただけで頭痛がする。
さくらは慣れているからいい。――だけど、どれだけの害を島田に与えるか。
『ごめん、無理』
昔の彼氏の顔が唐突に浮かんで胸に鈍い痛みが走った。名前も思い出せないのに、あの別れの言葉だけは忘れられない。
さくらは項垂れる。
――二度とあんな風に振られたくなかった。あんな風に傷つくなら、最初から付き合わない方がいい。
友人二人の言葉にも乗切れなかった理由が分かって妙に納得した。さくらは、恋愛に憧れはあるけれど、彼氏は欲しくないのだ。
矛盾を抱えて黙り込んでしまったさくらを見て、返事はすぐじゃなくていいよと島田は言った。その言葉に甘え、さくらはその晩悩み抜いた。




