34 距離感の取り方
アパートまでは地下鉄で移動した。上原は「こういうのは上に任せておけ」と家に帰らされ、島田と二人きりだった。
家の近くの駅まで辿り着いたところで、さくらはもう一度断りを入れた。
「やっぱり一人で大丈夫です。ほら、きっと揉めます。下手したら電車なくなりますし」
だけど、島田は聞き入れない。
そして駅前の道をぐるりと見渡すと、白いワンボックスカーの前に駆け寄った。
「悪い。助かる」
窓が開き、現れた顔にさくらは仰天する。
「しゃ、社長!?」
車の運転席にいるのは河野だった。普段のスーツ姿ではなく、シャツにジーンズというラフな恰好。だが、化粧はしている。
「けいちゃん、一個貸しね? クリスマスは期待してるからー」
にやりと笑うと、河野は「片桐さん、家はどこ?」と尋ねた。
「あ、そこの角を曲がって少し行ったところです」
さくらが答えると、河野は「案内してくれる?」とさくらと島田に車に乗れと促した。
家の前のコンビニで車が止まる。広い駐車場には見覚えの有る車。そして店内で迷惑にも立ち読みをしている中年の女性を見つけると、さくらはコンビニに飛び込んだ。
「遅いやないね。寄り道しよったんやろ」
さくらに気づくなりすぐに詰め寄る母に、さくらは反論した。
「これでも早いよ」
険悪な雰囲気の親子に、上品な高い声が割り込む。
「――片桐さんのお母さまですか?」
声のする方を振り向くと、河野がよそ行きの笑顔を浮かべて立っていた。
(あれ? 着替えた?)
そう思えるほど印象が違って、さくらは思わず河野の姿を注視する。違いはすぐに分かった。一枚黄色と黄緑の幾何学模様のスカーフが足してあったのだ。それだけなのに街中を歩いていてもおかしくない姿に見える。
「あなたは?」
母早百合も釣られてよそ行きの態度になる。一応冷静さを取り戻した母に、さくらは安堵した。
「初めまして。私、SHIMADAの社長で河野と申します」
ぱきぱきとした態度で名刺を差し出され、母はおどおどと受け取る。怪訝そうな表情で洒落た名刺を凝視する。『名刺は本人と思え』と教えられたことを思い出すと、裏表じっくり検分している母の態度は失礼に当たる。冷や汗が出る。
だが河野は涼しい顔だ。
「本日はお嬢さんを長時間預からせていただくことになってしまって、申し訳ありませんでした。今日の仕事は片桐さんにしか出来ないものだったので、無理に引き止めてしまったのです」
「はぁ……さくらにしか出来ない仕事……」
母は納得いかない様子だ。
「会社では片桐さんの能力を買っています。私にも娘がおりますので、ご心配はとてもよく分かりますが、遅くなる時は今日のように家までお送りいたしますし、学業に支障が出るようなことは極力ないようにしますので……。どうかご理解頂けるよう、お願いいたします」
流れるような謝罪、そして丁寧な申し出に、母はさすがに押し黙った。娘を持ち上げられ、その上、安全の保証も得られた。文句の付けようがないのだろう。
「分かりました。娘をよろしくお願いします」
母はそう言うと、「じゃあ、お父さんが待っとるけんね、帰るけど……」とすごすごと引き下がった。コンビニを出て、表に停めていた車で逃げるように走り去る。
「……なんとか、なったかな?」
車が見えなくなったところで、島田が河野の車から降りて来た。
「任せてって――河野さんを呼ばれたんですね……」
なるほどとさくらが納得していると、島田は少し悔しそうに顔をしかめた。
「本当は、俺で何とかなれば良かったけど、今回は女性の上司に任せた方が拗れない気がしたからね」
確かにあの場で島田が出て行ったらこう上手くは話が纏まらなかった。以前の話をきちんと覚えていたのだろう。作戦勝ちだ。
「それに、俺があのおかーさんとやり合うのは、もっと別の機会かなって」
島田がふっと苦笑いを浮かべるが、さくらは意味を計りかねて首を傾げた。
と、そこで河野が慌ただしく車に乗り込む。
「じゃ、私帰るから!」
「娘さん、いらっしゃるんですよね? それなのに、すみません。すごく助かりました。ありがとうございます」
「いいのよ」
今度何かお礼をしよう、そう思いながらさくらがぺこりと頭を下げると、河野は嬉しそうに頷いてエンジンをかける。
「あ、おい、俺も乗せてけよ! もう終電ないかも」
島田が焦って車に乗り込もうとするが、河野はにやりと笑って、ドアに鍵をかけた。
「ここまで来てもう帰る? 何とぼけたこと言ってんの。けいちゃん、あとは上手くやりなさいよ?」
島田は去り行く車を見送りながらくしゃくしゃと髪をかきあげる。
「あー……思ったよりでかい貸しつくっちまった」
そう言って、スマフォを取り出すと何か調べ出した。
「んー、今が十一時半……。終電、この辺早いな。やっぱり出た後か」
困ったように呟く島田にさくらは慌てた。
「どうするんですか?」
「……タクシーかな。とりあえず、家まで送る」
「え、すぐそこなんで、大丈夫ですよ」
「時間が時間だからね」
どうしてか今日の島田はさくらの遠慮を受けてもまったく譲らないようだ。
さくらは歩きながら悩む。
(えーと。こういう場合って、家に上がってもらってお茶くらい出すもんかな……)
幸い部屋は片付いているはず。上がってもらうのも問題ないけれど――
しかし、相手は男性である。一人暮らしの家に入れるというのは、まずい気もする。しかも今は深夜である。
(でも、終電もないような状態で放り出すのって有りなのか?)
(っていうか、家に上げないって、警戒し過ぎで逆に失礼? 自意識過剰?)
距離感の取り方がさっぱり分からず、さくらは葛藤し、動揺する。
藤沢に電話したい。だけどさすがに電話をするには非常識な時間帯。
悩んでいる間にアパートに辿り着く。鍵を取り出し、一歩後ろの島田を振り返る。
「あ、あの、コーヒーでも飲んでいきます、か」
ここはやはり礼を尽くすべきだろうという結論に達したさくらは申し出た。島田は一瞬ぎょっとした顔をして、さくらをまじまじと見つめた。
しばしの沈黙の後、島田はさくらに尋ねる。
「えーと…………もし、ここにいるのが、俺じゃなくて河野でもそう言った?」
「え、ああ、はい」
その場合は何も悩まずに上がってもらったと思う。
島田は困ったようにもう一度問い直した。
「じゃあ、上原でもそう言った?」
「……」
どうだろう。逆にほいほい上げてしまうかもしれない。おそらく島田だから一番悩んでしまうのだ。
さくらが考え込むと、島田は僅かに肩を落として、ため息をつく。
「そういうのは、男を勘違いさせるから、やめた方がいい。危ないよ」
静かに諭されて、さくらは殊勝に謝った。どうやら判断を間違ったらしい。
「す、すみませんでした」
「あと、本当は、こうやって家まで付いて来させるのも駄目。鍵を見せるのも。押し入られてしまう」
「はぁ?」
だが、強引に付いて来たのは島田だろう。彼の真意が分からず首を傾げる。
と、島田は一歩さくらに歩み寄り、扉に手をついた。涙袋がくっきりと見える位置に彼が立ち、さくらはぼんやりと島田を見上げた。僅かに伏せられた目に睫毛が影を落として妙に艶かしく、思わず見とれる。
(あれ、でも、なんか、近いような)
はっとして僅かに後ずさったとたん、扉に背が付き逃げ場がないことに気が付く。にわかに慌てると島田が苦笑いを浮かべた。
「ほんと――――どこもかしこも隙が多いな。参った。……俺、帰るよ」
そう言って一歩下がった島田に、さくらは胸を撫で下ろす。
「……あ、はい。お疲れさまでした。今日はありがとうございました」
そう言って見送ろうとすると、島田はふと立ち止まる。そして首だけ振り返ってさくらをじっと見つめた。
「肝心なこと忘れてた。来週の土曜の夜、空けておいて」
「土曜日ですか?」
思わぬ休日の誘いに一瞬上原との寿司が頭をよぎる。
(もしかして、今日の残業のご褒美とか?)
だがそんな考えも島田の次の言葉ですぐに掻き消された。
「十二月十二日」
「――え、あの、でも」
日付を聞いて、そういえばと思い出し、さすがに胸が跳ねた。動揺して口ごもると、島田はムッとした顔になる。
「ひょっとして先越されたかな? もう予定ある?」
「……ないです。ないですけど」
どうして、その日に、私を誘うんですか――という問いが喉に引っかかっている。島田は分かって言っているのだろうか。その日がさくらにとって特別な日だということを。
「予定はないけど――都合悪い?」
「……そ、んなことも、ないです」
「じゃあ、約束」
押し切られるようにして頷く。
さくらが家に入るのを見届けた後、「じゃあ、戸締まりはきちんとして」と島田は背を向ける。言われるまま鍵をかけた後、さくらは扉に背を預けたまま大きく息を吐いた。急に胸がドキドキしてきて、堪えられずにしゃがみ込む。
この事態をどう捉えよう。
答えは出ているような気はするが、まさかという気持ちが大き過ぎる。
(とりあえず、あの二人に相談か)
幸い明日から三日はバイトはない。ゆっくり考えようとさくらは自分に言い聞かせた。




