33 残業と門限破り
そしてやって来た木曜日は、仕事の締め切りの日だった。
午後八時を回っても作業は終わらず、上原が心配そうに聞く。
「あといくつだ?」
「あと五つです」
一時間では無理な量だった。途方に暮れて上原を見ると、彼は小さく息を吐いた後島田に尋ねた。
「――島田さん、今日、残業していいっすか」
「頼む」
仕方なさそうに島田は頷く。さくらの方には目線を向けないが、彼は、さくらの作った原稿と上原の作った原稿を見比べていた。さくらが残業出来ないことに困っているのはひしひしと感じた。
「島田さん、……私も残業します。させてください」
思い切って口を開くと、島田がぎょっとした。
「え、でも、門限は?」
上原も顔をしかめて、「無理すんな」と言う。
「今日一日だけなら、なんとか誤摩化せると思いますから」
ここで仕事を放り出すことは出来なかった。
(これは私の仕事だ)
確かに上原でも出来るかもしれない。だが、残りの五つだけテイストが変わってしまうのは間違いない。もし、それでこの仕事が駄目になったら――そう考えたら、母の電話くらいなんてことない気がした。
少々怒られようと、やっているのはまぎれも無く仕事なのだ。やましいことは何もない。
携帯を出すと急いで短いメールを打つ。そして思い切って電源を切った。作業に集中したかったのだ。
(大丈夫。きっと)
沸き上がるどす黒い不安を押さえ込むように自分に言い聞かせながら、さくらはディスプレイに向かい、タブレット用のペンを握った。
作業が終わったのは十時半だった。三人でオフィスを出る。表の自動販売機で、島田がカフェオレを二本、そしてブラックのコーヒーを一本買う。カフェオレをさくらと上原に渡すと、「お疲れさん。助かった」と笑顔を向けた。
「上手くいくといいですね」
さくらは祈るように呟く。
「あとは俺の仕事だ。上手くいかせるに決まってる」
島田はにっと不敵に笑うと、駅方向へと足を進めた。
「とにかく今は急いで家に帰ること。門限随分過ぎてるから」
「あ」
門限と言われて母を思い出して、携帯の電源を入れる。とたん携帯が震える。予想どおりに留守電のせいだ。
「うわ」
五件のメッセージ有りと表示され、青ざめる。再生するのが恐ろし過ぎた。
さくらは道の端に寄って立ち止まると、二人に背を向けて通話ボタンを押した。ワンコールで繋がる。どうやら待ち構えていたようだ。
『さくらね! どうして電源切っとうとね!』
すぐに電話に出た母は例のキンキン声で叫ぶ。むっとしたが、出来るだけ穏便に話を進めて、さっさと電話を切りたかった。穏やかな声でなだめる。
「そんな、怒らんでもいいやん。仕事中に話とか出来んけん、切っとっただけやろ」
『とにかく――こんな時間まで外におらんで、すぐ帰ってきんしゃい』
母の声の後ろでトラックのエンジン音が聞こえる。母は外にいる。嫌な予感に、さくらは顔色を変える。
「なんなん? まさかやけど家の前におると?」
『メール見てすぐ出て来たんよ。会社の場所聞いとかんかったのが馬鹿やった。そんな遅くまで仕事させるところやったら許してないとよ? もう辞めさせてもらい!』
不穏な展開に驚く。そして思わず後ろを窺うと、二人は眉を寄せて心配そうに会話に聞き入っている。さくらは慌てて反論した。
「なん言いようとって。私、もう二十一よ? 今度社会人になるとよ? なのに個人の都合で無責任に仕事放り出せる分けないやろ」
『たかがバイトやないね。何むきになっとうと』
声がしんとした道路に響く。母の放言に恥辱で顔が染まる。穴があったら入りたいと思った。
「たかがって何よ。仕事は仕事やないん?」
『口答えせんと! 女の子がそんな遅くまで働くことはないんよ!』
「今時そんな甘えたこと言っとって、どこの会社が雇ってくれるって言うんよ」
『やけん、前から言いよろうが。実家に戻って来ればいいんよ。ちょうど近所の田中さんとこの工務店が事務員募集しとるよ? 給料はちょっと安いけど、家から通えるんよ。そこで楽に働けばいいやんね』
少し前まで喉から手が出るほど欲しかった職だというのに、全く心に響かない。
仕事の楽しさというのは楽さとは結びつかない。この一週間で、思い知った。
この三日間、家に帰っても夜中までスケッチブックに様々な花の絵を描きなぐった。そのせいで寝不足だったし、勝手に持ち帰った仕事だから給料は貰えない。それでも――楽しかった。
「楽? ……そんな仕事、なにが楽しいん?」
低い声でさくらが問うと、母の声が余計に尖った。
『あんたのために言っとうとよ? 黙って親の言うこと――』
さくらの反論を封じ込めようとする、お決まりの言葉。もう我慢ならなかった。
「もう子供扱いせんとって。自分のことくらい、自分で決めるって!」
『あんたは、まだまだ子供よ。なーんも分かってないとよ? 変なところ就職して、失敗したらどうするとね』
「――失敗してもいいんよ。なんもせんで後悔するくらいやったらね。もう放っとって!」
叫ぶように言うと、さくらは電話を切る。そして素早く電源を落とした。
肩で息をしていた。感情が昂って、目頭が熱くなった。後ろの二人がさくらの様子を窺っているのが分かる。少しでも自分を落ち着けようとする。
ふと、島田の声が響いた。
「――あ、啓介だけど。遅くに悪いけどさ、ちょっと頼みがある。奈々ちゃんはもう寝た?」
島田は携帯で誰かと話をしているようだった。さくらが振り返ると、すぐに背を向けてしまったので、声はそれ以降聞き取れなくなる。
(奈々ちゃんって誰だろう。それに『啓介』って、随分親しそう)
さくらはぼんやりと考える。芯が焼き切れたようになってしまって、頭が働かない。
上原が気遣うようにカフェオレを目の前に差し出した。島田に貰ってから飲まずに握りしめていた事を思い出して、プルタブを開ける。そして温くなったそれを一気に飲み干した。
糖分が染み込み、少しだけ頭が働きだしたころ、島田が「送ってく。お母さんにきちんと説明して分かってもらおう」とさくらを促した。
「……いいんです。プライベートなことでまで迷惑かけられません」
それに島田みたいな若い男を連れて帰れば、勘違いして逆上するのが目に見えている。だが、島田はさくらの拒絶にも譲らなかった。
「管理職って何のためにいると思ってる? 何とかするから。俺に任せて」




