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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
二.秋分のころ
32/91

32 冬へのスイッチ

 窓から見えるのは外で佇む二つの影。彼らの手元で点滅する赤いランプが何か、島田にはすぐに分かった。赤外線通信。これがないから、島田は最初に彼女の連絡先を取得出来るチャンスを逃したのだ。スマホは便利だが、ああいった手軽な通信機能がないことだけは不満だ。

 今まで、そんなことを思ったことはなかったのに。

 イライラが治まらない。誰に対して? 上原に? それともさくらに対して? いや、おそらく自身に対してだ。

(さっき、行きませんって言って欲しかったんだろう、俺は)

 そんな風に誘導しようとして失敗した。あまりの無様さに笑いが出る。

 自分相手だから誘いに乗ってくれたと思っていた。だが、おごられる理由があれば、相手は誰でも良かったのだ。

「……俺、何やってんだろ」

 二人並んで駅方向に向かう影を見つめつつ密やかに呟く。二人の間の適度な距離がせめてもの救いだ。島田とさくらの距離も端から見ればそう変わらないだろうが。

 一歩踏み出すのは島田が先か、それとも。

(上原は、距離を縮めるのが妙に上手いんだよな……)

 あの癒し系の外見、そして飾らない分かりやすい性格は、人に警戒心を捨てさせるのだ。

 上原の真意は分からないが、女性を二人きりの食事に誘う理由など、そんなに多くはない。

 焦燥感に胸を焼かれる。

 窓の外から目を逸らすと、スマホを出してカレンダーを開く。あと数日で十二月。印のついている日までの残りの日数を確認し、画面を閉じる。目線を上げると、ふとデスクの上の原稿が目に入った。

(……出来たって言ってたが、一日じゃ何ともならないだろうな)

 八つ当たりも手伝って、紙の束を睨みつける。

 だが期待せずに手に取り、原稿に描かれたサインを見て、島田は一瞬で煩悩が消え去るのが分かった。目に映る新鮮な形に目を見開き、胸ポケットから眼鏡を取り出す。


 *


 この地方の冬はある日突然のようにやって来る。上空に漂う寒気は、実は夜のうちに忍び寄っているのだが、昼間の日差しの暖かさについ忘れそうになることがしばしばあった。

 たった一日の違いなのに、十二月に入ったとたん、さくらは足元の冷えを急激に感じ、寝具に毛布を追加した。カレンダーをめくったときに冬のスイッチが入ってしまったのかもしれない。

 ストッキングはやめて、厚手のタイツに衣替え。そしてジャケットではなく紺色のウールのショートコートを衣装ケースから取り出した。それに落ち着いた赤のセーター、ベージュのツイードのスカートを合わせる。足元はショートブーツ。全て去年の冬にバーゲンで買ったものだったが、今年もなんとか活躍してくれそうだった。

 大学に行くだけならジーンズとセーター、それから厚手の靴下にするところだが、今日は久々にバイトがある日だったので、通勤に耐え得る服を着ているのだ。久々といっても、先日の出勤から休日を挟んで金曜日と月曜日を研究と就職活動で欠勤したというだけなのだが。

 卒業研究はみどりんの種菌を入手したことで、再び順調に進み出した。培養法も安定し、ミドリムシの中から一定量の葉緑体を取り出すことにも成功している。あとは論文に纏めていくだけだ。

 そして就職活動は以前より真剣に取り組んでいる。苦手で避けていた自己分析なども頑張った。

 自分の長所を考える、そして人の前で披露するなどなんたる羞恥プレイ。基本後ろ向きなさくらには苦行でしかない。しかしそれが出来る人間が、内定を掴んで来たのだ。『私には出来ません』と言ってしまう人間より、たとえ出来ることが少なかろうと、『私には〜が出来ます』と提示出来る人間が魅力的なのは当たりまえだ。

 しかしそう簡単に結果が出るほど世の中は甘くない。一度に届いた不採用通知にため息をつきながら、さくらは時間を見つけては一人、求職票とにらめっこを続けていた。


「片桐さん、ちょっといい?」

 出勤するなり、内勤だった島田が接客ブースへさくらを呼んだ。

 なんだろうと顔を出すと、彼の手元には先日上原と作った原稿が置いてある。

「これ、片桐さんが元のイラストを描いたって?」

「……あ、はい。そうです」

 眼鏡の下の厳しい表情に、先日の島田の怒った顔を思い出す。同時に『行ってくればいい』と突き放されて、全く引き止められなかったことも。

 たった三十分の短い食事。それを特別な時間だと感じていたのはさくらだけだったのかもしれない。そんな想像は、休みの間もふとした時に蘇ってはさくらを苛んでいた。

 ソファに向かい合って座ると、一瞬見つめ合う。島田は「この間は――」と何か言おうとした後、結局口ごもった。沈黙が落ちる。

 何を言われるのだろう。さくらは身構えるが、島田はさくらから一度目を逸らし、原稿に目を落とした。

「昨日、これをお客さんに見てもらったんだけど、他のデザインも見てみたいって依頼があって」

「え?」

「今回二個分――この『といれ』二案と『ゆうぎしつ』一案の注文を貰えた」

 島田は三枚の原稿をテーブルに広げる。それはさくらが考えた三つ編みの女の子を象ったサインと、同じサイズで作った男の子のサイン。そして子供が手をつないでいるイラストのサインだった。

「――ちゅ、注文取れたんですか!?」

 思わず声が裏返る。島田は力強く頷いた。

「特に『といれ』のサインが分かりやすいと気に入ってもらえた。もし出来るなら男の子用ももうちょっと工夫が欲しいそうだけれど」

 さくらは半ば呆然としながらも『男の子用、工夫』とノートにメモを取る。興奮で手が震え、僅かに文字が歪んでいる。

 島田も気のせいか、いつもより早口。そして声が僅かに掠れている。

「上手くいけば同系列の幼稚園でいくつか追加注文がありそうだ。それに、設計中の老人向けの施設に合うものを作れないかって。何号室とかじゃなくて、花の名前を部屋に付けるそうだけど、覚えやすいようにぱっと見て分かりやすい表示が出来ないかって言われて――」

 そこでくすくすと笑い声が割り込んだ。

「けいちゃん、ちょっと落ち着いて。片桐さんのメモが追いついてないわよぉ?」

 パーティションの影から河野がひょいと顔を出して、さくらに向かって笑いかけた。

「ごめんねぇ。久々に大きな仕事が取れそうだから、皆ちょっと浮ついちゃってるの」

 島田は一度大きく息を吐いて肩の力を抜く。お茶を飲み、掠れた声を整えた。

「上原にも案を出させてる。だけど、二人で出した方がいい案が出るみたいだから、協力してやって欲しいんだ」

 そこで黙ってディスプレイに向かっていた上原がちらりとこちらを向いた。さくらを見ると『でかした』とでも言いそうな顔でにっと笑う。

 僅かに眉を寄せる島田に、河野がからかい混じりの声をかける。

「こればっかりはしょうがないわよねぇ。大事な・・・お仕事だもん。背に腹はかえられないって感じ?」

 島田はぎろりと河野を睨むと、さくらの前に一枚の紙を置いた。

「とにかく――今週中にこのリストにある花のデザインを作ってもらいたいんだ。出来るか?」

 島田が差し出したリストには、椿、薔薇、百合など、三十ほどの花の名が並んでいた。

「……」

 思わず絶句する。この間も『といれ』のデザインつに一時間は費やした。形の漠然とした『ゆうぎしつ』の案を作るのはもっとだ。

 さくらはやるべき作業を頭の中で組み立てる。花を図鑑で調べ、トレース。そしてデフォルメするのにはきっとそれ以上の時間がかかりそうだった。今週は今日を含めて三日しか出勤出来ない。つまり九時間で仕上げる必要がある。

 無理だ――計算ではすぐさまそう答えが出た。

 それでもさくらは頷いていた。

「出来ます。やらせてください」

 絵を描く仕事だ。この間上原を少し手伝ったときでもワクワクした。その仕事が今度は自分にも任せられるのだ。断るわけがなかった。

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