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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
二.秋分のころ
30/91

30 麦茶とコーヒー

 さくらが久々に出勤したその日、珍しく島田は外に出ていなかった。眼鏡をかけ厳しい顔をした彼に上原がしかられている姿を見て、さくらは仕事モードの島田を思い出した。

「――んなこといわれても、出来ないもんは出来ないっす」

「お前のはやらないだけだろ。出来ないって簡単に言うな」

「っていっても、これだけ案を出して、全部ボツだったらさすがに凹みますって」

「俺は素材感をもっと大事にしろって言ってるんだ。下地のプレートが変わるんだからやり方を変えないと違和感が出る」

 難しい顔をして「俺はもう一回外に出て来る。明日までにあと十案出せ」と言って社を出る島田に、上原は大きなため息をついた。いつになく参っている。

「けいちゃんもねえ、ちょっと焦ってるのよ。それが駄目でも会社が傾くってことは無いからね。上原君、出来るだけやればいいから」

 寂寥感の滲み出る大きな背中に河野のフォローが入るが、「がんばりまっす」と上原の声は小さい。

 何となく声をかけ辛いままにさくらは作業に入る。妙に絡めばとばっちりを食いそうな雰囲気がありありと感じられたのだ。

 今日の仕事は机の上のメモに纏められていた。単純作業にほっとする。これならば上原から厳しい指導は貰わずにすむだろう。

(触らぬ神に祟りなしっと)

 そんな風に素知らぬ顔をしようとしたさくらだが、上原はまるでそれが不満とでも訴えるように難しい顔で唸り続けた。オフィスの冷蔵庫が壊れたかと思うくらいだった。

 鬱陶しい状況は河野が帰ってからも続き、「うぜえ」「くそ」などの独り言はいつもの量の倍、そして空になったコーヒーの缶もどんどんと増えていく。十五分置きくらいに下の自販機に買いにいくのだ。

 土色の顔色をした上原にさくらも心配になる。万が一ぶっ倒れてもらっては困る。上原の代わりはいないのだ。

「さすがに糖尿になりませんか、それ」

 上原が五本目のコーヒーを飲み干すのを横目で見届けると、冷蔵庫の自分の麦茶を湯のみに注いで持って行く。張りつめていた上原の表情が一瞬和らいだ。そして机の上の缶の行列を見てぎょっと目を見開いた。

「あー、確かに飲み過ぎたかも。今日は」

「今回の仕事、難しそうですね」

「まあな、なんつうか、今までやって来たことが全部否定された感じ」

 さくらはディスプレイを覗き込む。『おゆうぎしつ』『といれ』等の文字が、木製のプレートの上に並べられているが、フォントが妙に浮いている。それに、問題はフォントより違うところにありそうだと思った。文字だけのプレートならばいいが、絵が入ると最悪だった。いつものサインでは、雰囲気ぶちこわしなのだ。

『といれ』の上に、公衆トイレと同じサイン。『おゆうぎしつ』の上のイラストは適当なものが無いらしく、上原が作ったのか楕円を並べただけの花のイラストが配置されている。正直に言うと、面白みが全くない。

「……上原さんの持ち味とは違いますもんね」

「だろー? 今までオフィス向け作って来たのに、突然幼稚園とか保育園とか言われてもなあ」

 上原が愚痴を漏らす。さくらには弱みを見せなかった彼にしては珍しい。それだけ弱っているのだろう。

 上原はお茶を飲むと、「あー、お茶は案外後味がなくていいな。コーヒーは飲んだ時は美味いけど、後味が気持ち悪いんだよな。俺も麦茶にするかな」と呟く。

「缶コーヒーに入ってる砂糖って、全容量の半分って子供の頃聞いたんですけど、ホントですかね」

 さくらが続けて独り言のように呟くと、上原はげっと顔をしかめた。

「おっそろしいこと言うな」

「じゃあ、ブラックにすればいいんですよ」

「無糖は苦くて飲めない――じゃなくて、カフェインだけでなくて糖分入ってないと頭働かねえんだよ」

 前半だだ漏れた存外に可愛らしい本音に思わず吹き出しそうになる。

「いっそインスタントコーヒーにすればいいんですよ。安くて、砂糖も調節出来ます。一杯十円でどうです?」

 さくらが持参のコーヒーの瓶を取り出してにやりと笑うと、上原は渋々のように頷いた。


「いっそ実物トレースしたらどうですか? まだましかも」

 さくらはインスタントコーヒーで一服している上原に提案する。

「やってみたけど、俺、デフォルメが苦手なんだよな。単に写真加工しただけみたいになっちまって、ボツ食らった」

「じゃあどこからか適当なイラスト拝借するとか」

「意識低いな。著作権とか勉強してるか? 無断で商用利用すると訴えられるぞ」

 さくらは苦笑いして「冗談です」と誤摩化す。バイトとはいえ、この業界にいて意識が低いのは問題だと自分でも反省した。

「それじゃあ、こんなのどうですか」

 さくらはメモ帳を取り出すと鉛筆で簡単な花の絵を描く。上原が作ったものに似ているが、バランスを多少崩して描いてみる。花びらの形は、同じのようで同じでないのだ。向きも等間隔に広がるわけではない。手書きの良さはそういうところで、一見欠点に見えるものが味になるのだとさくらは思っている。

 上原はさくらのメモ書きをじっと見た後、

「『おゆうぎ』ってなんだろな。ま、とりあえず花じゃねえよな」

 とぽつりと呟く。やはり花の絵は適当に置いただけだったらしい。

「おもちゃとか、どうですかね。ぬいぐるみとか、スコップとか――それか、子供が手をつないでいるのとか」

 少し考えてさくらが答えると、

「それ、全部描けるか?」

 と上原が問う。

 さくらは「簡単なものなら」と頷いて、ノートを広げた。


 最初はさくらがノートに描いたイラストを上原がスキャナで取り込んで、加工トレースしていたが、上原が「直接ソフト使って描けるだろ」と作業を単純化した。

 ペンタブが初めて有効活用される。手書きとの違いに戸惑いながらも、十分ほど作業をするとスムーズに入力出来るようになる。アプリの図形描写のツールを使いながら、手書き風を残しながらもデフォルメを進めた。

 その間、上原は手書き風フォントを探し、試す。島田に電話をして購入していいか確認をとる。

「『といれ』で使うサインももっと丸みを持たせて、頭身を下げれば子供っぽくなるかもしれませんよね」

 大きめの丸に胴体は三角。全て色は赤だ。丸は頭で三角はスカートを履いた胴体だ。長丸で手足を付ける。だが何か足りない感じがして、「インパクトが無い」「可愛くない」と二人唸った。

 やがてひらめいたさくらは頭の隣に小さな丸を三つずつ左右対称に置いてみた。

「なんだこれ」

 上原が怪訝そうな顔をするので説明する。

「三つ編みです」

「ああ、……なるほど。分かりやすいな」

「頭に別色でリボンとか付けられたらもっといいんですけど。カラーは一色なんですよね」

「いや、二色までは使っていいと言われてる。だけど、絵と文字で一色ずつだ」

「絵で二色は難しいんですか」

「いや、予算の問題。今回はUV印刷だからな。インクも高いし色が増えると価格が割り増しになるから。多色塗りならいっそインクジェット使うのもあるだろうけど、耐久性がなあ……ま、その辺は島田さんに相談してみるか」

「なるほどー」

 初めて仕事の背景を教えて貰い、さくらは驚きながら話に聞き入った。今まで時間の無駄、労力の無駄だと印刷方法など口にしなかったのに。

 なんとなく認められたような気がして、さくらは急に嬉しくなる。

「これで十案そろったな。大体こんなもんか」

 ふと時計をみると、針は八時半を指している。上原が帰る時間をとっくに過ぎていた。

「もう八時半ですよ」

「あぁ。じゃあ帰るか。――腹減った」

「お疲れさまでした」

 さくらが席に戻ろうとすると、上原が何を思ったかさくらの背中に声をかける。

「なんならメシ奢るけど、仕事早めに切り上げねえか?」

「え?」

 聞き間違いかと驚いて振り返ると、上原はさくらの反応にぎょっとした様子だった。

「いや、今日の、礼だけど。……マジ助かったし」

「上原さんがそんなこと言うとか、槍が降りそうっすね」

 思わず本音が漏れると、彼は「悪かったな」と顔をしかめる。

「で、どうなんだよ。門限あるんだろ? 早く決めねえと」

「ええと」

 仕事を手伝ったのは事実だし、奢ってもらうのは正当な報酬だ。だがなんとなく気が進まないのはなぜだろう。どう答えようかと悩んだとき、低い声がオフィスに割り込んだ。

「――ただいま」

 開け放たれた玄関の扉の向こうにいたのは島田だった。

 

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