27 スケッチブック
暗い部屋に戻り、さくらは大きくため息をついた。
電気も付けずに、バッグをローテーブルの上に置くと、その脇にあったベッドに体を投げ出す。マットレスが軋みながらさくらの体重を受け止めた。ついでに重たい溜息までも。
(あー、全部お見通しって感じだったなぁ……)
あの後、さくらはまともに島田と話ができなかった。自分の未熟さが恥ずかし過ぎて。
どこでもいいから雇って欲しい――そう思って就職活動をしていた自分。しかし裏返せば、どこにもそれほどの情熱を見せていなかったということだ。島田はそんなさくらを見て来たかのようだった。きっと甘ったれだと思っただろうに、不快さの欠片も見せずに静かに諭してくれた。
(やっぱり、大人なんだなあ)
外見が幼かろうと、はっきりと歳の差を感じてしまった。
「好きになれそうな、仕事かぁ」
貰った言葉をかみしめ、耳に残る声をなぞるように呟いて寝返りを打つと、本棚の隅に追いやって埃をかぶっているスケッチブックが目に入る。釣られるように下においてあるダンボール箱も。高校の時にその道は諦めてしまったはずなのに、捨てることができなかった道具一式だ。
いつもならすぐに目を逸らしてしまうけれど、今日はなぜか目を逸らせなかった。
同時に封じ込めていた過去の苦い思い出が蘇ってくる。
あれは忘れもしない、高校三年の初夏――三年になって初めての三者面談の後だったと思う。
田舎の家独特のだだっ広い座敷で、父母を前に真剣な顔をして訴えるさくらがいた。
娘が突如起こした反乱に母は憤っていた。その隣で父は渋い顔をしたまま黙って聞くだけ。母に頭が上がらないのか、それとも同じ意見なのか、意見さえ持っていないのか。未だに分からない。
『私、絵を書く仕事をしたいんよ。やけん、――どうか芸術学部に行かせて下さい』
『芸術? そんな――食べていけるわけないやろ。せっかく成績もいいんやし、担任の先生もこのまま行けば国公立大も安全圏やって言ってたやんね。なら、そこ行って、普通に就職した方がいいに決まっとるよ』
さくらは首を振る。担任は進学率を上げることに必死なだけだ。さくらの本当の希望など聞いてくれなかった。
『でも、結局、どこも就職厳しいやん。それより、好きなことの方が絶対打ち込めるし、美術の先生も勧めてくれたんよ? これからは個性を生かす時代やって。……頑張るけん、お父さん、お母さん。どうかお願いします』
『でもねえ、そういう世界って成功出来る人間なんかほんの一握りやないね。わざわざ苦労せんでも、普通にOLして、絵は趣味で続けたらいいやないね』
『でも』
『でもやないよ。あんたのために言っとるんやけんね? だいたい、美術とか、どう考えてもお金かかるやろ』
『頑張って奨学金貰うから』
『奨学金って言っても、借金やないね。それで就職出来んかったら、どうするんね? 大金、どうやって返すんね?』
『……』
いくら訴えても頑に意見を変えない父母。さくらの描いた絵を誉めてくれた両親は一体どこに行ったのだろうか。あれは嘘だったのだろうかと空しさに項垂れた。
それ以上さくらは願い続けることができなかった。
食べていけるのは一握り。さくらがその恵まれた集団に入れる可能性など皆無だと思っている両親の様子に、さくらは自分に本当に才能があるのか、自信を持てなくなった。自分を信じることができなかったのだ。
好きなら何とかなる。努力し続ければ夢は叶う。そんなのは幻想なのかもしれない。そんな恐怖に打ち勝てなかった。さくらは親の説得さえ出来なかった。楽な道に逃げてしまったのだ。
さくらは結局絵を描くことをやめた。第二希望の夢に向かいはじめ、そして大学に合格した。だけど――空しさは消えなかった。
いくら頑張ってみても、自分の人生を歩んでいる気がしなかった。
それが親のせいでないことくらい分かっている。先の見えない恐怖に打ち勝てず、情熱を持ち続けられなかった自分のせいだと分かっているからこそ、辛かった。
ふ、とさくらは自嘲気味に笑う。
「あれだけ後悔したのに、ぜーんぜん成長してないなあ、私って」
逃げるように家を出て、現実から目を逸らし続けた結果だろうか。
さくらは起き上がると、本棚の隅に置いてあったスケッチブックの埃を払って、ほぼ四年ぶりに開いた。
水彩絵の具で描かれた、花や動物などの絵が眼前に浮かび上がり、酷く懐かしくなる。
色はまだ褪せていない。
じわじわとこみあげるものがあり、さくらはスケッチブックを抱きしめると、じっと目を閉じた。
瞼の裏にぱっと広がるのは島田の笑顔。そして耳にはあの温かい低い声が蘇る。
『希望どおりの仕事に就ける人間なんてほとんどいないけど、少しでも好きになれそうな仕事を選ぶことは出来るはずだ』
それは、
『好きなだけじゃ――どうにもならないことはたくさんあります』
以前さくらが言った言葉に対する島田なりの答えにも思えた。理想通りじゃなくても、全部を諦める必要など、決して無いのだ。
『頑張れ、さくらちゃん』
胸に染み込む言葉が、冷え込んでいた心を温める。
「島田さん、私、頑張ります」
自然頬が緩み、そして唇から前向きな言葉が溢れた。




