25 門の前で待つ男
研究室に戻るとちょうど藤沢と広瀬が寛いでいた。
「さくら、おかえりー」
スーツの上に白衣を着た広瀬がお茶を飲みつつのんびりと言う。
「あれ、わざわざ戻って来たの? そのまま帰るのかと思ってた」
今日、広瀬は内定式だったはずだと、さくらは疑問を口にした。
「午前中で終わったもん。午後丸ごと休むのは勿体ない。やることあるからさー」
それもそうか。追い込みなのは皆同じだとさくらは思い出す。
「さくらも大変だったね。ミドリン入手できたの?」
藤沢が労りの言葉をかける。どうやら桑原教授に話は聞いているらしい。
「うん。無事ゲットして来た」
ごそごそと発泡スチロールの箱を開けると、そのまま培養用の冷蔵庫の隅に入れた。保存容器の中の氷を流しに捨て、時計を見る。車を出て10分経過だ。ノロノロしているつもりは無いのに結構経っている。
「じゃ、じゃあ、私、帰るね。お先ー」
逃げるように鞄を手に取ると、藤沢が意外そうな声をあげた。
「あれ? もう帰るの?」
「えっと、うん。お腹空いたし」
深い追求を避け、曖昧に答えると、広瀬が顔を輝かせた。
「あー、ちょうど良かった! 今、藤沢と帰りに“ふきや”に寄ろうかって言ってたんだけど、じゃあ、さくらも一緒に行かない?」
「う、いや、えっと、今日は、ちょっと用があって」
おもわずぎくりと飛び上がると、てっきり是の返事をもらえると思っていたらしい広瀬は不思議そうにした。
「あれ? もしかしてバイト? こんな時間から? いつも6時からじゃなかったっけ」
「いや、バイトじゃなくって、ちょっと別件で野暮用が」
動揺するさくらに藤沢が怪訝そうな目を向ける。
「なーんか、さくららしくないなあ……。野暮用って何? 友の誘いより優先順位の高いことがさくらにあるわけが無いよね」
酷い言い様だが、否定出来ない。まず“ふきや”の誘いに飛びつかない自分というのが怪しいというのは十分分かる。“ふきや”のお好み焼きはボリュームがすごく、女子三人ならば、下手したら三〇〇円で満腹を味わえるのだ。使い放題の自家製マヨネーズがさくらの大のお気に入りだ。こじんまりとした店で一人じゃ入り辛いが、昔は皆でよく食べにいっていた。
「……ええと、」
美味しい思い出に喉を鳴らしながらもそわそわと時計を見る。すでに12分経過だ。女子大は小さな大学だし、当たり前のことだが基本的に男がいないので、男が門前で待つというのはとても目立つのだ。その上洒落た車は目を引くだろう。ひょっとしたらもう学科の友人の目にも止まっているかもしれない。あれは誰だと注目されている可能性はあった。
想像して一刻も早く逃げ出したくなったが、藤沢がいつの間にかさくらの服の裾を掴んでいる。ごまかし笑いを浮かべると、逆ににたりと不敵な笑みを返された。これは黙って去るのは不可能だ。
「えー、えーと、…………実は、島田さんと先約があって、で、門の前で待ってもらってるから、もう行かないと」
観念したさくらが漏らすと、「うそぉ! 何それ!」と黄色い声が上がった。かと思うと、二人はさくらよりも先に研究室を飛び出した。
「おい、ちょっとまて!」
獲物を見つけたチーターのような二人の様子にさくらは慌てる。
これは間違いなく冷やかしにいくつもりだ。
(うわあああ、言うんじゃなかった!)
階段を転がるように駆け下りるが、野次馬二人にはなかなか追いつけない。
「ちょっと、あんたら大騒ぎしてどーしたん?」
途中すれ違う学友たちが声をかけ、「さくらの彼氏が門のとこ来てんだって!」と藤沢が叫び返す。
「彼氏じゃねえぇ!!」
さくらは大声で否定するが、階段に声が反響して、吹き抜けを駆け巡る。それが周りの目を引きつけてしまう。藤沢と広瀬に続いてどこからか湧いて出た白衣のままの学友たちが、白玉団子のように纏まって転がるように門へと向かっていく。
(お前ら卒研はいいのかよ!)
どう考えても放り出して来ている。そしてなぜだか3階、4階の研究室まで騒ぎが広がっている。恐るべき女子大の情報網。そして野次馬根性。
「ちょっとー、外車だよぉ! かわええ」
「あ、結構いい男。さくらにはもったいなーい!」
壁のように並ぶニヤニヤ笑いの中、さくらは猛烈に居たたまれない気分で車に近づく。学友たちは門の影に隠れているつもりらしいが、人数が膨らみ過ぎて端々から漏れている。
仏頂面のままさくらが助手席のドアを開けると、島田が何ともいえない顔でさくらに訴えた。
「あの白衣の集団……なに? 二十人はいない? 何か事件?」
「学科の同級生です。娯楽に餓えてるんです。何か勘違いしてるだけなんで、気にせずさっさと行きましょう」
まさか自分がそのエンタメとはさすがに言うわけにはいかない。勘違いの内容についてはもっとだ。
「友達多いんだね」
「小さな大学なんで、なんというか団結力が無駄にあって」
「ふうん、楽しそうだ」
島田がエンジンをかけると、「さくらがんばってー!」とどこからか高い声が上がる。島田が我慢出来ないと言った様子で吹き出しながら、門を振り返る。
「あ。あれ、藤沢さんだ。手、振ってるよ?」
「どうか、もう出て下さい。後生ですから!」
「はいはい」
クスクス笑いと共に車が進み出し、ようやくほっとしたとき、さくらはふと鋭い視線をどこからか感じた。
(ん?)
誘われるように目を向けると、ニヤニヤ笑いの学友に見慣れぬ顔が混じる。だが、全く知らない顔ではないことにすぐ気が付いた。
(あれは――)
がちり、と目が合うときに音がした気がした。すぐに目を逸らすが、久々に向けられた悪意にひやりとしたものが染みのように残った。




