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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
一.大暑のころ
18/91

18 頑張ったご褒美

 しかしその後学友たちが期待するようなことは何も無かった。

 さくらが働き出して一月近く経っても、全くといっていいほど。


(ほうら、人生そんなに甘くないんだよ! どこが逆ハーだよ! フラグって死亡フラグかよ!)

 面白がった友人たちに心の中で文句を言う傍から、容赦ない叱責が飛んで来た。

「――片桐ぃ! さっき作ったデータ送れ! で、こっち来い!」

 ここ一月、オフィスには上原の独り言に加えて、常に怒鳴り声が混じっている。

「お前馬鹿か。枠線まで一緒に拡大してどうするんだよ。なんだ、この太い線はよ」

 上原がさくらの作った原稿にチェックを入れて、サインの周りを囲んでいる枠線をボールペンの先で差す。よく見ると他のものに比べて僅かに太い。

「あぁ、すみません。やり方がよく分からなくて」

 さくらが殊勝に謝る振り・・を覚えた分、上原が丸くなった気はする。だが、指導は相変わらず針のように鋭かった。

「ポイントの選択やれって言っただろ。分かるか? お前がやってんのは“V”の選択ツール。俺は“A”のダイレクト選択で、ピクトだけ選択しろって言ってるわけ。簡単だろうが? やり直せ。20枚全部」

 言われてさくらは目を丸くする。

「え、でも、これ1枚だけですよね、間違ってるの」

「口答えすんな! 全部枠線の太さ確認しろって言ってんだ。目だけで確認するな。数値を見ろ、――ほら、1.03ptって――なんだこの中途半端な値は。1ptにしとけ。阿呆」

 相変わらず上原には馬鹿にされる。怒鳴られる。しかし、それを見ても島田は、庇い立てすること無く黙っていた。それどころか何が嬉しいのか口元には笑みさえ浮かべている。

 島田は基本的には外に出てばかりなのだが、たまに内勤の日があって、メールを書いたりデータを弄ったりしている。

 その顔にはさくらが壊した翌日にはかけていた新しいメガネ。今度は黒縁で、やはり高そうで、そして以前と同じくらいに似合っていた。ちなみに壊したメガネの代金は月500円の分割払いで、給料天引きにしてもらった。

(島田さん! この人ちょー細かい! オトコのくせにちょー細かいっすよ!)

 さくらがちらりと島田を気にすると、上原の雷が落ちる。

「『いいじゃんそのくらい』とか思ってんだろ」

 ぎろりと睨まれてさくらは笑って誤摩化した。

「あれ、上原さんエスパーですか」

「顔に出てんだよ! のろのろしてると終わんねえぞ、次が詰まってんだ」

「次?」

 さくらが怯えると上原は凶悪な笑みを浮かべ、紙の束を持ち上げる。

「あと20枚。なんとか今日中に終わらせろ。1枚5分あるんだ。十分だろ?」

「いや、でもやり直しの分があるし!」

 無駄だと思いつつ島田を見るが、彼は我関せずといった様子でノートパソコンを睨んでいる。

「文句あんのか」

 上原にふんと鼻で笑われ、さくらは項垂れる。

「…………いえ、ないです」

(鬼だよこの人たち)

 そう思いながらも次第にその状況に慣れて行くさくらを、「一月持つって、適応力が高いのねぇ。大抵、けいちゃんの豹変だけでも騙されたって辞めて行くのに」と河野は面白そうに見守っている。だが、別に適応力が高いわけでもなんでもない。高いのはきっと忍耐力だ。さくらはそう思う。



「じゃ、お疲れさまー。お先ー」

 その日は木曜日。19時になり河野が退社するといつも通りエアコンが止まった。網戸の入った窓、そして網戸カーテンなるものが設置されたドアが開け放たれる。設置された二台の扇風機がくるくると回転を始め、生温い夜風が部屋を循環しはじめる。

 9月が近いとはいえ、まだ残暑は厳しい。

 瞬く間に汗をかいた上原がペットボトルのスポーツドリンクを飲み干す。彼の足元には数本の空のボトルが散乱している。お茶からジュースまで種類も色々だ。見る度に散財しているなあと勿体なく感じる。

(ひいふうみい……全部で1000円は越えてるよ。せめて2リットルのペットボトル買ってくればいいのに。エコじゃないよな)

 こういった無駄遣いが嫌いなさくらは、空のペットボトルを冷たいまなざしで見つめながら、オフィスの冷蔵庫に置かせてもらっている麦茶を飲んだ。麦茶の作り置きは節約の基本である。

「あぁああ、うぜえ。この1時間が地獄。まじ勘弁して欲しい」

 部屋から冷気が消え去った頃、堪らないと上原が愚痴る。

 さくらにとっても地獄の1時間だ。今日は島田は外出中。上原に怒鳴られてもフォローしてくれる人(といってもこの頃は島田のフォローは全く期待出来ないが)が誰も居ないのだ。しかも暑い。

 外回りに行っている島田が帰って来るのが大体19時から20時の間。上原は大抵20時までに退社する。そしてさくらの帰りは21時と決まっていて、1分たりとも残業は許されなかった。そして毎日駅まで島田が送ってくれる。例の弁当を言い訳にして。

 結局さくらは友人のアドバイスを聞き入れて、黙って島田の厚意に甘えることにしている。夜道はやはり淋しいし、たまにではあるが絡まれるのが面倒なのは確かだ。

 ――なにより、オフモードの島田と話すのがさくらは嫌いではない。


 帰り道、大量の原稿を仕上げてぐったりしたさくらに、いつも通りに送ってくれていた島田が突如言った。

「片桐さんさ、夜9時以降ってやっぱり都合つかないよね」

 島田が片桐さんという時は、仕事の話に決まっている。しかしメガネは外しているというのに……もしかして急な残業だろうか? さくらは不可解に思いながらも、母のこと考えて顔を翳らせた。

「え? あ……そうですね。電話がかかって来るんで」

 そして、出ないと駆けつけて来るんで。心の中で付け加える。

 すると島田は困った顔で少し考え込んだ後、ふといたずらっ子みたいな笑みを浮かべた。

 久々に見る顔にドキリとしていると、島田は

「じゃ、明日はバイト休みでいい?」

 と問う。

「え? 会社出なくていいんですか」

 残業の話が突然欠勤の話になり、さっぱり話が繋がらなくて、さくらは首を傾げる。

 残業は困るが、給料が減るのも困る。そんなことを考えていたさくらだが、島田がくれたカードと、言葉にそんな不満は吹き飛んだ。

「そのかわり、明日はここに直接来て欲しいんだ。一ヶ月頑張ったご褒美。おごるから」

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