17 弁当とそうめん
夜の街には生温い空気、それから様々な食べ物の匂いがたゆたっている。
(あついなあ、お腹空いたな……)
夏バテとは縁がないさくらだが、夕食の時間を過ぎれば飢餓感と倦怠感で元気をなくす。
(今日の晩ご飯は何にしよう。面倒だしすぐに食べたいからそうめんにしようかな)
冷蔵庫には麺つゆがあったはずだけど――と賞味期限を気にしつつ、怠い足を懸命に動かす。高級そうめんでなければ一食50円ほどでお腹いっぱいになるのも嬉しいところだ。ゴマだれやキュウリにミニトマトなどの夏野菜が欲しいところだけれど、もうスーパーは店じまいする時間だ。コンビニで買うとさすがに予算オーバー。
(普通の麺つゆなら、柚子胡椒があると最高なんだけどなあ。無理だよな……まずどこにでも売ってないし)
独特の香りを思い出して思わず生唾を飲み込んで黙り込むさくらに、
「そういえばお母さんは心配してないの?」
隣を歩いていた島田が柔らかい口調で話しかける。先ほどの不機嫌さはもう微塵も残していない。メガネを外すとやはり性格が変わるような気がする。
「母の心配は持病みたいなものですから。たまに発作が起こる感じです――この間みたいに。一応説明して、納得してもらったんで、しばらくは大丈夫だと思います」
一度ああやって安心させておけば、数日は大丈夫なはずなのだ。とはいっても、もう少ししたら恒例の電話はかかって来るはずではあるが。そう言うと、島田は僅かに顔をしかめる。
「……いっそ彼氏がいるって言ってみるとか。案外認めてくれるかも。だってずっとこのままではいられないだろ?」
何か責められているような気がしてさくらはぎくりとした。
多分それが一番いい方法だからというのがさくら自身、分かっているからだろう。母と直接対決しなければ、解決しない問題なのだ。
(そんなこと、分かってますし)
思わず刺のある言葉が口に出そうになってぐっと堪えた。さっきの二の舞になってしまう。
代わりに軽い調子で答える。
「あー、だめです。嘘でもそんなこと言えば、問答無用で家に連れ戻されてしまいます」
すると島田が思い出したように尋ねた。
「そういえば、お母さん、厳しそうなのによく外に出ること許してくれたね」
「無理に出て来たんですよ。干渉が我慢出来なくて――それにしても暑いですよね」
憂鬱な話題が続くのを嫌ってさくらが話を変えると、島田は肩をすくめる。
この際だからとさくらは尋ねた。
「――あの、そういえば、出勤ってスーツじゃないと駄目ですか?」
「いや? バイトの子にそんなの強要しないよ。俺は営業だからスーツ着てるけど」
「でも上原さんも、河野さんもスーツですよね」
「河野は一応接客があるからなあ。上原は多分他に服を買うのが面倒なんだろ」
「そんなもんですか」
「着るものに悩むのが嫌いな男は多いよ。ま、俺も上原のことは言えないけど」
「私も実はそうです。……本当はTシャツにジーンズとかが色んな意味で楽なんですけど」
思わず同意する。言外に許可して下さいと込めると、島田に「さすがにそれは駄目。なんか色々残念だから」と優しくではあるがばっさりと却下された。
「そうだな、たまに来客あるから、あんまりラフじゃ無い方が……あぁ、そういえば」
島田はそこでにっと笑った。
「この間の服――お揃いみたいだったよな。ブルーに紺で。見たとき実は笑いそうになった。『ペアルックかよ』って」
「…………同じこと思いました」
さくらはその時の気まずさを思い出して苦笑いを浮かべる。
「あんな感じだったら十分だけど。無理?」
頭の中で使えそうな服を数枚ピックアップするが、どうも同じ服を数日置きに着ることになりそうでげんなりとした。Tシャツをローテーションさせるのとはなんだか気まずさの度合いが違う。一枚二枚、入手した方がいいかもしれない。幸い夏は終わりかけ。売れ残りならば安く手に入るはずだ。藤沢にでも相談してみよう。
「……努力します」
色々考えて渋い声で言うと、島田はまた笑った。笑い上戸なのだろうか。
そこで駅に着く。ふと気になってさくらは問う。
「島田さんのお家はどちらなんですか?」
「ん? この近所」
「じゃあ、駅にはなんで……」
すると島田は駅の隣にあるコンビニを指差した。
「単にそこのコンビニに用があったんだよ。仕事の後晩飯買うのが日課だから」
「え、でも会社の近くにもありますよね?」
確か会社を挟んで駅とは反対側にもっと近いコンビニがあったはず。
思わず突っ込むと島田はむっと口を尖らせた。
「ここの弁当が気に入ってるだけ。――じゃあ、また明日」
そういい残すと、島田はコンビニに消えた。
*
「夜ご飯が弁当かぁ――ってことは、一人暮らしなんだろね。って――さくら! あんた、今日の昼ご飯それ?」
翌日の昼のこと。積もる話の途中、さくらが弁当箱を開けると藤沢が目を丸くした。
「うん。悪い? 昨日ゆで過ぎて残っちゃったんだ」
「……いや、悪くはないんだけどさぁ」
マグタイプの水筒の蓋を取ると、小さくなった氷の浮いた麺つゆの中に、弁当箱に入っている葱とわさびを入れ、そこにそうめんを一束掬って投入した。
「前にミートソースとパスタ持参したときもびっくりしたけど、さすがにそうめんまで持って来るとは思わなかった」
藤沢は感心しているのか呆れているのか分からない声色だ。
「残り物は弁当のおかずの基本だよ」
「いや、おかずじゃないじゃん、それ。主食だし」
細かいことは無視してずるずるとすする。周りの学友が物珍しそうにさくらを見るが、さくらの妙な行動はいつものことだとすぐに興味を失った顔になる。
「炭水化物ばっかりで繊維取らないと便秘になるよ。私、自慢じゃないけど、便秘で救急車に乗ったことあるんだって。先生に見舞いに来られてさ、恥ずかしくて死にそうだった。悲惨だよー」
広瀬が横から口を挟み、弁当のミニトマトをお裾分けしてくれた。だが相変わらず何となくずれている。
「食べてる時にその話をするな。私が今何を食べていると思っている」
案の定藤沢が鋭いツッコミを入れると、彼女は「別にいいじゃん」とぶうたれた。
藤沢は難しい顔でカレーの中に埋まっていた唐揚げを箸で摘まみ上げる。
唐揚げカレーは学食の中で一番ボリュームのあるメニューだ。カロリーを気にする藤沢だが、たまにストレス発散とばかりに好んで食べる。そしてリバウンドに悲しい顔をするのだ。
もしかしたら、今のは食欲を無くさせるという広瀬なりの配慮なのだろうか。
それならば手伝おう。今日のメニューにはタンパク質が足りない。
さくらは唐揚げをかすめ取ろうと箸を近づけるが、敵は手強い。寸での所で皿を引っ込ませる。そしておもむろににやりと笑うと言った。
「さっきの話だけどさぁ――そりゃあ、送ってくれたんだよ。いいなあ、そういうさりげない気配りしてくれる男。彼氏にも見習わせたい」
「あー……やっぱりそうなのかな」
あの後ゆっくり彼の行動を思い返してみて、さくらはもしかしたらとは思っていた。確認のために二人に聞いてみていたというわけだ。
「前の面接の時も仕事で駅まで行くからって送ってくれたんだよ。すごいよね。フェミニストだよね。私こんななのにさ」
とたん藤沢の頭に角が生える。
「さくらー。自分を『こんななのに』とか言うのは止めること」
「そうそう、さくらはちゃんとしてればイケてるって」
広瀬もうんうんと頷き、さくらは慰められながらもはぁとため息をつく。
「昭和風だけどね」
気を使われるのは正直嬉しいけれど、戸惑うのも本音だった。9時ならまだ人通りもあるし、駅くらいまでなら一人でも平気だ。さくらだってあしらい方くらい分かっている。なんたって前の職場はSHIMADAのある場所よりももっといかがわしい歓楽街にあったのだ。
「とりあえずお礼言っておこうかな。で、次回があればお断りする」
「えー? 黙って送ってもらえばいいよ、そっちのが可愛いし」
「甘え上手な方が喜ばれるよ」
彼氏持ちに言われると心動かされるものはあったが、頭の隅を掠めるものがあってさくらはため息をつく。
「そんなもん? でも上原が絶対うるさいと思うんだって」
「なに? 上原って。ライバル? もしかして――オトコ!?」
藤沢と広瀬が同時にきらりと目を輝かせる。
「直属の先輩社員。オトコだけど――期待させて悪いけど、百キロ越えの巨漢でクマみたい。で、めちゃくちゃ意地悪い。しかも島田が大好き」
そう言って仕事中の彼の様子を事細かに伝えると、
「へえええ、そりゃ、もしかして逆ハーじゃないか! 意地悪するのは気になるからって言う」
何を勘違いしたのか藤沢は興奮した様子で奇声を上げ、
「でもクマってことはもしかして嬉しくない逆ハーってヤツ? それか、痩せたら変身するっていう定番の展開!?」
広瀬も勝手を言ってにやにやとしている。意外に二人とも妄想逞しい。さくらの妄想力の上を行くかもしれない。
(んなわけないって)
「てか、最後の『島田が大好き』ってやつは無視なわけ」
「そりゃ、そんな展開面白くないから無視するよ。さくらと違って腐女子じゃないもん」
広瀬が当たり前のようににこりと笑う。
「いや私も違うけど」
さくらがげんなりする前で、藤沢と広瀬は勝手に盛り上がり始める。
「なにか面白いことないかなって思ってたら、ここに来てこんな展開とか!」
藤沢が叫び、さくらは冷めた声で遮る。
「面白がるなって」
「だってさくらのモテ期到来だよ! これを面白がらずに何を面白がるわけ!」
興奮冷め止まぬといった様子で、藤沢は嬉しそうに唐揚げを奮発してくれた。
「いやモテてないし」
唐揚げをしっかり受け取りながらも否定する。ありがたいが、なんだかありがたくない。
「さくら、鈍いなあ。フラグ立ってるって、絶対!」
広瀬も嬉しそうにトマトを追加してくれる。周囲の学友が聞きつけて、さくらの弁当箱は瞬く間にお裾分けのおかずでいっぱいになった。どうやら卒業研究や就職活動に疲れた皆の娯楽になってしまったようだ。
(あーあ。ほんとにそんな風だったらいいんだけどさ)
皆の激励(というか、絶対面白がっているのだが)を受けながら、さくらはきっと厳しくなるであろう今日のバイトを思って深いため息をついた。




