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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
一.大暑のころ
16/91

16 虫と残業禁止令

 ぷぅーん

 と耳に嫌な音が忍び込んだ。さくらは首筋をぺしっと叩いてすぐに手のひらを見る。

 残念ながら蚊はしとめられなかったようだ。空中に視線を泳がせる。だが変にお洒落な背景に馴染んでしまってどこにいるのか確認できない。

(壁が白ければしとめられそうなのに……)

 さくらは空中をもうひと睨みした後、仕方なくディスプレイに目をやった。

 虫は蚊以外にもどんどん入って来る。扉も窓も開け放たれていて、照明は煌煌とついているから当然だった。

 天井の蛍光灯には数匹の羽虫が群がっている。それを嫌って電気を消したらディスプレイに纏わりついたので結局消灯は諦めた。

 カメムシ――さくらがゴキブリの次に嫌いな虫だ――でも入って来ないか気が気でないが、それよりも今気になるのはさくらの斜め前で押し黙っている男の存在だった。

 さくらは原稿を拵えながらちらりと上司を見やる。

 先ほど優しく声をかけてくれた彼は、今は壊れたメガネを掛けて黙々と作業中だ。真剣にノートパソコンのディスプレイを見つめていて、さくらの方には視線の一つもよこさない。

(気まずいなぁ。さっきので怒らせちゃったのか……)

 刺のあるいい方をして、強引に話を打ち切ったのはさくらの方だ。文句を言える筋合いは無いのだが、上原の時とは別の気まずさがある。

 良くしゃべるはずの男が黙ると気味が悪い。

 上原も同様と言えば同様だが、彼の場合仕事さえ無ければ黙らせておいても構わなかった。だが、島田が黙っているのは仕事にまったく差し障りは無いはずなのに、酷く気分が悪い。意味もなく謝りたくなるが、謝ることで先ほどの話題が再び持ち出されることが嫌だった。

 原稿に集中している間はいいものの、1枚が終わって次、と切り替える時にどうしても島田を気にしてしまう。

 蚊の羽音が気になるほどの静けさの中、気まずさを堪え、これは早く帰るに限ると必死で手と頭を働かせる。覚えたいくつかのショートカットのおかげもあって、少しだけ手際のよさを身に付けたさくらは、1枚2枚と積み上げられた仕事を地道にこなして行く。

 そしてあと2枚――というところで、ふと時計を見上げると針は21時を指していた。

 同時に、

「終わった?」

 と島田が一時間ぶりに口を開く。だが口調は冷たい。

「す、すみません、まだです! あと2枚です! 10分で終わらせますから」

 さくらが慌てると、

「いいや、それはまた明日に回しておいて」

 と言って島田は椅子から立ち上がり、脱いでいた上着を手に取って帰り支度を始める。

「でも」

 あと2枚なのに。切りが悪いのが気持ち悪くて抵抗するが、島田はすげなく言った。

「残業代出せないから」

「私が仕事が出来ないせいですから、その分は要りません」

「うちはサービス残業は禁止」

「でも」

「帰るよ」

 島田は問答無用とでも言うように、せかせかと戸締まりを始める。

 メガネに睨まれて怯んださくらは、今日のところは従うことにした。理にかなった、しかもありがたい指示なのだから。

 島田は窓を閉めながら「網戸を付けるか」と呟いてすぐ、携帯スマフォを取り出し話しかけている。

「網戸、殺虫剤、あと虫除けスプレー」

(ん? なにしてるんだろ)

 さくらが首を傾げると、携帯がしゃべった。

「メモ シマシタ」

(おお! すご!)

 さくらは目を見開く。どうやらさくらの知らないうちに携帯はいつの間にか随分進化しているらしい。

 さくらの携帯は4年――正確には3年半だが――もの。大学入学時に買ったあと一度も替えていないので、既にバッテリーが怪しい。一日で切れることもあるくらいだ。買い替える必要はひしひしと感じているが、母に「電話の電池切れたんよ」という言い訳が出来なくなるのが切実に困るので放置中。

 壊れるまで使ったら次も今まで通りにガラケーを選ぼうと思っていたが、こういう使い方を見ると妙にスマフォが欲しくなったりする。どうせ使いこなせないのは分かっているくせに。


 戸締まりが終わり、島田が出入り口の扉の鍵を閉めている。壁にくっついているカナブンを見て、さくらはふいに思い出して問う。

「あの、」

「何?」

 メガネの島田は冷たくさくらを見下ろす。やっぱり怒っているのかもしれないと思った。しかし、反応が全くないわけではないし、どうしても聞いておきたいこと、意見しておきたいことがあった。

「今日、わざわざエアコン切って、扉を開けたのはなんでですか? 虫すごいですよね? 蚊もですけど、蛾もカナブンもいますし、もしカメムシが入って来たら悲惨です。ホントに悲惨です。節電はいいことですけど、せめて明日からでも良かったんじゃ」

「片桐さん」

 重たい声、真面目な表情で遮られる。

「は、はい」

 さくらが畏まると、島田はふぅと大きなため息をついてメガネを外す。

 レンズに外灯が反射していて見えなかった目が現れる。

「本当に分からないのかな」

「何がです?」

 ようやく彼の纏う雰囲気が柔らかく形を変え、

(ああ、こっちの島田さんがいいや、やっぱり)

 と、さくらは心底ほっとしたが、一方島田は妙に不機嫌そうに眉をしかめた。

「意識しない方が仕事はやりやすいと思うから言わないけれど。でも、個人的に言わせてもらえば――虫と言ってもいろいろある。カメムシ以外の心配をもっとした方がいいと思うよ」

 ふて腐れたような声で言うと、彼はさくらに背を向ける。

(他の心配? なんだろ)

 思わず考え込んでぼうっとしていると、「出るよ。駅まで一緒に行こう」と言われて、慌ててオフィスを飛び出した。

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