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その時点では、嘘でした。  作者: 有沢真尋@12.8「僕にとって唯一の令嬢」アンソロ
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通じない思い

“全きものよ 魔術師(メイガス)アルスの名において希う”

“Chasmodai,Qedemel,Bartzabel……”


(あ。絶対ヤバい感じの詠唱をしている)


「殿下。アルス兄様が何をするかわからないので、止めてきます」


 これ幸いとばかりにラドクリフの手を振りほどいたミシュレであったが、ラドクリフから羨望めいたまなざしを向けられ少しだけ戸惑った。


(殿下?)


 ミシュレが眉をひそめて動きを止めてしまったので、ラドクリフは慌てて一歩飛び退る。


「行ってくれ。世界の命運はミシュレの肩にかかっている」

「世界?」


 なんのことだろう、と思いながらミシュレはどす黒いオーラを発しているアルスの元まで歩み寄った。

 すでに、広場に集っていた人々は不穏な気配を察したのか、悲鳴を上げながら退避行動をとっている。

 果敢にも数名その場に残っている平服の男性たちは、一般市民に扮したラドクリフの護衛かもしれない。

 空だけが奇妙に明るく青く、石畳の上を空風が渦を巻いて吹き抜けて行った。


「お義兄様、落ち着いてください! いまはどこにも敵なんかいませんよ。詠唱やめてください」


 いまの俺には世界中が敵なんだ、という不穏なつぶやきが耳をかすったような気がしたが、気のせいだとミシュレは決めつけた。

 アルスは目が合うと薄く微笑んで「ミシュレ、怪我はない?」と尋ねてくる。


「白昼、街中で、殿下と立ち話をしていただけです。怪我などするはずがありません。いったいお義兄様の目には何が見えているんですか」


 アルスの正面に立ち、ミシュレが切々と訴えかけると、高まりかけていた魔力がゆっくりと下降していく。

 強張っていたアルスの表情に、いっとき凪が訪れた。

 端正な美貌に甘やかな笑みが広がっていく。アルスは、ミシュレを見下ろして口を開いた。


「ミシュレが殿下に拘束され、辱められているように見えて、殺」


(わー! 絶対にまずいこと口走ろうとした!!)


 ミシュレはアルスに飛びついて、その口を掌で塞いだ。

 勢いあまって胸に体当たりしてしまったが、気にしてなどいられない。


「御覧の通り私は傷一つありません。何もされていませんし、元気でお義兄様のご到着をお待ちしていましたよ! 今日はお義兄様と一日過ごせると考えただけで、眠れないほど楽しみだったんです。物騒なことを言ったり破壊的な魔法を行使したりするのはやめてくださいね?」


 まるで、「転がり込んできたから抱き留めただけ」と言わんばかりの自然さでミシュレの背に腕を回しながら、アルスはミシュレを陶然と見下ろした。


「俺も。ミシュレに会いたかった。これはもう両想いってことでいいのかな」

「はい! 私たちは『仲の良い兄妹』なのですから!」


 ビイイイイイィィィィン、と空気を軋ませるような異音が辺りを貫く。


「これはもう両想いってことでいいのかな」

「ええと? だってこの世に二人だけの兄妹」


 ビイイイイイィィィィン、と空気を軋ませるような異音が再び鳴り響く。


「これはもう両想いってことで」


 謎の音の襲撃に、眉を寄せて顔をしかめて耐えながらミシュレは口をつぐんだ。


(何このループ。時間が巻き戻る魔法? 正しい選択肢を選ばない限り、先に進まない展開?)


 アルスが壊れたように同じ質問を繰り返してくるのだ。

 これはミシュレの返事に変化を起こさない限り、状況が膠着してしまうかのかもしれない。

 ちらりと首をめぐらせて見ると、ラドクリフが拳を握りしめて頷いている。「もうひと声!」とでも言わんばかりの雰囲気で、目が合うと口パクで何かを伝えてきた。聞こえない。わからない。


(殿下。いったい何を言おうとしているのですか、私は何を期待されているんですか)


 本気で理解できずに、ミシュレもまた口パクで「なんですかー!?」と尋ねた。

 通じなかったことに気付いたラドクリフは、悲し気に目を細めてゆるく首を振る。

 しかし、意を決したように一歩踏み出して来た。


「ミシュレ。私からの申し出を受け入れてくれて嬉しいよ。私の妻になってくれるんだね?」


(んー!? そんなことさっき全然話してませんよね!? 大体全部、話が交わらないで終わったと思うのですが!?)


「殿下? おっしゃっていることがよくわからないんすが」

「そんなに照れなくていいよ、ミシュレ。私は婚約を破棄したし、ミシュレも今はフリーで、王家と侯爵家であれば対外的にも大きな問題はない。私たちを阻む障害は何もないんだ。それとも、何か問題でも? たとえば、誰か心に決めた相手がいるとか」

「おりませんが」


 目の前で、ラドクリフが胸を押さえて俯いてしまった。

 魔法の矢でも受けたかのような過剰な仕草で、ミシュレはついアルスの動向を確認してしまう。


(詠唱もしていないし、怪しい素振りもなし、「殺」とか言ってないし、殿下に対していま何もしていませんよね?)


 ラドクリフに視線を戻せば、戦場で斃れた瀕死の戦士のように儚げな笑みを瞳に浮かべながら、唇を震わせていた。かすれ声がその唇からもれた。


「或いは、すでに誰かとただならぬ関係になっているので、その相手以外と結ばれるわけにはいかないとかそういうことは無いかな」


(……身辺調査? 今さら? 婚約を持ちかけた時点で私のことは「問題なし」くらいには調べ尽くしているのでは?)


 これはなんの確認をされているのだろう、と思考をめぐらせて、ミシュレはハッと息を飲んだ。

 もしや、先日水竜の前でついてしまった嘘が、嘘のまま訂正されない形でラドクリフに伝わってしまっているのではないか、と。

 血の気がひく。


 ――相手はこのひとです! 義兄のアルスです! 兄とはいえ、血も繋がっていませんので、思いを遂げさせてもらったんです!!


「ラドクリフ様、誤解です。誤解がありますよ。私はアルスお兄様とはなんの」

「ミシュレ」


 焦って前のめりになりながら言い募るミシュレを、アルスが背後から軽く抱きしめた。

 ふわりと香草の混ざりあったような匂いが届き、ぬくもりに包み込まれる。


「お兄様?」

「もしラドクリフに意に染まぬことを強いられているなら、俺が解決するぞ。どうすればいい?」


 耳元で極上の低音に囁かれて、ミシュレは硬直した。

 体から力が抜けそうになる。

 アルスの呼吸も鼓動も全部伝わってきて、触れ合ったところから熱を帯びて体温が混ざり合うような錯覚。

 ミシュレの足元が覚束なく、ふらついていることに気づいたのか、まわされた腕にぎゅっと力が込められる。


(どうしよう、振り払えない)


 支えてくれているようでいて、すがるようにしがみつかれているような感触。

 気持ちを奪われながらも、ミシュレは咳払いをして毅然と言い放った。


「ラドクリフ殿下は何か誤解なさっておいでのようです。私とお義兄様の間に何かがあると。お義兄様、それは違うとぜひお義兄様の口からも言ってください。私とお義兄様は、血の繋がった兄妹にひけをとらぬほど仲睦まじく、うまくいっている、最高の兄妹だと」


 少し離れたところで、ラドクリフの呻き声が上がった。涙が混ざり込んでいるかと思うほど、それは悲痛な声だった。


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