アザレアにくちづけをー2ー
お待たせしました。
イヴェール両親のお話2話目です。
楽しんで頂けると嬉しいです。
零れ落ちた溜息の意味を都合よく受け取ったらしいヴェラノは満足そうに口の端を釣り上げた。
その笑みをルーチェは苦々しく見つめる。
私が誰のものかだと?何を今更。そんなこと分かり切っているだろうに。
今まで十二分に示してきてやったはずだ。
それでも足りない、まだ寄越せだなんてこの男は一体どれだけ強欲なんだ。
緩み切った顔で機嫌を取るように与えられる口づけに絆されてなどやるものか!
強い意思を込めて睨みつけた先には激情を秘めた捕食者の瞳。
「離婚などと二度と言い出せないようにしないとな」
うっとりと微笑んだヴェラノにルーチェはひくりと頬が引きつるのを感じた。
「今更逃げられるわけないだろう?」
結婚して二十数年。ここのところすっかり聞かなくなった警鐘が頭の中でガンガンと鳴り響く。どうしてこうなるんだ!
ルーチェは思わず遠目をしながら遥か彼方の過去へと思いを馳せた。
はじめてヴェラノの激情に触れたその瞬間に。
ヴェラノの隣が侯爵家に仕えていた両親に連れられて侯爵家を訪れた時からルーチェの定位置だった。
まだ仕事ができない幼子の頃も勉強に励むヴェラノの傍らで絵本を読んでいたし、ヴェラノが先代の仕事を手伝うようになってからだって、彼が書類仕事をしている間は同じ部屋で勉強をしていた。ルーチェが夜の闇の仕事を手伝うようになってからだって、何故か仕事部屋はヴェラノの執務室だった。先輩たちと同じ部屋でぺーぺーとして書類を捌くつもりだったルーチェはよろしくお願いしますと元気よく頭を下げた瞬間、お前の部屋は坊ちゃんの執務室だぞと告げられて大変混乱した。意味が分からないままポイっとヴェラノの執務室に放り込まれて以来、ルーチェの仕事部屋はヴェラノの執務室だった。一番下のぺーぺーから後輩を持つようになった今でもルーチェの居場所は変わらずヴェラノの傍らだ。流石にこれはマズイのでは?と思った時もあるが、瞳を輝かせた奥方とにんまりと意味ありげに笑う先代直々に許されてからは深く考えないようになった。ルーチェにとってヴェラノの隣にいることは当たり前で、それはこれからもずっとそうなのだと16歳のルーチェは信じて疑わなかった。
思い返せばいたるところに片鱗はあった。だが、16歳のルーチェは気づかなかった。全くこれっぽっちも気づかなかった。だから、あんなことが言えたし、出来たのだ。
あの日は昼休憩に珍しく会いに来た両親に思いもよらぬ話をされて、よく考えないまま了承したこと以外は至って穏やかな日だった。
両親が持ってきた話は中々に面倒くさいと思いはしたが、普段好きにさせてもらっているという負い目から二つ返事で了承した。何故か両親は唖然としていて、しつこいくらいに本当にいいのかと確認してきたが、ルーチェはテーブルに並んだ豪華なランチのほうが重要だったので問題ないと聞き流した。何故かヴェラノ(あるじ)と喧嘩をしているのかなんて質問まで飛んできたが彼との仲は至って良好である。そう伝えてもぐもぐと口を動かすルーチェに両親は真っ青になって項垂れたが、昼休憩の終わりには両親揃って死んだ魚の目をしてヴェラノの執務室へと向かうルーチェに手を振ってくれた。
美味しいランチを堪能した上に、忙しい両親との時間が取れてルーチェは大変満足だった。
今日はとてもいい日だ。午後からも頑張るぞ、と執務室の扉を開ける。ここまでは良かったのだ。
「どうだった」
ルーチェが戻るのを待ち構えていたヴェラノに楽しかったと返答したのもまぁ、セーフだ。
ヴェラノの眉間には皺が寄っていたが。今ならばヴェラノの不満そうな顔の理由もわかるが、当時のルーチェはなんで不機嫌?と心の中で首を傾げただけった。ここで適切なフォローをしていれば……いや、やっぱり未来は変わらなかっただろう。とにかく、16歳のルーチェは呑気にランチ美味しかったなーなんて考えながら、ヴェラノの機嫌が降下したことも、そんな日もあるよなーくらいの認識で、無自覚に爆弾を投下した。
「次の土曜、見合いするから休む。
その日は他のヤツに頼んどくか、ら……」
空気が凍ったのを感じて、ヴェラノを仰ぎ見る。
心の底から後悔した。
静かに激昂する主にルーチェは混乱した。
未だかつてこんなに怒り狂う主を見たことがなかった。
何が地雷だったのか見当もつかない上に、控えめに言ってめちゃくちゃ怖い。正直、すぐにでも逃げ出したいけれど、視線だけで人を殺せそうな眼光が自分を見据えて離さない。一ミリでも動けば殺されそうだ。
「……今、何と言った」
聞いたことのないくらい凍えた声が自分に向けられる。
「その日は他のヤツに頼んでって言っただけだろ」
「その前だ」
「その前?見合い……ひぇっ」
ハイライトが消えた瞳に睨み据えられて体が竦みあがる。
抵抗を、なんて考えが浮かばないままに両手を拘束されて執務机に押し倒される。
「見合いだと?」
「う、うん。あたしもそういう年頃になったんだなーなんて……あはは」
笑って誤魔化してみたところでルーチェを見下ろす極寒の瞳は変わらない。
「そうか。お前もそういう年頃になったのか」
そう囁きながら凄絶に笑って見せたヴェラノにルーチェの頭でかつてないほどに大きな警鐘が鳴る。命のやり取りをする中で幾度となく鳴り響いていた警鐘だったが、今はそれの比ではない。
「ヴェラノ?」
引きつった顔で縋るように名前を呼ぶ。
「ルーチェ」
窒息しそうなほど甘ったるい響きで名を呼ばれた。混乱する頭でどこか安心した。それなのに、気づけば呼吸ごと奪われていた。
口づけられた。ルーチェがそう認識したころには身体に力が入らず、拘束された手はピクリとも動かない。それどころか抵抗の意思を感じ取ったヴェラノはますます口づけを激しくする。なんで、どうして、混乱の渦に叩き落されたルーチェの目の端から涙が零れる。それでもヴェラノはやめてくれない。絶対に気付いているはずなのに。それが悔しくて怖くて、不安でまた涙が零れる。
ようやく解放された頃には息も絶え絶えで、滲む視界をそのままにただ、どうして、と言葉が零れた。
「見合いなんて許さない。お前が誰のものか自覚しろ」
突き放すような言葉とは裏腹に優しく涙を拭われる。そのままゆっくりと身体を起こされて、机の上に座らせられる。近くなった目線の先にある瞳はもういつもと同じルーチェが美しいと思う夏の夜空の瞳だ。
「でも」
「ルーチェ」
混乱した頭で紡いだ抵抗は、ただ名前を呼ばれただけで封じられた。
「お前の両親には俺から余計なことをするなと言っておく」
「余計なこと?」
「お前は俺の側にいればいい。ずっと俺の隣にいればいい」
「いるよ。あたしはずっとアンタの隣にいる。でも、それとこれは別だろ!
いつかあんたが結婚するように、あたしだって」
その先は紡ぐことさえ許されなかった。
「口で言って分からないなら体に叩き込むか?」
今にもくっつきそうなほど近い距離で真っ直ぐにルーチェをの瞳を覗き込みながらそう囁いたヴェラノにルーチェは限界を迎えた。
「分からずやはどっちだよ!ヴェラノの馬鹿野郎!!」
「そうか。お前が理解するまでキッチリ叩き込んでやろう」
距離を取ろうともがいたルーチェをあっさり捕獲してヴェラノは艶やかに微笑んだ。
ヤバイと思う暇もなくルーチェを抱え上げてヴェラノが執務室を出る。
その足が向かう先をルーチェは知っている。子どもの頃から幾度となく訪れたことがあるから。そこで何がなされるのかは分からない。分かりたくない。
それでも絶対よくないことだということは分かってしまう。
血の気が引いていく。こんな時に限ってどうして誰ともすれ違わないのか。焦りと不安でいっぱいになる。
そして―――――……。




