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ー15ー

 唐突に始まった侯爵家での生活はエアルにとって新鮮で心地良いものだった。

 無意識に入っていた余計な力がどんどん抜けていく。

 毎日のように開催される侯爵夫人とのお茶会はまだ少し緊張するけれど、徐々に崩れていく侯爵夫人の言葉遣いに気付くと嬉しくなる。

 自主的に始めたイヴェールへのお茶出しも楽しいし、休憩中の短い時間でもイヴェールといると安心して胸の奥があったかくなる。

 気分転換に厨房の端を借りて作った焼き菓子をいつの間にか龍哉がひとりで平らげて、リクエストを残して去っていったときは驚いたけど、気まぐれな猫のような彼はエアルが困っているとさり気なく手を貸してくれる。

 侯爵家ここに流れているのは穏やかで優しい時間だ。

 どれほど物騒な気配を感じても恐ろしく思わない。

 まだ不慣れなエアルのためにそれを必死に隠そうとしてくれているのを知っているから。

 でも、だからこそ、早く慣れたいと思う。

 彼らの、イヴェールのどんな姿を見ても、怖がらずに笑っておかえりなさいと言えるようになりたいと思う。

 そしていつかイヴェールの帰る場所になれればと思う。

 流されるままに頷いたことから始まった婚約なのに、いつの間にかそんなことを思うようになった自分に驚く。けれどそんな変化も悪くない。エアルは小さな笑みを浮かべて長い廊下を歩く。


「エアル!ちょうどいいところに」

「奥方様?」

「お義母様、だろう?」

「お、おかあさま」


 そう呼ばないと次から返事しないからな!と凄む奥方におずおずとそう呼べばひどく満足そうな顔をして微笑まれる。


「それで、どうされたのですか?」

「ああ、アルセが女性を連れてくるらしいからエアルもどうかと思ってな。

 年も近いらしいし、話し相手にちょうどいいだろう」


 にっこりと笑う侯爵夫人にエアルは思考が停止する。

 アルセというのはイヴェールの側近の名前ではなかっただろうか。

 夜会で騒がれていた時はどこのどなたかまったく知らなかったし興味もなかったけれど、流石にイヴェールとの婚約が決まってからエアルも情報を集めた。というか興奮したメイドたちが教えてくれた。

そんな方の連れてこられる女性のお相手を私が?

 不安が顔に出ていたのだろう。侯爵夫人はエアルの手をとって優しく微笑む


「大丈夫だ。難しく考えなくていい。久しぶりの同世代のお茶を楽しめばいいんだ」

「、」

「和の国の方らしいから多少文化は違うかもしれんがな」


 サラリと爆弾を落とした侯爵夫人にエアルは叫びそうになった。


「お義母様、私、和の国の言葉なんてしゃべれません」

「あ」


 言葉の壁に今思い当たったらしい侯爵夫人にエアルはふにゃりと眉を下げた。

 和の国の出身らしい龍哉はこちらの言葉で話してくれるし、興味本位で龍哉に和の国のことを聞いたりしたこともあるが、それは文化の話であって言語の話ではない。子爵家で叩き込まれた教養はすべてこの国のものだ。挨拶程度ならなんとかなる気がしないでもないけれど、それ以上は無理だ。会話なんて到底できない。


「まぁ、なんとかなるだろ」


 エアルの不安はその一言にバッサリと切って捨てられ、問答無用で連行される。

 そして心の準備もできないままに部屋の中に放り込まれた。

 視界にイヴェールの姿を見つけて無意識に息を吐く。

 安心したようにこわばっていた口元を緩めたエアルにイヴェールと喋っていた男が近づいてくる。


「初めまして、エアル嬢。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。

 私はイヴェールの下で働いているアルセと申します。以後お見知りおきを」


 パチンというウィンクと共に茶目っ気たっぷりに挨拶をしてくれたアルセに、エアルも慌てて淑女の礼を取って挨拶を返す。


「会って早々で申訳ないのだけれどこちらにいる間、俺のお姫様の相手をお願いしてもよろしいでしょうか?」

「あの、お恥ずかしい話ですが、私、和の国の言葉が分からなくて、上手くできるか分かりませんが………。お客様に失礼のないように頑張ります」


 精一杯で答えたエアルにパチリと目を瞬いてアルセはイヴェールを見た。


「そうだった。言葉の壁があった……どうしよう」

「気づけよ」


 呆れたイヴェールの声にお前も気づかなかっただろ!!と吠えるアルセを鼻で笑って、イヴェールはエアルを呼びよせた。


「彼女が貴女の話し相手になればいいと思ったが、言葉のことを失念していた。すまない」

「そんな!私こそ、学が足りず申し訳ありません」

「貴女は悪くない。だから、どうか無理はしないでほしい」

「無理なんて」

「貴女がここに馴染もうと努力してくれていることを知っている。

 それだけで俺はどうしようもないくらいに嬉しい」

「イヴェール様」

「ちょ、お前誰だよ!?別人すぎるだろ!つか二人の世界に入るのやめてくんない!?」

「ちっ、まだいたのか」


 甘い微笑みをエアルに向けるイヴェールに思わず叫んだアルセに思いっきり顔を顰めたイヴェールが舌を打つ。


「理不尽!」

「黙れ」

「何この扱い!?ホント嫌!俺も静奈に会いたい。癒されたい」


 呆然とやり取りを見ていたエアルはパチリと目を瞬いてくすりと笑う。

彼もまたイヴェールが心を許しているうちのひとりで、部下というよりは家族のような、友人のような存在なのだろう。龍哉と同じように。

 そう思うとアルセに対する緊張や警戒が一気に萎んで、ただただ目の前で繰り広げられるじゃれ合いが可愛らしくて笑みがこぼれる。


「エアル嬢?」

「ふふ、ごめんなさい。とっても仲良しなんですね」


 柔らかな笑い声と共に零された少しの羨望が込められた言葉にイヴェールは苦虫を噛み潰したように、アルセは面白いものを見るようにエアルを見た。


「腐れ縁だ」

「なるほど。イヴェールにはもったいないお嬢さんだ。

 やっぱり、俺のお姫様とも仲良くしてほしいな」


 パチンとウィンクをしてみせたアルセにエアルは目を丸くした後、柔らかく微笑んだ。

 ひとまず言葉の壁については置いておくことにして、件の女性を紹介されることになったエアルはパチリと目を瞬いてイヴェールとアルセを見た。


「え?もうこちらにいらしているんですか?」


 この部屋にその女性の姿がなかったことから当然、日を改めてだと思っていたエアルは思い当たったひとつの可能性に顔を引き攣らせてアルセを見た。


「あの、まさかとは思いますけど、その女性をおひとりでどこかの部屋に待たせていたりはしませんよね?」

「うん?そうだけど」


 何か問題があるのかと言いたげなアルセにエアルは倒れそうになった。

 流石のイヴェールも目を見開いてアルセを見ている。


「お前、馬鹿だろ」

「は?」

「言い争っている場合じゃありません!アルセ様は一刻も早くその方のもとに行って心からの謝罪と安心を差し上げてください!!」

「え?ちょ、エアル嬢?」

「いいからさっさと行ってください!!

 遠い異国のお屋敷に突然置き去りにされてその方がどれだけ不安に思っていらっしゃるか分からないんですか!!」

「!!ごめん、ありがとうエアル嬢!」


 慌てて出て行ったアルセの背中にため息が零れる。

 どういう経緯でその女性が侯爵家に来たのかは知らないけれど、アルセを信頼しているからこそ来たのだろうということは分かる。信頼しているアルセに突然、この広い屋敷の一室にひとりで待っていろと言われたら不安に思うだろう。


「大丈夫だ。母上が先にもてなしに向かっているはずだ」

「イヴェール様」

「アルセも普段はもっと気遣いができるんだが、相当舞い上がっているらしい」


 呆れたイヴェールの声にエアルは困ったように眉を下げた。




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