ご挨拶
結論から言うと、やっぱりラインハルトはやり過ぎました。
ずっと気掛かりだった旧主アルテュールが生き延びて、賢王とさえ呼ばれるまでに成長したと分かったのだから、気持ちが昂ぶっているだろうとは思っていました。
『おはようございます! ケント様、ラストックの護岸工事は、土属性魔法で固める部分を残して、ほぼ完成いたしましたぞ。ぶははは、ワシ等が本気出せば、ざっとこんなものですぞ。ぶははは、ぶははははは!』
ラストックの騎士や住民総出で取り組んで、三日で三割程度しか出来なかったのに、一晩で倍ぐらいの作業を終わらせた感じですよね。
カミラが、騎士達に何て説明するのか、ちょっと見てみたいですよね。
『さあケント様、次は何をやりましょう?』
『うーん……後でカミラに計画を作らせるから、続きはそれからね……ってか、まだ夜が明けてないんじゃない?』
『そうですな。ですが、一刻も早くお知らせしようと思いまして、急いで戻ってまいりましたぞ』
『うん、てか、ラインハルト泥だらけ……水浴びしてくるまでは部屋に出ないでね』
『了解ですぞ。では、水浴びしてきますぞ。ぶはははは……』
うん、夜明け前なのにハイテンション過ぎ……付いていけないよ。
ラインハルトが声を出せなくて良かったよ。
あんなテンションで話されたら、寝起きの悪いメイサちゃんでも起きちゃいそうだよね。
取り敢えず、もう少し眠らせてもらいます。
同級生達のメッセージを録画した翌日は、安息の曜日でギルドや学校はお休みです。
ですが、商店は休日の客を見込んで営業を行い、替わりに闇の曜日に休みを取る店の方が多いようです。
僕が下宿しているアマンダさんの食堂も、今日はいつも通りの営業です。
「ほらメイサ! いつまで寝てんだい。朝食抜きにするよ!」
「んぁ……やだ、食べる……もう起きた……」
今朝もメイサちゃんは、僕を枕にして朝まで爆睡していました。
日本に居た頃の僕ならば、鍛えて無かったからプヨプヨしていたけど、ヴォルザードに来てからは贅肉も落ちて、枕にするには硬いと思うんですけどね。
起きると、ほぼ毎朝、枕にされています。
まぁ、涎さえ垂らされないなら、別に良いんですけどね。
「おはよう、メイサちゃん」
「んー……ケント? おはよう……」
一応挨拶は返してきますけど、たぶん覚えていないでしょうね。
さぁ、僕も起きて、朝食を済ませて、今日も一日頑張りましょう。
「おはようございます、アマンダさん」
「あぁ、おはよう、ケントは今日も忙しいんだろう?」
「はい、昨日撮影したデータを届けて、それから、ちょっと……」
「撮影? データ? なんだいそれは」
「あっそうか……えーっと、僕の世界には、見た風景を記録できる道具があるんです」
「勝手に絵を描くのかい?」
「えーっと……そのうちに実物を見せられると思いますけど、絵よりも忠実に、動いている様子も記録できるんですよ」
「絵が動くのかい? なんだか不思議だねぇ……」
テレビや映画も見た事のない人に、ビデオの説明をするのは難しいですね。
これは実物を見てもらった方が早いですよね。
やっぱり再生用のタブレットを用意してもらいましょう。
捜査本部に行く前に、ヴォルザードの街並みも撮影しておきます。
魔の森側から城壁や門を撮影したら、城壁の上へと移動します。
安息の曜日の城壁は、カップルが集まるデートスポットですが、まだ朝早い時間なので、桃色空間にはなっていません。
城壁の上を歩きながら、守備隊の敷地やギルドの建物、領主の館なども撮影しました。
この映像を総理大臣も見るのかと思うと、説明のためにナレーションを入れるのが、何だか妙に気恥ずかしいです。
今回撮影したメモリーカードは全部で八枚になりました。
校舎の跡と王都を撮影したもの、みんなのメッセージをクラスごとに一枚ずつ計六枚、そしてヴォルザードを撮影したものです。
撮影内容を書いた封筒に分けて入れて提出する事にしました。
捜査本部の片隅には、ビデオカメラの電池の充電器が置かれていました。
使用して消耗した電池をセットしてから、須藤さんのデスクへ歩み寄りました。
「おはようございます、須藤さん、お休みなのに大変ですね」
「ん? 時差ボケしてるのかい、国分君、今日は水曜日だよ」
「あっ、そうか日本とヴォルザードじゃ一週間の日数も違うんだった」
「その様子だと、そちらの世界では今日は休みのようだね」
「はい、ヴォルザードだと一週間は八日で、今日は安息の曜日という休みの日です」
「悪いねぇ、休みの日まで動いてもらって」
「いえ、早く家族の皆さんに、みんなの元気な様子を見てもらいたかったので、これ撮影したメモリーカードです」
「ほう、もう全員分のメッセージを録画してきてくれたのかね。いや助かるよ、こっちは校舎に王都、それとヴォルザード、みんなが滞在している街だね」
須藤さんは、封筒の文字を確認して頷いています。
「校舎のところは、日が暮れかかっていたので、必要ならば明るい時間に撮り直してきます」
「うむ、では、ちょっと見せてもらおうかな」
須藤さんは、メモリーカードをパソコンに繋いだカードリーダーへセットして、録画したファイルを開きました。
僕も横からパソコンの画面を見させてもらいます。
「なるほど、確かに校舎のようだね。だが、こんな荒れ地の真ん中にあるのは奇妙な光景だね」
「これ、離れて撮ったんですけど、ここら辺が整地されていて魔法陣を描いた跡です」
「うん、なるほど、それを後で崩しているんだね」
「はい、そうです。この黒っぽいのが、魔法陣を描くのに使った魔石の残骸だそうです」
やはり校舎の部分は明るい時に、撮影し直して欲しいと要望されました。
そして王都の風景になると、須藤さんも息を飲んで画面に見入ってました。
「いやぁ……これは凄い眺めだね。地球だったら世界遺産ものだね」
「はい、僕も撮影していて、そう思いました」
王都アルダロスは、同じ土を固めて作っているので、赤っぽい屋根に白い壁という家並みが続く壮観です。
キッチリと区画が整理された貴族街や官公地区、一転して込み入った路地が続く商工業地区や平民の住む地区のコントラストも鮮やかです。
「これは、恐らく敵に攻められ難いように、わざとゴチャゴチャした街並みにしているんだろうね」
「あっ、なるほど……」
須藤さんに言われて気付きましたが、王城まで真っ直ぐに抜ける道は無く、水掘りに突き当たってから、どちらかに曲がらないと中心に行く道には出られないようになっています。
「これは、歴史学者達が見たら大騒ぎになるだろうね。いや、これは良い映像だよ、こんな都市は地球には存在していないって一目で分かるよ。何しろ電柱や電線、一台の自動車も写ってないからね」
須藤さんは、ヴォルザードの映像も確認し、こちらも同様の感想を持った様子でした。
「それでは、この映像を関係各所に送って確認してもらって、どういった対応になるのか……国分君に動いてもらうとしたら、それが決まってからだろうね」
「では、それまでは一日一回顔を出す感じで良いでしょうか?」
「そんな感じでお願いするよ」
再生用のタブレットとバッテリーもお願いして、ヴォルザードに戻りました。
雌鶏亭でクッキーを買って、一旦下宿に戻り、夕食会に呼ばれた時に買った一張羅に着替えます。
今日は、マノンの家に挨拶に行く約束をしてあります。
マノンのお母さんや弟には初めて会いますし、最近忙しくてマノンともゆっくり話が出来ていなくて、何だか凄くドキドキしてきました。
マノンからは、お昼少し前ぐらいに来てほしいと言われているので、時間を見計らって影移動で家の近くまで行って、そこから歩きました。
マノンの家がある地域には商店や工場はなく、いわゆる普通の住宅街という感じです。
マルセルさんの店を再建しているハーマンさんが言っていた通り、ヴォルザードの建築は基準となる高さと幅があるらしく、立ち並んでいる家は殆ど同じ大きさです。
なんとなく、東京で一斉に売り出された建売住宅を思い出しますね。
それでも、それぞれの家は、屋根や外壁、窓枠の色や形に違いがあって、そうした部分で違いを出して、装飾を楽しんでいるようです。
マノンの家は、周囲と同じく二階建ての一軒屋で、日本の建売住宅よりは二回りほど大きく見えます。
壁は明るいベージュで、ドアや窓枠は赤みの強いブラウンです。
家は南向きのようで、二階にはバルコニーがあり、洗濯物や布団を干したりするようです。
ドアの前に立って、二度、三度と深呼吸を繰り返して、さぁドアノッカーを鳴らそうと手を伸ばした時、バルコニーから声が聞こえました。
「これでも食らえ!」
反射的に目を向けると、視界にはバケツから撒かれた水が飛びこんで来ました。
咄嗟に闇の盾を出して、頭から水を被るのは防げましたが、周りに降り注いでズボンの裾にも跳ねました。
「なっ……なんだよ、それ! ズルいぞ、ちくしょ――っ!」
呆気に取られている僕を一方的に罵ると、水をぶちまけたグリーンの髪の少年は、バルコニーの奥へと姿を消しました。
たぶん彼がマノンの弟、ハミル君なのでしょうね。
ある程度は……と思っていましたが、予想以上に歓迎されていないようです。
でも、逆にこれで覚悟が決まりました。
最初は許してもらえないかもしれませんが、マノンとは真剣にお付き合いするつもりだと分かってもらえるように努力するだけです。
意を決してドアノッカーを鳴らすと、弾むような足音が聞えました。
「いらっしゃい、ケント!」
「こんにちは、マノン。お邪魔するね」
「うん、さあ入って」
今日のマノンは、ダークグリーンのゆったりとしたスカートに、ワイン色のブラウスという秋っぽい色合いの女の子らしい装いです。
「似合って……ない?」
「ううん、似合ってる。とっても可愛いよ」
「あ、ありがとう……」
頬を染めてはにかむマノンが可愛くて、ぎゅーってハグしたくなって歩み寄ろうとした時、奥から女性が姿を現しました。
「あらあら、いらっしゃい。あなたがケント君ね。あらやだ、ケント君なんて子供っぽいわよね。ケントさんってお呼びした方が良いわよね。まあまあ、そう……あなたが……まあまあ……」
「ちょっと、お母さん、そんなにジロジロ見るのは失礼だよ」
「は、初めまして、ケントです。あの、これ皆さんで召し上がって下さい」
「あらあら、そんな気を使わなくても良いのに……マノンの母、ノエラです。初めまして……なんだけど、いつもマノンがケントさんの話ばかりしているんで、全然初めてって気がしないわねぇ……」
「お母さん! もう、こんな所で立ち話は失礼でしょ」
「あらあら、そうね、それもそうね、さあさあ、中へどうぞ……」
「し、失礼します……」
マノンのお母さん、ノエラさんは明るいグリーンの髪で、ぽっちゃりとした小柄な体型で、パッと見は子タヌキみたいな感じがします。
第一印象だけですけど、明るくてお喋りな人のように見えました。
そして、階段の上からジッと視線を投げ掛けて来る少年が一人、なるほどノエラさんと良く似ています。
マノンはお父さん似で、弟のハミル君がお母さん似なのでしょうね。
「ク、クッキーなんかじゃ誤魔化されないからな!」
「こらっ、ハミル、何て事言うの、下りて来て挨拶なさい」
「ふん、やなこった……」
姿を消す様子が、何となく巣穴に隠れる子タヌキみたいですね。
「ごめんねケント、ホント生意気なんだ……」
「大丈夫、たぶん、お姉ちゃんを取られちゃうと思ってるんだろうね」
「そうなのかなぁ……いつもは、さっさと嫁に行けとか言うんだけどね」
リビングに案内されて、テーブルを挟んでノエラさんと向かい合いました。
マノンは、僕の隣に座っています。
ノエラさん、今はニコニコとしていますけど、マノンの他にも二人の女の子と付き合って、みんなと結婚したいなんて言ったら、その表情も一変するのでしょうね。
でも、僕が決めて、僕が選んだ道なのだから、言わない訳にはいきません。
「あ、あらためまして、今日はマノンさんとのお付き合いを認めていただきたくて、お伺いいたしました」
「あらあら、それはそれはご丁寧に、私はもう大賛成よ」
「えっと、それでですね……実は、マノンさんの他に……」
「知ってますよ、ベアトリーチェちゃんに、ユイカさんですよね。ベアトリーチェちゃんは小さい頃からお見かけして、可愛らしいし、とても良く出来たお嬢さんだけど、ユイカさんも素晴らしい方だって、いつもマノンが話してるのよ」
「えっ……僕が三人と、その、結婚しようと思っている事も……」
「はいはい、全部マノンから聞いてますよ」
自分のちょっと特殊な家庭環境を基準に考えて心配していましたが、マノンとノエラさんは、とても仲が良い親子で、いわゆる何でも話をする間柄なんだそうです。
僕の話は、それこそギルドの講習で初めて顔を合わせた頃から、気持ちの変化に戸惑ったり、ハッキリと恋心を意識した事やライバル二人の存在、僕が下した決断まで全部話を聞いていたそうです。
「以前、庭師の見習い仕事をした事があったでしょう? お風呂を覗かれた、全部見られちゃったって、帰って来てから大騒ぎだったのよ」
「お母さん! もう、その話はしないでって言ったじゃないの」
「あらあら、そうだったかしらねぇ……おほほほ……」
そんな事まで話していたのかと思いつつ、脳内保存しておいたマノンのお宝映像を再生したのは内緒です。
「ケントさん、私はケントさんに凄く感謝しているんですよ」
「えっ、感謝……ですか?」
「だってねぇ……この子ったら男の子みたいな格好して、全然恋愛とかに興味が無さそうで……まぁ、夫のような冒険者になりたいって気持ちも分からなくは無かったんだけど、ちゃんとお嫁に行けるようになるのか心配でねぇ……」
「お母さん! その話もしないでって……」
「あらあら、そうだったかしらねぇ……でも大丈夫よ、あんな格好していた頃のマノンを知っていても、それでも選んでくれたんだから大丈夫よ」
「うぅ……それは、そうかもしれないけど……」
確かに出会った時のマノンは、イケメン男子かと思っていたけど、今は可愛い女の子してるから全然大丈夫ですよ。
てかマノン、尖らせていた口元を、ふにゃって緩めるのは破壊力高いから、今は止めてほしいな、僕までニヤけるのを止められなくなっちゃうよ。
何て思っていたら、ノエラさんの後ろ、壁に掛けられた鏡の隅っこに、ドアからジトーっとした視線で覗き込んでいるハミルの姿を見つけました。
僕の隣に座っているマノンは気付いていないみたいだけど、ノエラさんは時折チラリと視線が動いているので気付いているんでしょうね。
「さて、そろそろお昼の準備をしましょうかね。マノン、今日はあなたが作るんでしょ?」
「う、うん、僕が作る……」
「ハミル、ちょっとこっちに来て、ケントさんのお相手をしてなさい」
「えぇぇ……何で俺が……」
「来月、お小遣い無しでもいいの?」
「ちぇっ……分かったよ」
「じゃあ、ケントさん、ハミルとお話していて下さいね」
「は、はい……」
えぇぇ……僕はお小遣いいらないので、席を外しちゃ駄目ですかねぇ……
ハミルは、僕の斜向かいの席に仏頂面で腰を下ろしました。
「えっと……ケントです、よろしくね、ハミル君」
「ふん、お前なんかに、姉ちゃんもベアトリーチェさんも渡さないからな、女たらしめ!」
「ぐぅ……」
ノエラさんは予想外に許してくれたのですが、ハミルは強硬に反対しているようです。
しかも話し方がイラっとするんですよね、この子タヌキは。
「えっと……ハミル君は、ベアトリーチェの事が好きなのかな?」
「ば、ば、ば、馬鹿な事言ってんじゃねぇよ。そんな訳ねぇだろう、ばっかじゃねぇの……」
いやぁ分かりやすいですねぇ……子タヌキ顔が、あっと言う間に真っ赤ですよ。
こうなると、ちょっと弄ってみたくなっちゃいますよねぇ。
「そうなんだ、ベアトリーチェを好きではないんだね」
「と、当然だろう、女なんかとチャラチャラしてられっか……」
「そうかそうか、それを聞いて安心したよ。何せベアトリーチェは僕にベタ惚れだからねぇ……」
「なっ……そ、そんなはずないだろう! ばっかじゃねぇの!」
うんうん、今度は違う意味で顔真っ赤だねぇ。
「僕も最初はそうだと思ってたんだよ、からかわれているだけだって……」
「そ、そうだろう、当然だ。お前なんかをベアトリーチェさんが好きになるはずないだろう」
「いやぁ、それがさぁ、この前、クラウスさんに夕食に招かれた時に、酔っ払っちゃって泊まったんだけどさぁ、目が覚めたら同じベッドでベアトリーチェを抱き抱えてたんだよねぇ……なんか、夜中にベアトリーチェが忍び込んで来たみたいでさぁ……」
「う、嘘だ! そんな事あるもんか! でたらめだ! だいたい、何でお前が招待されたりするんだよ」
ハミルは立ち上がってテーブルを叩いて怒鳴り散らしました。
「えっ、だって僕、この前の極大発生を撃退した時に一番活躍したし、だからベアトリーチェとの仲をクラウスさんも認めてるしね」
「嘘だ、嘘だ、嘘だ! お前なんかが活躍できる訳ないだろう。嘘つくな!」
「うん、そうだねぇ……僕自身は、そんなには強くないけど、僕が何て呼ばれてるか知ってる?」
「えっ……ま、魔物使い……」
マノンがノエラさんに何でも話しているなら、当然ハミルも色々な話を聞いているだろうと予想したのですが、思った通りでした。
「そう、僕はそんなに強くないけど、僕のために働いてくれる眷属のみんなは凄く強いよ」
「だ、だとしても、お前が強い訳じゃないじゃんか。ベアトリーチェさんが好きになる訳ないだろう」
「でもさぁ、僕が居なくなっちゃうと、眷属のみんなもヴォルザードから居なくなっちゃうし、そうするとまた極大発生が起こったりしたら困るよねぇ……領主のクラウスさんとしては、何としても僕に街に居てもらいたいだろうし、その為にはベアトリーチェが自分を犠牲にしてでも……」
「ふ、ふざけるな……お前なんか居なくったって、俺がヴォルザードを守ってみせる。僕がベアトリーチェさんを守ってみせる」
「ふーん、出来るのかなぁ……極大発生の危機は、こうしている時にだって起こっても不思議じゃないんだよ。今のハミル君に守れるのかなぁ……」
「う、うるさい……俺だって、俺だって……」
ありゃりゃ、ちょっとやり過ぎちゃったかな。ハミルがポロポロと涙を零し始めてしましました。
「ケーンートー……なんでハミルを泣かせてるのかなぁ……」
「ひゃい……えっと、マノン、これはその……ごめんなさい」
「うえぇぇぇ……お母さん、あいつが虐めるぅ……」
「ケントさん、これはどういう事なのかしら?」
さっきまでと同じくニコニコしているんだけど、ノエラさんの目が吊り上がってますね。
「えっと、そのちょっとした行き違いと言いますか、見解の相違と言いますか……」
「あいつが意地悪言うんだ……あいつ嫌いぃ!」
「ケントさん!」
「すみませんでした! 水掛けられたりして、ちょっとイラっとしちゃって……大人げなかったです、ごめんなさい」
膝に頭を打ちつけるような勢いで、頭を下げました。
「水を掛けられた? ハミル……どういう事かしら?」
「えっ……お、俺、何にも知らないよ」
今まで、べったりとしがみ付いていたハミルが離れようとするのを、ノエラさんがガッチリと捕まえました。
「ハミル、ケントさんに水を掛けたのね?」
「うぇ……で、でも、あいつ黒い板みたいの出して……」
「ハミル!」
「ごめんなさい……」
この後、三十分ほどハミルと一緒に、ノエラさんのお説教を食らうことになりましたとさ、とほほ……
「まったく、ケントは何をやってるんだよ。いずれハミルの、その、お、お義兄ちゃんになるんだから、しっかりしてよね」
「えっ……そうか、そうだよね。よし、ハミル君、僕をお義兄ちゃんって……」
「呼ぶわけないだろ、調子に乗んな!」
ですよねぇ……ノエラさんも苦笑いしてますけど、ちょっと言ってみたかっただけです。
お説教が終わって、みんなで昼食を食べる事になったのですが、パスタやソーセージなどと一緒に見慣れた一品が並べられました。
それは、ちょっと形が崩れた卵焼きでした。
「えっ……卵焼き?」
「ごめんね、上手に焼けなくて……ユイカに習ったんだけど……」
途中からマノンの言葉も耳に入って来なくなって、呆然と見詰めていた卵焼きが、突然グニャっと涙で歪みました。
ぼくの頭の中には、もう何年も前、遠足の日の光景が蘇っていました。
「ケント? ちょっと、ケントどうしたの……?」
「うぅ……うぅぅぅ……」
僕の母さんは料理が苦手で、普段はお婆ちゃんがご飯の支度をしてくれていました。
ある遠足の日の朝、お婆ちゃんが熱を出して寝込んでしまい、母さんがお弁当を作ってくれた事がありました。
子供ながらに母さんが料理が苦手と知っていたので、お弁当を作るのを心配しながら見守っていたのを覚えています。
母さんが作ってくれたのは、歪なおにぎりに、たこさんウインナーと、ちょっと形の崩れた卵焼きでした。
「ごめんね、上手に焼けなくて……お母さん、料理が下手だから……」
申し訳なさそうに母さんは謝っていましたが、僕は母さんの作ってくれたお弁当を持って遠足に行けるのが、とても嬉しかった事を鮮明に思い出しました。
でも、母さんはもう居ない。ちょっと甘すぎるぐらいの母さんの卵焼きを、もう二度と食べられないんだと思ったら、涙が止められなくなってしまいました。
あれほど信じられなかった母さんの死が、突然現実のものとして僕の心に圧し掛かって来たのです。
脚から力が抜けて、その場にへたり込んでしまいました。
「僕が、僕がもっと母さんと話をしていれば……もっと、もっと早く日本に戻れるって気付いていれば……母さんは……母さんは……うぁぁぁぁぁ……」
「ケント……」
マノンが抱き締めてくれても、僕は泣き止むことが出来ませんでした。





