第二十八話:堅忍不抜
空の色が暗く変わり、空気が変わる。
上昇している間に風に流されたのか、地上から離れすぎたのか、見える範囲は夜だった。地平線が地球の輪郭に沿い、極寒の大気は低密度に揺れる。そこはすでに、成層圏だ。
美空は今さらのように、操縦桿を握る手を震わせていた。キャノピーの中は完全気密だが、気温は一三度前後と少々寒い。しかし、手が震える理由は、気温だけではなかった。
詩緒奈の向ける銃口が、美空の目に焼きついている。
直撃していれば、防御の力場などたやすく食い破り、装甲に守られたごく一部を除いて、美空の体が弾け飛んでいただろう。今の美空にとっては、その事実よりも、詩緒奈に敵意を……明確な殺意を向けられたことのほうが、堪えていた。
震えている手を握り、ふと顔を上げた美空は、機外にいる玲花に声をかける。
「寒くない? 玲花」
「少し、寒い。でも大丈夫」
返事に無理をしている感じはない。宇宙空間に耐用するコントロールギアの防護機能は、堅牢すぎて呆れるほどだ。戦闘ほどの殺傷力さえ向けられなければ、安心していられるだろう。
玲花を抱っこするような形で、アテナは夜明け前のような空を飛んでいく。
急な温度変化で、機体の表面に霜が降りている。それでもオリハルコンの機械構造は動作に何の不良もみせなかった。
「ここまで来たけど、どうするの?」
「もっと高く、大気圏外まで行く。そこまで行けば、アマツマラがあるから」
「アマツマラって、確か、宇宙研究機構の宇宙ステーション兼オリハルコン研究所?」
聞き返しながら、美空はキャノピーから玲花を見下ろす。玲花は冬の湧き水のように凛々しく引き締めた表情で、まっすぐに宇宙を見上げている。
「……全部、終わらせるときだと思う。ヘファイストスを入手したから、きっとなにか作ってるだろうけど……もう、それがいい研究になるとは、思えない」
「玲花……」
決然とした言葉に、美空は絶句する。なによりも、その淡々とした言葉の背後に、古い刻印のような悲しみが透けていた。玲花は表情を緩めて、キャノピー越しに美空を見上げる。
「私、宇宙で生まれた、って言ったよね」
「うん、聞いたよ。最初に基地で会ったとき」
そのとき、国籍がどうとか死ぬほどどうでもいいことを喋ったことを思い出して、美空は胸が締め付けられた。あのときも、まとめてくれたのは詩緒奈だ。
玲花は静かに、子どものころ柱につけた身長を測る傷を撫でるような声で、そっと言った。
「アマツマラは、私が生まれて育った場所。そういうの、故郷、って言うんだよね」
玲花は、研究を手伝いながら育ってきた。まだ、老原も老原の息子も生きていて、ラディカルもリインフォースデバイスもなかったころから、宇宙研究機構で生きていたのだ。
それを玲花は、淡々と言った。
「全部壊す。ちゃんと砕いて、再突入させて、最後まで処理する。デブリ除去装置が……五十年計画の中心を担ったカンダクトデバイスが、宇宙にあるから、まずはそれを取りに行こう」
その強さに、美空は目を伏せた。敬服を心に隠して、声はなにもなく、いつも通り。
「カンダクトデバイスって、あのデッカイやつだよね」
「大きさが問題なわけじゃない。美空が見たのは、オリハルコンのエネルギー資源を利用した宇宙ステーションの補給船だから。設備の修理とか増築とか、色々できるように作ったから大きくなったの。アマツマラの二号を組み立てる計画にも、使われる予定だったんだよ」
「あ、そうだったんだ?」
「まあ、これから取りにいくものも、同じくらい大きいけど」
「あはは」
玲花はアテナの腕の中で、ブレスレットを取り出した。黄色と白と緑。
「これと私と美空の五つで、デブリ除去のカンダクトデバイス”アイギス”にコンタクトできる」
「揃ってなきゃいけないの?」
「危険だから、安全のために。大きいデブリもアームのレーザーカッターで細切れにするの。二〇〇トンクラスの宇宙ステーションも、二十時間のミッションで処理できる設計になってる」
「へぇ、すごいんだ?」
数字など分からないが、とりあえず美空は感心した。
機体の霜はもう消えて、空気の色合いが変わってきた。地球の稜線を見下ろせるほどの高さになり、宇宙の星がハッキリと見える。地上は雲でほとんど認識できない。
ばす、とアテナのエンジンが途切れて、ジェット噴流から推進剤燃焼に自動で切り替わる。アラートとともに、推進剤の残量が表示された。
「もう宇宙まで来れたかな?」
「まだ、成層圏より上の中間圏。人工衛星のある大気圏外はもう少し上のほうで……」
玲花が解説しながら顔を上げて、顔を凍らせた。
「美空、上! 逃げて!」
「え? 何、敵?」
美空はとにかく回避運動を始めながら、顔を上げて玲花の視線を探す。上空、薄霧のような大気が揺らめく暗闇のなかに、赤く燃える物体が見えた。足元のみで、全身が燃えるには至らない。大きすぎる胴体は黒く艶めくような甲殻に覆われている。片腕はない。
その姿を見た途端、美空の頭が真っ赤に染まって、歯を食いしばるように唸った。
「出たなトカゲっ!」
「出るともアテネ。まったく、せっかくアイギスを使えるようにしたところだったんだけど。その解錠キー付きの上位命令が優先されるんじゃ、なんにもならないじゃないか」
うんざりと首を振って、その巨体……リインフォースデバイスのみならず、カンダクトデバイスも蒸着している竜人は、手に光の粒子を集めて剣を生成する。
「まあ君たちに対処すれば、地上派は名実ともに消滅……無駄な殺生はしたくないけど、どう? 諦める気はないかな」
「諦めるわけないでしょ! 詩緒奈に変なこと吹き込むし、人の迷惑考えないし!」
「変なことじゃなくて、理論上の可能性を教えただけだよ。大局的に見れば、オリハルコンによってもたらされる革新を妨げる君たちのほうが、よっぽど迷惑かもしれないだろう」
竜人は小ばかにしたように両腕を軽く広げてみせて、ゆるりと首を振った。
「ま、こんなところまで楯突きにやってくるんじゃ、諦めるわけないよね。仕方ない」
「仕方ない、って……仕方ないで人を殺すの!」
美空の心は波立っている。リフレインのように、橋が砕けて美晴が落ちる瞬間が目の前に浮かび上がるようで、瞬きが増える。竜人は、まだ散弾を撃つ気配は見せない。
「仕方ないだけマシじゃないか。ムカついただの金欲しさだの、もっとくだらない理由で殺される人はごまんといる」
「そんなことを言ってるんじゃない!」
「分かってるよ。善悪の相対性と絶対性の話だろう? でも、君の人命尊重に対する善悪観念だって身勝手なものじゃないか。時代性のものを取り上げて批判するのはアンフェアだ」
「あーもーなに言ってんだかわっかんない! 話通じないしっ!」
美空はむきーと吠えた。
竜人が剣を振りかざす。慌ててマニューバで回避機動に乗せようとして、空気が薄すぎることに気づいた美空は顔色を変える。仮に玲花をなんとかして戦闘機に変形したとしても、それほど大きな空力機動ができない。
「くっそう!」
片手だけに剣を構えて、回避しきれない竜人の剣戟を弾き、吹き飛ばされる形で回避する。
極端な機体制御に振り回されながら、玲花は悲鳴のように声を上げる。
「美空! 私はいいから逃げて!」
「そういうわけにも、いかないでしょ! それに超高高度すぎて、戦闘機に変形しても大して変わんないし!」
「そういうことじゃなくて! アイギスを誘導して、カンダクトデバイス同士で戦わないと、力の差が大きすぎるの!」
「なるほどっ!」
背後に迫った剣戟を打ち払い、きりきり舞いになるアテナを操縦桿と足踏桿を蹴り回しながら制御する。推進剤の残量はまだ余裕があるものの、目に見える速さで目減りしていく。
「って、玲花放って行けるわけないじゃん!」
「ぐ、くう。でも、たぶん、そんなに遠くないはず……」
遠心力で目を回している玲花が、苦しそうに顔を歪めてうめく。
美空は歯噛みして、アイギスというらしい巨大建造物を探す。あんなに大きいのだからすぐ見つかるはず、という美空の予想に反して、それを大きく上回って全方位に広がる空間のなかに、それらしい影を見つけられない。
「逃がさないよ!」
竜人は剣尖を差し向ける。光で作られた剣が割れ、散弾となって美空に降り注ぐ。まるで星雲が迫るような光る壁の行進に、美空は獰猛な獣のように笑った。
「今度は、全部避ける!」
全速で後退するが、弾速はその十倍はある。あっという間に距離が迫る、その空隙に美空は少しでも弾幕が薄いところへと、アテナを滑り込ませた。位置取りをしたとたん逆方向に推力を振り向け、機体を寝かせる。被弾面積を減らした上で、光の球を打つ要領で力場を振り向けて弾を押しのけ、どうしてもかわせないものは剣で斬り払う。斬撃の誘爆が起きるころには、美空の機体は大きすぎる相対速度差によって星雲を抜けている。爆発は波紋のように広がり、星雲のようだった弾幕は、保持するエネルギーを熱と光に変換して解放した。
小さな太陽が生まれたような光の明滅が過ぎる。
美空や玲花の全身を目隠しのように覆ったコントロールギアの力場が消えた。美空は小さく息をつく。長かったような一瞬は、一瞬でしかなく、竜人は身じろぎもしていない。
「防ぐどころか、かわされた?」
ようやくアテナを見つけた竜人は、不思議そうにつぶやき、敵性勢力の残存をようやく理解して剣を再び携える。さすがに美空も、顔に危機感を乗せた。
「げ。さ、さすがにもう無理。ホントに、差が大きすぎるかも……」
「来た!」
玲花の叫びに美空が顔を上げる。




