第二十四話:哀毀骨立
翌朝の美空の顔は、色褪せていた。
鏡の向こうに立っている美空は、ひどく疲れてやつれたように見える。ひゅ、と音が漏れて、口の端を吊り上げて笑った。見下したような笑みだった。
顔だけ洗って化粧水をつけてから、洗面所を出る。リビングの机には、半分だけ食べた弁当が投げ出されていた。それを見て、立ち尽くす。
「……昨日は寒かったし、大丈夫、かな」
美空は椅子を引いて、腰を下ろした。もそもそと残りを食べ始める。面倒くさかった。
咀嚼しながら顔を上げて、そこがいつも座る席であることに気づく。向かいに美晴を置いて話しながら食べるための配置。
口の中が乾燥して、食べ物がざらつく。胸が、気道がよじれるように痛んだ。鼻頭にしわを寄せて、きつく目を閉じる。深呼吸して、その音の静けさが、部屋に浸透していく。
その弁当は震えが出るほどまずかった。おそらく筑前煮のじゃがいもが固かったのだろう。
美空は歯を磨き、服を決めて、メイク道具を揃えて折りたたみの鏡を机に立てる。美空の部屋の机は、それだけでいっぱいになってしまう。
鏡に区切られた顔を見下ろして、深呼吸した。もう一度息を吸い、吐く息に乗せて微笑む。微笑は数秒で決壊した。女の子は笑顔が一番可愛い、という美晴の言葉は、まったくその通りだと美空は思う。そして、笑顔の褪せた美空は、まったく可愛くなくなったのだ。
落ち着くまで、さほど時間は要さなかった。一人で過ごすには、この部屋は静かすぎる。
いつもより念入りにメイクした顔を鏡に映す。その顔は、少なくとも、まずくはないだろう。笑おうとして、やめた。
携帯を取り出して、時刻を確かめる。九時三十六分。なんとなくそのまま眺めていると、画面が変わり、突然音を出して震えだした。驚いて放り上げた携帯をつかむ。
玲花。着信だ。
「もしもし、玲花?」
耳に当てて、無駄に窓に顔を寄せながら話しかけた。電話口の向こうに風の音がして、混ぜ込むように玲花の声が滑り込む。
「ん。おはよう、美空」
「う、うん。おはよう。もしかして玲花、もう来たの?」
窓から外を覗き込んでも、一階など見えはしない。向かいの家の黒い屋根が見えるだけだ。玲花は少し恥ずかしそうに、困惑した声を返す。
「いつ頃がいいか、分からなくて……まだ出られないなら待ってるけど」
「いや、いいよ。驚いただけで、今準備のほうが終わったところ。休むつもりなのに早く起きちゃった、って思ってたのに、ちょうど来たから」
「そう。よかった。下で待ってる。あ、スカートは止めておいて」
「平気、あんまりスカートは履かないんだ」
笑って、じゃあ行くから、と言って通話を切る。窓から離れ、ハンガーに掛けていた上着を取って袖を通す。机に乗せた鏡が目に入った。そこに写る美空は、丈が長いボーダーシャツに丈を合わせた薄手のアウターを羽織っていて、背が高く見える。見えない下半身は七部丈のスキニーパンツで引き締めている。肩紐の長いリュックを取って、明るい色のハイカットスニーカーに足をねじ込み、家を出た。
階段を下りてエントランスを出ると、マンションの表にバイクが寄せられている。
バイクと言っても、実は”青藤のヘスティア”であるため、フレームやバンパーに囲われてサイズばかりやたらと大きい。ガルウィングのようにドアが高く開けられているが、美空はその構造が実は腕であることを知っている。
「おはよ、玲花」
「うん。はいヘルメット」
バイクにまたがったまま待っていた玲花から、メタリックシルバーのフルフェイスヘルメットを放り渡される。空気抵抗を意識した流線型の形状に、ミラーバイザーのフェイスガードだ。
ふと、かぶる前にバイクの後ろに回って、覗き込む。変形すると背中になるエンジン下部にテールランプがつけられていて、その下の固定器にナンバープレートが貼り付けられている。横浜ナンバー。本当に着いているのを見ると、意外に様になっている。
「美空?」
「あ、ごめん。行こっか」
ヘルメットをかぶって顎のベルトを締める。幸いサイズは大体同じだった。ベルトを固定する長さが、美空のほうが少しばかり長いだけだ。
玲花は、顎部分のないジェットヘルメットと呼ばれる形状のヘルメットをかぶっている。バイクでルーフに気をつける貴重な体験をしながら、慎重に乗った。美空でも少し下がれば背中がエンジンルームに当たる。太い人はそもそも乗れないだろう。
「エンジンに触れないように座ったほうがいい。通常走行のときはすごい揺れるから」
「……なるほど、タンデムシート狭いね」
「もともと、一人用の設計だから。しっかりつかまって」
ばるる、と始動したエンジンが吠える。玲花は迷いなく身に染み付いた動きで、スロットルを開けてクラッチを少し入れてブレーキを外しゆったりと滑らかに走り出す。騒音を減らした完璧な走り出しだった。
もしかして変形して戦っていても操縦技術があがるのか、と美空は疑いかけたが、戦闘機に乗る機会はないだろうし、あったとしてもエンジンの左右でスロットルが分けられている操縦方式もありえないので、美空がそれを試す機会は永遠にない。
生活道路から一番近い二車線道路に出て、すぐに信号待ちで止まる。その短い間の安定感だけで、玲花の運転技術が信頼に足るものであることは容易に知れた。横断者もいない。後ろについた事業所の軽自動車が、物珍しそうに玲花のバイクを見つめている。
「ねえ玲花、どこ行くの?」
「公園?」
疑問形? と美空が不安になるのを他所に、青信号に従ってバイクは走り始める。
数十分。美空が体にけだるさを覚え、乗っているだけで溜まる疲労を初めて自覚したころ、玲花のバイクは公園に到着した。
それは確かに公園ではあるが、広々とした森林公園だ。施設跡の敷地に作られたもので、その史跡や博物館も併設されている。桜の名所でもある。今は時期を外していて、ひと気は少なかった。平日だからだろう。
駐車場にバイクを止めた玲花は、降りた美空にケースから取り出したカメラを見せる。
「写真。教えるって言ったから」
玲花の細い手に不釣合いなほど無骨な一眼レフカメラを、美空はまじまじと見る。玲花の顔に視線を移して、笑顔を湧き立たせる。
「ありがと! 玲花ったら本当に真面目だなぁ」
表情を動かさない玲花だが、その口許はほんの少し引き締められている。照れていた。
波打つような丘陵は広々として、散歩の老人や子供連れなどが数組いるに留まっている。
その一部に陣取って、ひとつのカメラを覗く二人組。玲花は美空がカメラを構えもしないうちから、いきなり感度や絞り、シャッタースピードについて講釈を始めた。わけも分からず生返事を続ける美空は、玲花が露出や画角、被写界深度まで語り出すに至って、ようやく話の内容がカメラの応用的な操作であることに気がついた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 私カメラなんてオートモードしか使ったことないから! もうちょっと基本的なところから教えてよ」
「……そう言われても、いじらなかったら、ボタン押すだけだし」
つくづく玲花は致命的に説明が下手だった。




