第二十二話:悲歌慷慨
「くっ」
まだ霞む目に力を入れて、美空は起き上がろうとする。
アテナは、見事に観覧車の中にはまり込んで、蜘蛛の巣にとらわれた蝶のように身動きが取れなくなっていた。ねじ切ろうと力場を発生させようとした美空の耳に、声が触れる。
「美空、お前美空だろ! なにやってんだ!」
「えっ?」
それは、聞こえるはずのない声だ。
スーパーカブに乗った美晴が、傾いた観覧車に乗るアテナに向けて声を張り上げている。
「な、なんでここに、っていうかどうして私って……お母さんっ?」
混乱はひとまず置く。美空は通信機に手を触れて、外部拡声を確認してから呼びかけた。美晴は安心したように相好を緩めて、しかしまた鬼の形相に摩り替わって怒鳴る。
「避難するどころか、こんなところでお前なにやってんだ!」
「お母さんこそ、なんでこんなところにいるの!」
「怪しいと思って、探したんだよ! そしたらなんか、海のほうの空がおかしくて、ほら美空、日曜のデブリ騒動んときも、様子おかしかったろ! 何かあると思って、そうしたらなんか怪獣はいるしロボットも……んにゃああもうなんかわけ分かんないけど! でも! 美空がいて、危ない目にあってんなら、助けに行くだろっ!」
「お母さん……もう、わけ分かんないよ……」
混乱する美晴の説明に美空も混乱しながら、ただ、夢ではないかという疑惑だけが晴れて、美空は嬉しさのあまり微笑んだ。
封鎖地域にカブを転がして突っ込んでくるなど、正気の沙汰ではない。まして、本当にいるかどうかも分からない娘のためにだ。正常の判断ならありえないことだが、そこを振り切り、まして正確に当ててくるのが、お母さんらしい、と美空は感じた。
光の力場がぶつかり合う、雷鳴のような音が響く。竜人を止めようとした玲花を、隻腕だけで容易くすくい上げ、背後に高々と放り投げた。その腕を止めずに光を集めて剣を作る。
たちまちに剣が真っ二つに引き裂かれ、吹き飛んだ剣身が湾岸道路を切り裂いた。水道管が破裂して水が噴水のように吹き上がる。
竜人は快活に嗤う。
「そりゃあ、諦めが悪いか! あんたは目的のためなら、仲間さえ殺す人間だもんね!」
「なんとでも言え! いまさら汚名の一つや二つ、構うものか!」
「ははは! 素晴らしい開き直りだ! でもね、あんたの負けは決まってる! なぜならあんたは、勝ち目がなくても、ヘファイストスを捨てることだけは出来ないからだ!」
二振り、三振り。断ち切られるたびに竜人は剣を作り出し、振り向けられるたびに老原はその剣を切り裂いていく。斬撃の余力だけで押しのけられるように、老原の体は高く高く、打ち上げられていった。
その冗談のような光景に、部外者であった美晴は唖然と立ちすくむ。
竜人のよどみない動きは止まらない。玲花は海面を重たく割って、やっと鈍い巨体を起こす。老原は震える腕を必死に押さえて、その連撃をしのいでいく。
「目的のためなら仲間を裏切ることも、殺すことさえも厭わないあんたの、夢と理想と知識のすべてを託した息子はもう死んだ! あんたには何も残っちゃいない! オリハルコンの未来を潰してまで、夢と一緒に自殺することは、あんたにはもう出来ないのさ!」
逆袈裟の斬り上げは、スッパリと剣身が断たれて高々とロケットのようにすっ飛んでいく。剣を捨てて、頭上にまで高く打ち上げた老原目掛けて、竜人は散弾を叩き込んだ。
今度こそ逃れる術もなく、老原は空中で怒涛のように押し寄せる光弾の群れに、圧殺される。
もはや視覚が機能しない刹那において、老原は、己の微笑を自覚していなかった。
「――やっと、みんなに謝りに行けるか――」
音もなく、オリハルコンのみを残して、塵も残さず消滅する。
そのオリハルコンを、竜人は握る。手のひらを見下ろして、小さな欠けらに過ぎないようなヘファイストスがそこにあることを確かめた。
美空の救助に掛かる美晴は、もう怪獣の動きに意識を裂くことを諦めている。人型を模した奇妙なロボットの、鼻先に収められている美空に叫ぶ。
「美空! 早く、逃げるぞ!」
「逃げられないよ! だって私、これっ! やらなきゃって!」
美空は必死になって訴える。動揺と焦りで言葉が絡まっていた。その言い回しに、しかし、美晴は怪訝な顔でロボットを見上げる。
向けるべき言葉を掘り出すよりも先に、竜人が振り返った。
「さて、僕はもう帰るから、ちょっとうずくまっててね」
平静で無慈悲な判断が、竜人に撤退戦を始めさせた。追撃を封じる散弾を、海面の玲花と身動きの出来ない美空に向けて放つ。防御の姿勢を取る玲花と対照的に、美空は顔を青ざめさせて、操縦桿をひねった。
「お母さん!」
機械の腕からあふれた光が、観覧車の捻じ曲がった鉄骨を引きちぎり、吹き飛ばす。飛びつくように美晴を体の下に隠して、美空は砲弾をアテナの背中で受け止めた。
キャノピーごと吹き飛ばされそうな衝撃が美空の全身を叩く。喉からあられもなく悲鳴がほとばしっていた。それでも操縦桿を握り締める手は緩まず、その場を動かないための推力は怠らない。衝撃でアテナがなぎ倒されれば、機体の下に隠す美晴をひき潰してしまうからだ。
だが、耐えられる。
美空は微笑んだ。オリハルコンの機体は、頑丈さだけなら、何物の追随も許さない。
キャノピーの下にいる美晴の、驚いたような顔が、消えた。
アテナの全身を、慣れ親しみさえした、落下の浮遊感が襲う。
橋が折れていた。
美晴は投げ捨てられた人形のように、手足を投げ出して落ちていく。崩れた橋の瓦礫が、くるくると回りながら空隙を滑り落ちる。水面を叩き、飛沫を上げ、かき回して白く泡立たせて。まるでぶつ切りにしたじゃがいもを鍋に投げ落とすかのように、美晴の姿は見えなくなった。橋の残骸は次々と転がり落ちて、水面を叩いていく。瓦礫で揉み洗いをするかのように、撹拌された流れによって、コンクリートの塊はごろごろと流れの中を転がる。
それは”赤のアテナ”が水面に落ちるまでの一瞬で。
生身の人間が骨と内臓を磨り潰されるには充分な、重量のある一瞬だった。
満天の星空は、黒煙に濁っていく。




