第二話:迷走磊落
「詩緒奈、待って!」
このまま流されて避難しかけた足を、踏みとどめた。
素早く身体を翻し、美空は流れを突っ切っていく。ガードレールに足をかけたところで、顔色を変えた警官が飛んできた。
「ちょっと、何やってるんだ! 早く戻りなさい」
「すみません、友達を探さなきゃ!」
「避難先で合流できる! 先に避難を優先しなさい!」
美空の主張を取り違えて、警官は美空を避難の列に押し戻そうとする。しかし、詰めて歩いていた川のような行列の惰性が、美空の入り込む隙を作らせなかった。
前にも後ろにも行けず、美空は慌てて釈明しようと口を開く。
その瞬間。
空気が震えた。
雷が落ちたような音が空を渡る。稲光は見えず、空は不思議なほど雲ひとつなく晴れている。ビルに区切られた狭い空には、何も見えない。
「な、なに?」
高くそびえるビルは空の光をさえぎり、薄い影を道路に落としている。ひと気のない店が幽霊のような電灯の光をあふれさせ、鏡面ガラスは暗く街並みを映す。
雷鳴が再びとどろいて、めりめりべきべき、と地鳴りのような凄まじい音が響いた。
空も地面も変化が見えない。
ただ恐ろしげな轟音だけが巻き起こる。
その不可解な現象は、人々の間に波紋のような危機感を広げて回った。
見えないところで、なにか致命的な危機が訪れているのではないか。
この危機が目前に現出するころには、すべてが手遅れになるのではないか。
間に合わなくなる前に、逃げなければならないのではないか。
水を打ったようにざわめきが止まった人々は、同時に、不穏な脅威を共有した。
「うわっ!」
行列の誰かが悲鳴を上げる。
その悲鳴が連続し、誰かが分け入って逃げているらしいことが感じられた。誰かがそれに続き、また誰かが真似た。
「に、逃げろ!」「うわあ!」「ぎゃ、痛い!」
ざわめきは風のように吹き渡り、一気に増大していく。悲鳴と恐怖に追われて、阿鼻叫喚のパニックが突然そこに現れた。
「落ち着いて! 走らないでください!」
警官が真っ青な顔で群集にかかる。それにさえ怯えて、パニック状態は加速した。
「な、なにこれ」
美空はほとんどはじき出されるようにガードレールを飛び越えて、公道からその狂態を眺めた。
形のない脅威が人間を襲っている。
誰かが転んで、誰も助けようとしない。
災害。
美空は真っ先に、災害が起こったのだ、と感じた。無差別に人を襲い、食らい、傷つける。これを災害と言わずしてなんと言おう。
誰かがガードレールを乗り越えて逃げる。
氾濫した川のように、人々が次々と公道に逃げ始め、押された誰かがガードレールで転び、その誰かを避け切れなくて誰かが誰かにぶつかった。
美空より後ろのほうの人々もまた、公道を逃走経路に選び始める。巻き込まれないように避難する美空の腰に、女の子がわあっと泣きながら抱きついた。
「ママあああああっ」
「ええぇっ!?」
隠し子ではなく、迷子だ。避難するうちに親とはぐれてしまったのだろう。無理もない、と美空は思う。この状態では、隣に家族がいても気づくまい。
美空は道の端に避けながら、身を屈めて女の子を庇う。女の子の両手をまとめて右手で握り、左手でしっかりと小さな体を抱きしめる。
「大丈夫、泣かないで。ママはきっと見つけるからね」
体を揺すり、子どもの背中に腕を回して励ます。
美空は口の中で唱える。優先順位だ。
自分の意思で行った詩緒奈を探すより、この子どもを守らなければならない。きっぱりと詩緒奈を諦めて、今、自分のするべきことに頭を切り替える。
「オッケ。大丈夫だからね、お姉さんに任せなさい。こう見えて、目のよさと気合と体力には、自信があるんだから」
ひぐ、としゃくりあげる女の子は、不思議そうに美空を見る。にまり、と笑みを向けると、おずおずと微笑み返してくれた。
その笑みに救われたように、美空は励ましではない笑顔を浮かべる。女の子の頭を撫でる。
「そうそう。女の子は笑顔が一番可愛いんだから、笑ってなきゃダメだぞ」
もう一度、雷が鳴った。
今は不気味な雷鳴などより、すぐ背後を怒涛のように逃げ惑う人々のほうが、よほど恐ろしい。
体を強張らせる女の子を励ますように抱えなおして、美空は悔しさに歯噛みする。
ふと、顔を上げた。
人々のうえ、ビルの向こう。晴れ渡る青空は、青が過ぎて、どこか黒く見えてしまう。
その間に、何かが、見えた。
黒い影、細い何かが大気を割って落ちてきている。細いというより、遠い。信じられないことには、それは手足のような四肢を持って、蠢いている。
「宇宙人……?」
追いすがるように、別の影が飛来した。ゴテゴテと角ばっている人型。
いや、腕や足、体などに鎧のようなものを着けているのだろう。頭が無いように見えるが、肩や胴が大きすぎるだけなのだ。
しかし、少なくとも人間ではなかった。
距離感と、傍にそびえるランドマークの超高層複合ビルとの縮尺が、おかしい。見た目よりよほど近いか、距離が確かならば、あれはかなりの巨体、ということになる。
その二つの影は、空中を渡って近づいたかと思うと、殴り合った。戦っているらしい。殴り合い蹴り合いの果てに、腕らしき先端部から金色の光をあふれさせて、ぶつけ合う。
雷鳴のような音が響いた。
先ほどからの音の正体はあれか、と美空はなんとなく悟る。しかし深く訝った。
「スペースデブリの落下じゃ、ない……? あれはなんなの?」
気がつけば周囲のパニックは落ち着いていた。ほとんどが通り過ぎてしまったらしい。
慌てて女の子を抱き上げて立ち上がった。人々は散り散りになりながら公道を急いでいる。置いていかれた人たちが、弱弱しい足取りで歩き始めていた。
「今のうちに逃げよう、ね」
女の子に声をかけ、走り出す前に、ちらりと空を振り返る。
二つの人影は、鍔迫り合いでもするように、光を放つ腕をぶつけ合っている。力は拮抗しているらしく、空中の一点に縫いとめられたように静止していた。
張り詰められた均衡の糸が、限界を超えて千切れる。
競り合っていた何かが、弾け、逸れて、飛んできた。
「はえ?」
間の抜けた声が美空の喉からこぼれた。
飛来するそれは、巨大なガラス片が光を反射し続けているかのようで、いわば光の塊だ。近づくにつれて一抱えほどもある大きさが見える。
美空の頭上を抜けてビルを直撃し、引き裂いて、あっけなく打ち砕いた。
めりめり、べきべき、と音を立てて、まるでチョコバーを割るように、高層ビルはもろくも崩れていく。雷鳴以外の、轟音と土煙の正体はこれだ。
逃げなきゃ。
思い出したように、美空は我に返った。
腕の中で女の子が呆然と見上げている。逃げなければ、守らなければならない。
使命感に急かされるように体を返し、足に力を入れて、一歩を踏み出して、
しかしそれは遅すぎた。
急斜面を滑落するように、大量の瓦礫が転がりながら降り注ぐ。
もっとも単純な物理原理に従い、ふわりと空に投げ出された瓦礫は、空隙を越える。
走り出す美空に重量が落下した。




