ちいさなエーリス
肌も髪も白い少女が、小さくなってすやすやと眠っている。
ジュダールがエーリスを拾ったとき、エーリスはまだ小さかったと言っていた。
レイル様の魔法によって時間を戻されたエーリスは、確かに小さい。
白く長い髪の隙間から、黒く長い耳のようなものがはえている。
なんとなくだけれど、その姿は白い蝶を連想させるものだ。
シエル様とルシアンさんが、少女の前に立っている。
ただ眠っているだけに見えるちいさなエーリスに、ルシアンさんが剣を向けた。
良く磨かれた剣は、鏡の表面のようにきらめいて、眠るエーリスの姿を映し出している。
「……っ」
私は息を飲んだ。
私の目を塞ごうとしてくれるロクサス様の手から逃れて、ルシアンさんの元へ駆ける。
「だめ……っ」
「リディア……」
幼い少女を傷つけようとしているように、見えた。
それは魔女の娘で、魔物、なのだろうけれど。
街をこわして、たくさんの人を傷つけたのだろうけれど。
でも――それでも。
ルシアンさんは、首を軽く振った。
振り上げられた剣が少女をの首を落とす――瞬間、ぱちりと少女の瞳が開いた。
真っ黒な眼球の中央にある赤い瞳が、戸惑ったように振り下ろされようとしている剣を凝視している。
それから――。
「うぁあああああ……!」
大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら、エーリスは泣き出した。
空気が震えるような、激しい泣き声だった。
エーリスの声とは、平坦で、男性か女性かわからない感情の籠らない声だったのに。
今は、本当におさない女の子のように、金切り声をあげながら泣いている。
ルシアンさんは振り下ろそうとしていた剣を降ろした。
私はほっとしながら、ルシアンさんの隣で立ち止まった。
どういうわけか――枯れ枝のようになって動けなくなっているジュダールが、くつくつと低い声で笑い出した。
「なにが、おかしい、ジュダール」
「……甘い、あまりにも、甘い。血を浴びて、人を騙し、這いずる地虫のように、生き延びたのでしょうに。やはりあなたはあの、お優しいだけがとりえの盆暗の息子だ。魔女の娘に温情をかけたこと、後悔するが良い」
ジュダールはそれだけを振り絞るように言うと、全ての力を使い果たしたようにして、深く目を閉じてぐったりと体の力の力を抜き、弛緩した。
胸はゆっくりと上下しているから、どうやら意識を失ってしまったみたいだ。
私は泣きじゃくっているエーリスの前にしゃがむと、その体に手を伸ばす。
小さな子供が泣いている。
エーリスは小さな体で、赤い月から落とされた。きっと、怖かったわよね。
何も知らない場所で、ひとりきりで。
でも――でも。エーリスは、悪いことをしていて。ルシアンさんにも、街の人たちにもひどいことをした。
憎むのが、怒るのが、正しいのでしょうけれど。
私は――。
「……これは、……いけない」
シエル様が小さく呟く。
街のそこここで、爆発音が響いた。
エーリスの破壊は終わったのに、街から火の手があがっている。瀑布のように轟くのは人々の声だ。
憎しみあい、罵倒しあう声が大きなうねりとなって、街に響いている。
泣き声や、叫び声。怒号の中にまじる、剣が合わさるような硬い音や、呻き声。
「エーリスの力は、記憶の忘却、憎しみの増幅。だとしたら――長らく圧政を強いられてきたキルシュタインの民にも、キルシュタインの民を嫌うベルナール人にもそれは、毒となる。鬱屈した感情が、エーリスの力によって弾けた」
「シエル様……っ、ごめんなさい、私が、止めたせいで……」
「リディアさんのせいではありません。どのみち、……エーリスの命を絶てば、長年その体に蓄え続けていた魔力が暴走を起こして、この騒乱は起こっていたでしょう」
シエル様は励ますように、私の頬に触れて、顔にかかる髪を指先ではらった。
「僕たちが無事でいられたのは、リディアさんの料理を食べたからなのでしょうね。僕は今から、街全体に眠りの魔法をかけます。魔法の効果は、もって一時間程度。その間に、エーリスをどこか遠くに運ばなければ」
シエル様はそう言うと、足元に魔方陣を浮かび上がらせて、街の真上の空へと一瞬で移動した。
両手を広げたシエル様の黒い裾の長い衣服が、風にはためく。
空を覆うようにして、紫色に輝く巨大な魔方陣があらわれる。
魔方陣から輝く粒子が舞い落ちる。それは街のそこここであがる炎を消し去って、争いの声を、悲鳴を、鎮めた。
「うぁああ……ああ……あ、ああああ……」
エーリスはか細い悲鳴のような泣き声をあげつづけている。
レイル様が腕を組んで、困ったように眉根を寄せた。
「どうすれば良いのだろうね。消滅させても、魔力は残る。つまり、ロクサスの力で命を奪っても、ルシアンの剣でエーリスを滅ぼしたとしても、魔力の暴走は続くのだろう。この街だけではなく、その影響は、国全体に広がる可能性もある」
「泣き止め、娘。耳障りだ」
「ロクサス、泣いている女の子に怒っても、もっと泣かせてしまうだけだよ」
ロクサス様が苛々とエーリスを睨みつけている。
レイル様が呆れたように嘆息して、ルシアンさんは剣を鞘におさめた。
泣いている――女の子。
今のエーリスはやっぱり、ただ戸惑いながら怖がって、泣きじゃくっている女の子に見える。
ルシアンさんは地面に蹲っているエーリスを両手で抱えあげた。
「私が、どこか遠くの海へ捨ててくる。海の底なら――耳障りなこの声も、響いては来ないだろう」
「だ、だめです、ルシアンさん、だめ……」
私はルシアンさんの腕に縋りついた。
ルシアンさんの口調に、何か嫌なものを感じる。
レイル様がルシアンさんに近づいていくと、思い切り拳を振り上げてその頭を殴った。
「痛……っ、何をするんだ……!」
「この期に及んで、姫君が君を助けにきたというのに、どう考えても君はその魔物と一緒に海に沈むつもりだろう。君の愛機があれば、海の底まで一直線に沈んでいけるのだろうね。そして君は、助からない」
「私は……私にできる償いは、これぐらいしか、ない」
「死ねば償いになると思っているのは馬鹿者だ。君は身分を偽っていただけで、何一つ、姫君に危害をくわえてはいないだろう。自分の出自や名前を偽って生活していた、いわば愉快犯のようなものだよ。ベルナール王国に反逆を企てていたかもしれないが、それを知っているのは今ここにいる私たちだけだよ」
「兄上も身分を偽って冒険者をしているのだから、同じようなものだ。俺はお前が死にたかろうが何だろうが、好きにしろと言いたいが、リディアが泣くのでな。もしお前がその子供を連れていくというのなら、動けない程度に爺にしてやろう」
「そう、同じ。同じだよ。私もフォックス仮面だからね、ルシアン。君は、これ以上姫君を泣かせるのではないよ」
ロクサス様にもレイル様にも叱られて、ルシアンさんは俯いた。
「では、どうしたら良い……! シエルの魔法で眠った者たちが再び目覚めたら、憎しみあい、殺し合いをはじめる……。リディアの料理をすべての人間に食べさせるとでもいうのか。不可能だろう……!」
「ルシアンさん……私、あの、お願いがあるんです」
私はルシアンさんの腕をぎゅっと握りしめたまま、ルシアンさんを見上げた。
エーリスは、怖がって泣いているだけの女の子。
だとしたら――私は。
「お料理を作れる場所に、行きたいんです。私の食堂……だと、よくないかもしれないから。この街の、どこかに」
「それなら、城に行きましょう。食材も豊富にあるでしょうし、街の中よりはまだ、無事でしょうから」
シエル様が空から戻ってくると、優しい口調で言った。
私は頷いた。きっと、大丈夫。きっとうまくいくと、自分に言い聞かせながら。
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