ミハエルさんとオリビアちゃん
病室から寝込んでいた患者様たちがしっかりとした足取りで私の元へやってきては、お礼を言って去って行く。
私はひたすら恐縮しながら、頭をさげた。
お礼を言われるのって嬉しいけれど、少し苦手。
私はたいしたこと、何もしてないのに。
ただ料理を作っただけなのにって、どうしても思ってしまう。
看護人の方々が、患者様たちの状態を確認するために、ベッドに戻るように促してくれた。
そうでもしなければ、私の周りから人だかりがなくならなかったので、少しほっとする。
「お姉さん……!」
リゾットと、蛸の柔らか煮を全て食べ終えて、オリビアちゃんが私の元へと走ってくる。
「お姉さん、ありがとう、すごく美味しかった」
「良かったです……ご飯、食べてくれて、こちらこそありがとうございます」
「お姉さん、また泣いているのね!」
ふふ、と、オリビアちゃんは笑って、私の腰にぎゅっとしがみつくように、抱きついてくる。
「こんなに、体が軽いの、いつぶり、かな。私、三年前に病気になってしまったの。白い月から、お迎えが来るのは、今日かもしれない、明日かもしれないって、毎日思っていて」
「オリビアちゃん……」
「とっても、こわくて。……みんなは、白い月に行くことは、幸せなことだってはげましてくれたけれど、白い月に行ってしまったら、お父さんともう、会えなくなってしまうもの。……それは嫌だなって」
「うう……オリビアちゃん、辛かったですね。体も心も辛いのに、私に気をつかって、ご飯も食べてくれて、ありがとうございます……」
「お姉さん、可愛いもの。私、可愛いものが好き。お姉さんは、可愛い。だから恋人が、二人もいるのだわ」
「恋人……?」
「ええ。とても素敵!」
「……ち、違います、シエル様はお友達で、ロクサス様は、……なんでしょう、ロクサス様は、親切な知り合いです」
「親切な知り合い……」
私の隣で、ロクサス様が私の言葉を繰り返した。
シエル様は片膝を床についてしゃがむと、オリビアちゃんの顔を覗き込んだ。
「……オリビアさん、頭に響いていた虫の羽の音は、もうしないのですか?」
「もうしないのよ。シエル様、いつも心配してくれて、ありがとう」
「元気になってくれて、嬉しいです。女の人の声も、しませんか?」
「しないのよ。……最近、とくにうるさかったの。こっちに、おいで、こっちにおいでって、呼んでいる声。私は、白い月の声だと、思っていたのよ」
「そうですか……教えてくれて、ありがとうございます」
「お姉さんはシエル様のお友だちなのね。恋人じゃないのね」
「ええ。お友だちですよ」
「そうなの。……シエル様、お姉さんと仲良しみたいに見えたから、恋人かと思ったのに」
オリビアちゃんは私から離れると、シエル様の耳元で何かを囁いた。
シエル様は口元に笑みを浮かべると、ゆっくり頷く。
何を囁かれたのかまるで聞こえなかったけれど、お兄さんと年の離れた妹みたいな、微笑ましい光景だった。
「シエル様も、ロクサス様も、お姉さんをここにつれてきてくれてありがとうございます」
それから、綺麗な所作でスカートを摘まんで、オリビアちゃんはお辞儀をした。
患者様たちを見て回るために一度退室していたミハエルさんが、戻ってきて、オリビアちゃんの隣に並ぶ。
オリビアちゃんはミハエルさんの手をぎゅっと握りしめた。
「リディアさん……本当にありがとうございます。歩くことが困難だった者でさえ、食事を口にして、立ち上がることができています。元々機能的には何も問題のない患者たちばかりで、気力とともに生命力が失われているような状態でした。それが、今はまるで何もなかったかのように、元の元気な頃に戻っているようです」
「い、いえ、私、料理をしただけで」
「その料理が、皆を、オリビアを救ってくれた。……感謝しても、しきれないほどです」
「みんな、体が辛いのに、頑張ってご飯、食べてくれて。嬉しいです、私……」
私にとっては、それだけで十分で。
もしかしたら――患者様たちが元気になったのは、私が女神アレクサンドリア様にお祈りしたからかもしれない。
私も、レスト神官家の血を受け継いでいるから――アレクサンドリア様は私の願いを、聞き届けてくださったのかも知れない。
「シエル様やロクサス様はご存じのことですが、私は元々、聖騎士団に所属していて、軍医をしていました。この診療所は私の父のものでした。私は白月病の患者を受け入れる父を、蔑んでいた。なおらない病気を診ることに、なんの意味があるんだと」
「で、でも、ミハエル先生は、熱心に患者様たちを……」
「三年前、一人娘のオリビアが病気に。そのとき私は仕事が忙しくほとんど家に帰らなかった。この子の母は、妻は一人でオリビアのことについて悩み、私が気づいた時には心身共に、病んでしまっていた。……私のせいだと思いました。白月病を診る父を馬鹿にし、どうせなおらないと平然と口にしていた、私のせいだと」
ミハエル先生の声は、少し震えていた。
オリビアちゃんが心配そうに、ミハエル先生を見上げている。
「私は軍医をやめて、老齢の父から、ここを引き継いだ。オリビアを治すために。他の患者たちへの、罪滅ぼしのために。けれど、やはり治療法を見つけることはできず……リディアさんは絶望しかなかったこの診療所に、希望を齎してくださった。あなたに、感謝を」
「は、はい……あの、良かった、です。……オリビアちゃんやみなさんが元気になってくれて、良かった」
私はなんとかそれだけを口にした。
それから、オリビアちゃんがもう一度抱きついてきたので、小さな体を抱きしめ返した。
それ以上何も言えない私の代わりに、ロクサス様やシエル様がミハエルさんとお話をしてくれた。
それから私たちは、皆さんに見送られて、診療所をあとにした。
診療所のある小高い丘からは、海の向こうの水平線が見える。
石段を降りる私の足元がおぼつかないと、ロクサス様がやや強引に私の手を握った。
「……リディア。お前の料理が、皆を癒した。喜ぶことはあれど、悲しむことはないのではないか」
私の手を引いて歩きながら、ロクサス様が言う。
「で、でも、私、不安で……今は少し元気になった、だけで。明日にはもとに戻るかもしれない。明後日には、元に戻ってしまうかもしれない。……そう思うと、私……」
「考えすぎだ。……人は様々な理由で命を失う。病気や事故のこともあれば、魔物に命を奪われることもある。同じ人間に、命を奪われることだって、少なくない」
「それは、そうかもしれない、ですけど……」
ロクサス様の言葉はとても冷たいように聞こえた。
けれど――ロクサス様は、死を与えることしかできない自分の力を、嫌っていて。
レイル様に生きて欲しいとずっと、願っていて。
だから、冷たい人ではないことを、私は知っている。
「……その中で、もう治らないと死を覚悟していた者たちが、食事をとれて、歩くことができるようになった。たとえ一時だとしても、それは喜ばしいことではないのか?」
「……はい。……そうです、よね」
「それに、レイルは何日たっても元気だ。早朝から外を走り回っている。お前が心配することは、何もない」
そう、かしら。
そうだと、良い。
ロクサス様が励ましてくれようとしてくれているのが嬉しい。
親切ね。もしかしたら、良い人なのかもしれない。
「リディアさん。……オリビアさんの母親は、オリビアさんと共に、心中しようとしていたんです。……それを、たまたま家に帰ってきたときにミハエル先生がみつけて、オリビアさんだけは、なんとか助けたそうです」
石段を降り切ったところで、シエル様が静かに口を開いた。
「……そんな」
「ミハエル先生はずっと、ご自分を責めていました。全て自分のせいだと。自分は死んでも良いから、オリビアさんを助けたい、と」
「シエル様、私、何も知らなくて……オリビアちゃん、あんなに、優しくて、良い子だったのに」
「オリビアさんの記憶からは、その時のことはごっそりと、抜け落ちてます。けれど、その心には傷が。傷ついた子供は、物分かりが良いんです。……でも、今日のオリビアさんは、心から笑っていました。……生きることができると、喜んでいるように見えました」
シエル様は私の空いている方の手を、優しく握ってくれる。
「リディアさん。あなたは――良いことをしたと、胸を張って良いと、僕は思います」
シエル様の言葉が、体に染みこむようにして、いきわたっていく。
ほろほろ涙が零れるのを、シエル様がごしごしとハンカチで拭ってくれた。
ロクサス様は何も言わずに、ぎゅっと手を握りしめていてくれた。
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