八月の終わりにはくらげが出る
アサリでいっぱいになったバケツに、アサリたちが元気なままでいられるように海水もいれたら、バケツがものすごく重くなった。
だんだん引いていた潮が満ちてきて、私たちがいた場所まで波が押し寄せてくる。
白い泡と共に押し寄せてくる波が、ステファン様が掘った小さなプールにざばんと被って、小さなエーリスちゃんを海の向こうまで連れて行こうとするので、私は慌ててエーリスちゃんとイルネスちゃんを抱き上げた。
ずぶ濡れのふたりを抱き上げたので、お洋服がびっしょりになる。
でももうスカートの裾は濡れているし、あんまり気にならなかった。
「かぼちゃ……」
「怖かったですね、エーリスちゃん。海は綺麗だけど、怖いんですよね。気を付けて」
「あじふらい」
「イルネスちゃんもです。ちょっとした波でも、小さな子は攫われちゃいますからね」
私の足首ぐらいまで、押し寄せた波の中に入ると海水に覆われてしまう。
透き通った海面が、エメラルドグリーンに輝いている。冷たくて楽しくて、綺麗だけれど、もうアサリは採れそうにない。
ステファン様の作ったプールが、波によって形を変えて、砂に埋もれていく。
海は、大きい。
お魚とか、タコとか、海藻とか、塩とか。色んなものがとれる。海に比べてしまえば、私もステファン様もとても小さい。髪を靡かせる潮風とか、ひっきりなしに聞こえる波の音とか。
砂浜の香りや、海の香りとか。
水平線の向こう側からもくもくと湧いているように見える真っ白な雲だとか。
色んなものが、普段の――悩ましいことを、一時忘れさせてくれる気がする。
「ステファン様、アサリ、沢山とれました。ありがとうございます」
「砂を掘ると生き物が出てくるのは奇妙だな。……穴を掘るのがこんなに楽しいとは、知らなかった」
「穴を掘るのは楽しいですよね。海は楽しいです。でも、ステファン様、八月の終わりにはもう海に入ってはいけないのですよ」
「何故?」
「くらげが刺しますから……」
くらげに刺されると痛い。
去年ぼんやり海を見ていたら、ツクヨミさんが教えてくれた。くらげは怖いのだと。
「リディアは物知りだな」
「私、ぼんやりしているせいでしょうか、黙って立っていると心配されるみたいで、色々教えてくれるんです。市場のおばさまたちとか、ツクヨミさんとか」
「愛らしいからな、リディアは。皆、つい構いたくなるのだろう」
「ステファン様は小さなころの私を知っているから、そう思うのですよ」
ステファン様と私は波打ち際からお父さんとファミーヌさんの待っている乾いた砂浜に戻った。
砂浜は少し暑い真夏と違って居心地がいいらしく、お父さんとファミーヌさんは丸まって寝ていた。
そこにエーリスちゃんとイルネスちゃんが突撃していく。
起こされた上に砂と海水に塗れた体を押し付けられたファミーヌさんは、尻尾をぴんと伸ばして威嚇した後、イルネスちゃんを前足で、ぱしぱし叩いた。
お父さんは「やめないか、子供たち」と、落ち着いた声音で言って、砂のついた体をふるふる震わせて砂を払った。
「アサリ、たくさんとれました。市場でお昼ご飯を軽く食べて、お家に帰りましょうか。ステファン様、時間は大丈夫ですか?」
「あぁ。大丈夫だ。しかし、このような姿で店に行っては、迷惑にならないか?」
「市場の手前に海の家があって、ご飯はそこで食べることができるのですけれど、外に椅子とテーブルが置いてあって、濡れたり砂がついていても大丈夫なようになっているのですよ」
私たちは、海の家に向かった。
砂浜手前の市場から繋がる海の家の前にある水魔石の水道で砂に塗れた足や手を洗う。
蛇口をひねると流れ出す綺麗な水に手を浸すと、海水のべとべとがとれてすっきりする。
「わ、冷たい!」
海水も気持ちよかったけれど、お水も気持ちいい。
「エーリスちゃん、イルネスちゃん、洗いましょう」
逃げようとするエーリスちゃんとイルネスちゃんもじゃばじゃば洗って、手荷物の中に入れて置いたタオルで拭いた。
すっかり綺麗にとはいかないけれど、砂と海水がある程度落ちて、綺麗になった。
「ステファン様も、手を洗いましょう。ブーツは無事ですか?」
「ブーツは無事だ。雪山でも問題ない耐久性と防水に優れたものを履くようにしている。いつ何が起こるかわからないからな」
「いつでも雪山で遭難する準備ができているのですね……」
「もしくは、いつでも雪山で遭難したロクサスを助けに行く準備ができている」
「ロクサス様、雪山には行かない方がいいですね……」
竹林でも迷うのだもの。雪山では遭難する危険が高いわね。気を付けないと。
ステファン様の手を引っ張って、流れるお水に浸した。
エーリスちゃんとイルネスちゃんにしたように、洗うのをお手伝いすると、ステファン様は少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「……今まで、リディアの世話を焼くのは俺の役目だと思っていた。だが、リディアに俺の世話を焼いて貰う日が来るとは……」
「ステファン様は皆のお世話をしようとしますからね。たまにはお世話をされてもいいと思いますよ」
「そうでもないんだ。俺の時間は、数年間がぽっかりと失われている。戸惑うことも、分からないことも多い。ルシアンやシエルを頼ることも、最近は多い」
「お二人ともステファン様よりも年が上ですからね、私も頼ってしまうことが多いのです。大人だなって、思います」
「二人もきっと、リディアのドレス姿を楽しみにしていると思う。もちろん、リディアは何を着ても可愛いが」
「ふふ……ありがとうございます。期待していただくと緊張してしまいますけれど……でも、今はひとりじゃないから。怖くないです」
ステファン様の手をタオルで拭きながら、私は王宮や学園でのことを思い出していた。
私はいつも一人で。こそこそしていた。
ステファン様の隣にはフランソワがいて、私は皆から嫌われていたから居場所がなくて。
裏庭に一人で行って隠れてお迎えまでの時間を潰したり、大広間の端の方で所在なく立ったりしていた。
ああいうとき、なにも悪いことをしていないのに、胸の奥がいつもすごくひんやり冷たかった。
氷の塊が胸の中に押し込まれたように冷たくて。
それと同時に、一人でいることの罪悪感とか、羞恥心とか、いろんなよくない感情で、いつも体が強張って、足が竦んでいた。
でも今は、違う。
「あぁ、リディア。もう君を一人にはしない。君の傍には、たくさんの人たちがいる」
ステファン様はそう言って、私の手を優しく握った。
体を引き寄せられると、ぎゅっと抱きしめられる。蛇口から零れる水の音が、じゃばじゃばと耳に響いた。
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