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「おま、お前、そんな……」
ひげオヤジは私の声を無視して、二枚目の生地を剥がしにかかる。一番上の生地が、フォークにくるくると巻き付けられていく。
「ありえないありえないありえないありえない……」
「なに念仏唱えとんねん。キショいなあ」
ひげオヤジはフォークに巻き付けた生地を一口で頬張り、それを飲み込まぬままアイスティーを飲んだ。
「かーっ、やっぱ美味い! ここの紅茶は絶対アッサムやな。良い感じに渋いから甘いクリームとよう合うわあ。個人的に、ケーキに合わせる紅茶はディンブラも好きなんやけど」
「そういう問題じゃない!」
私の怒声が店内に響いた。
ひげオヤジが、ぽかんと口を開けて私を見ている。その顔が妙に腹立たしい。
――こいつ、自分が何をしたか分かっていないのか。
「お前、おまえっ……なんて食べ方をするんだ!」
「んあ?」
「んあ? じゃない! お前という奴は、ミルクレープの食べ方すらままならんのか!」
ひげオヤジは自分の皿に視線を落とした。
上の生地をめくられたミルクレープは、汚らしくなってしまったホイップクリームが一番上にきており、見るも無残な姿となっている。
しかしひげオヤジはそれを見てもなお、自分の過ちに気付いていないようだった。
「なんか問題あるか。ミルクレープは、一枚ずつ食べたほうが空気が入ってふわふわになるやろ。それに時間かけて味わえるから一石二鳥やし」
「空気が入ってふわふわのくだりは完全にお前の主観だ……!」
私は頭を抱えた。
そういえば、こいつと一緒にミルクレープを食べるのは今回が初めてだ。だからこそ、こいつのありえなさに今日まで気づけなかったのか。
――毎回喧嘩になる相手ではあるが、今回ばかりはもう許せん。
「お前……」
またもやクレープ生地をフォークに巻き付け始めたひげオヤジに、私は叫んだ。
「お前のやっていることは、ミルクレープに対する冒涜だ!」
「ボートクとか日常会話で初めて聞いたわ、大袈裟やな。何の話やねん……」
「だから、その食べ方の話だ!」
私は一枚だけ剥がされた生地を指さした。
ひげオヤジは「はあ?」と眉間に皴を寄せる。身なりと相まり、ごろつきっぽさが増した。こいつの目の前にあるのがミルクレープではなく、札束や白い粉だったら完璧だったのに。
ひげオヤジは、自身のフォークに巻き付けたクレープ生地をしげしげと見た。
「これになんの問題があるねん」
「お前……。このミルクレープは、パティシエの方が一枚一枚丁寧に載せ、作り上げてくださったものだぞ! これは芸術! アーティスティック!」
「…………」
「つまり、この形をキープするよう努めるのが、食べる側のマナーということだ!」
「店内で喚き散らすんはマナー違反とちゃうんか」
ド正論で殴られた。何も返せず「ぐっ」と声が漏れる。
――こいつはこういうところがある。唐突に綺麗なアッパーカットを決めてくるのだ。
……くそっ。
私はごほんと咳ばらいをし、気を静めた。
「……とにかく。一枚ずつ剥がすのはパティシエの努力を無駄にするうえ、見栄えも悪い、最悪なマナー違反ということだ」
私は自分のケーキを指さす。
先端がひとくち分なくなっていること以外、提供されたときの状態を保っている。
「――ほら見ろ、私のケーキは美しいだろう。こんな風に、全部の層を一口でいただくのがミルクレープの食べ方というものだ」
「ほんまかぁ? お前がそう思い込んでるだけちゃうんか」
人の話を素直に聞けばいいものを、どこまで突っぱねてくるつもりだこの男。
もう腹が立った。
「……わかった。では、パティスリーのスタッフに聞いてみよう」
「スタッフってあこちゃんのことか? あんなちっちゃい子が、マナーとかわかるんかいな」
「お前のは明らかにおかしいからな。子供から見ても『やめてください』と言うはずだ。まあ見ていなさい」
テーブルに置かれているベルを鳴らす。風鈴のそれとはまた違う、澄んだ音が店内に響いた。
あこちゃんなら。あの利口な子供ならば絶対にひげオヤジの食べ方は認めない――少なくとも推奨しないはずだ。
そう思っていたのに。
「はい……あ、えっと……い、いかがされましたか……」
ベルを鳴らして出てきたのは、まさかの店長だった。
一応私は常連なので、青白い顔でぼそぼそと喋るこの男のことはある程度知っている。確か年は三十手前で、亡き祖父のあとを継いでこの『Bee&Bee』を経営しているとのことだ。しかし本人があまりにも接客に向いていないため、普段はめったと表に出てこず、厨房で作業していることが多い。
ただし、あこちゃんが変な客に絡まれているのを察知すると、すぐさまホールに出てきてあこちゃんを守る――そんな男気を見せることもある。
基本悪い人ではないし、ケーキの腕は確かだ。しかし、
「えっと……あの、あ、お、お客様……?」
普段はあまり接客をしないのに、何故こういうときに限って出てくる。
私はひげオヤジを見た。「お前が呼んだんだからお前がどうにかしろ」と言いたげな目を、彼奴は私に向けていた。
――いや、そりゃそうだけど。呼んだのは私だけど。ぶっちゃけ店長とはそんなに話したことないんだよな……。
「ええと……ケーキの食べ方について聞きたいんだけど、いいかな」
私が言うと、店長はもごもごと何かを言いかけてから頷いた。何を言おうとしたのかわからないが、話を続ける。
「このミルクレープなんだけどね。正しい食べ方ってあるかな」
「え。あ、えー……」
「いや、正しい食べ方でなくてもいい。店長はどうやって食べる?」
「ぼ、僕ですか? えっと、えー」
店長は私の皿とひげオヤジの皿を交互に見比べ、「参ったなあ」といった表情をした。……この気弱そうな男のことだ。どちらかを敵に回すことになるのを、恐れているのかもしれない。
私はそっと、店長の背中を押してやることにした。
「何を言われても怒らないから、忌憚ない意見を聞かせてほしいな」
「なんや、キタナイ意見って」
「君は黙っていてくれないか」
口を挟んできたひげオヤジを片手で制し、私は店長の言葉を待った。
店長は肩を揺らし、目を泳がせながら話し始める。
「えっと、あの、僕は、そ、そのー…………が…………なら……と、……て」
「うん? なんて?」
「うっ……。あ、ぼ、僕はー」
「てんちょー?」
厨房の方から女の子の声が聞こえてきた。あこちゃんだ。
「てんちょー電話です。チヨミ青果さんからー」
「あ……すぐ行くから! あの、あ……」
店長はオドオドと私たちを見た。私は片手で「行ってください」と合図する。店長は頭を下げると、「失礼しました」と言い残し去っていった。
「……相変わらず、話下手な男やなー」
ひげオヤジがアイスティーをストローで飲む。私は話がどこにも着地しなかったことに落胆しながらコーヒーを口に含んだ。
その時だった。
「すみません、お話の途中でしたよね?」
店長とは似ても似つかぬ笑顔をたたえたあこちゃんが、我々のテーブルまでやってきた。
「――ミルクレープの正しい食べ方、ですか」
一連の流れを聞いたあこちゃんは、顎に手をあて呟いた。彼女はまだ九歳だが聡い子なので、ある意味店長と話すよりも安心できる。
私はひげオヤジのミルクレープを指さした。
「こんな風に一枚ずつ剥がすのはマナーがなってないと、あこちゃんも思わないか?」
「んー。そうですねー……」
「ええで、あこちゃん。おっちゃん怒らんから、思ったこと言うてみい」
ひげオヤジが地声よりも半オクターブ高い猫なで声を出す。こいつのこの、気持ち悪い口調はどうにかならないのか。
あこちゃんは「それじゃあちょっとだけ」と申し訳なさそうに言った。
「確かにケーキの食べ方にもマナーはありまして、ミルクレープの場合『一枚ずつ剥がす』というのはあまり推奨されていません。――その食べ方が好きな人でも、『人前ではやらない』とか『家にいるときだけやる』と主張される方は多いですね」
「ほらきた!」
私は指を鳴らした。
「これでわかったか。お前の食べ方は邪道なんだよ! 芸術センスの欠片もない!」
「え? あの、待ってください、わたしまだ――」
「私の食べ方がやはり正しいんだ! 全部の層を一口で味わう!」
私は横にしたフォークで、ミルクレープを切り崩した。皿にフォークが当たる。
「これが……」
切り取った一口分が崩れないよう、フォークで慎重に掬い取る。
「これが正しい一口なんだよ!」
「えーっと。……大変申し上げにくいのですが」
あこちゃんが、きわめて冷静な声で言った。私とひげオヤジは同時に、あこちゃんに視線を移す。
あこちゃんは困った顔を、私に――私の持つフォークに向けていた。
「フォークの刺し方にもマナーがありまして」
「へ?」
「ミルクレープの場合、『ケーキに対し垂直にフォークを立てて、半分くらいの層まで刺す』がよく言われるマナーです。……本やサイトによって、若干の違いはありますが」
「…………」
言葉を、失った。
私の正面で、ひげオヤジがニマニマとこちらを見ている。
「フォークを横にするとケーキが崩れやすくなりますし、一番下の層まで一気に掬うと、一口分がどうしても大きくなってしまいます。ですから――」
「大口あけて食べるのは、大人として品性の欠片もないわなあ」
かっかっかっとひげオヤジが満足そうに笑った。
こいつに笑われるなどこの世の終わりだ。
――しかしもう、何も反論できない。
私はがくりと項垂れた。それを見たあこちゃんが、「でも!」と声を大にして続ける。
「ご存じかもしれませんが、ミルクレープって日本発祥のケーキなんですよ」
「え、そうなの?」
「はい。ですから『海外ではそんなにメジャーなケーキじゃない』って本に書いてました。食べ方も、一枚ずつ剥がして食べる方が主流の国もあるんですって。……食べ方はあくまでネットで調べた情報で、現地まで確認しに行ったわけじゃないんですけどね」
あこちゃんは肩をすくめて笑った。そのしぐさが妙に大人っぽく見えた。
「ですから正直、ミルクレープ自体に万国共通の決まった食べ方があるわけじゃないんです。……というかあの、『うちの店的にはこう』って話になっちゃって申し訳ないんですけど」
「うん?」
「お客様がそれぞれ『この食べ方が一番おいしい』と思う方法で召し上がって頂ければいいな、と思います。そのためのケーキですから」
私とひげオヤジは顔を見合わせた。
我々の目の前には、食べかけのミルクレープがある。それぞれ全く違う形をした、ミルクレープが。
あこちゃんは私とひげオヤジに向かって、とびきりの笑顔を向けてくれた。
「――あの子、年の割にしっかりしすぎちゃうか。ビビるわー」
あこちゃんがテーブルを離れた後、ひげオヤジは拍手しそうな勢いでそう言った。彼の手に握られたフォークは、クレープ生地を一枚剥がしにかかっている。
「そうだな」
私はフォークを垂直に立ててケーキに刺そうとしたが、ひげオヤジの手元を見て思い直した。いつも通りフォークを横にして、手刀を切るようにすっとケーキを切る。
「まああの……やはり美味しいケーキは、美味しい食べ方で頂くのが一番だな」
「お前それあこちゃんの受け売りやろが。ワイのこと散々馬鹿にしおって」
「ぐっ……! それはお前がいつもいつも!」
「最初につっかかってくるんは、いつもそっちやろがい」
「それはお前が、いつも注意したくなるようなことをするからだ!」
私はミルクレープを食べる手を止め、叫ぶ。
「だからお前とは仲良くできないんだ!」
「仲良くしてくれなんて頼んでへんし」
「なんだとこのっ……!」
私とひげオヤジは睨みあった。
二人の間に、見えない火花がバチバチと散る。
「……やはりお前とは二度と会いたくない!」
「そら奇遇やなあ、ワイも同じ気持ちやわ」
私とひげオヤジは「ふん」と鼻を鳴らし、各々の食べ方でミルクレープを味わい始めた。
**
「――正直助かったよ、あこ」
中年男性二人が帰った後。
食器洗浄機から出した皿を拭きながら、蜂須賀は心の底から亜子に礼を言った。
「てんちょーはああいうの、苦手だと思って」
蜂須賀の横でボウルを拭いている亜子が得意げに笑った。
男性客二人に呼び出されて蜂須賀が戸惑っていた時、亜子が叫んだ「チヨミ青果さんから電話」は、蜂須賀を客から自然に引き離すための嘘だった。それを知らない蜂須賀が固定電話に向かったところ、受話器には「ウソ」と書かれたメモ用紙が張り付けられており、気づけば亜子が男性客たちと話をしていた。
自分の情けなさと亜子の賢さを、蜂須賀は痛感した。
「それにしても……いつの間にミルクレープのこと、あんなに調べてたんだ?」
亜子と客とのやりとりをヒヤヒヤしながら聞いていた蜂須賀は、素直に感動した。
亜子が店で働き始めたのは約一年前だ。それ以前の彼女に、ケーキの知識があったとは思えない。蜂須賀が亜子にミルクレープの食べ方をレクチャーしたこともないので、さきほど亜子が客に披露した知識は、彼女が自ら調べたものということになる。
「ミルクレープっていうか」と亜子は上を向いた。
「ケーキについて勉強してるんだよ、図書館で本借りたりしてさ。塾に行かなくてよくなったぶん時間もあるし。今日みたいにお客様に何か訊かれたときに、答えられるようになりたいし」
「そうだったのか……。賢いうえに努力家だな、亜子は」
蜂須賀が率直な感想を述べると、亜子はちらりと蜂須賀を見た。
そして、言った。
「ママじゃなくててんちょーを選んだんだから、それくらい当然じゃない?」
拭き終えたボウルを蜂須賀に渡して、亜子はホールに戻っていく。
ボウルに映りこんだ蜂須賀の顔は、奇妙なくらいに歪み、情けない表情をしていた。




