第八十一話 比べてみたい
ネリエルと呼ぶ、彼女の声が好き。
笑う時に下がる目尻が好き。
大人びた口調が、一瞬だけ崩れる瞬間が好き。
他にも一杯、例えば柔らかい髪だとか、マカロンを見て輝く瞳の色とか、差し出された手の暖かさとか。
思い出すのが追い付かない位、マリアちゃんの好きな所は沢山あって。
でも僕には、その感情が何なのか分からない。
× × × ×
マリアちゃん達を別荘に誘う計画を授けてくれたのはレイヴお兄様だった。普段はお父様達がいて自宅には呼べないけれど、毎年お兄様の別荘に行く期間が丁度学園の長期休みと被っているから。
いつも訪ねてばかりで、たまにはもてなす側に回ったらどうかと。
別荘だから泊まりにはなるけれど、必要な物は用意すると。結局何から何までお兄様達に頼ってしまったが、招待に対するマリアちゃん達の返答は『喜んで、楽しみにしている』と。
嬉しかった。久しぶりにだからというのもだけど、ただ一緒にいられる事が。会える事がとにかく嬉しくて。
何年も離れていた訳ではないし、人が変わるほどの期間ではないのに。僕自身にだって成長と呼べる変化はない。
少しでも変われたらなんて思って前髪を切ってはみたけど、結局パーティーでの周りの視線が気になって伸ばし始めてるし。
何をしているんだろう、どうして自分はこうなんだろう。マリアちゃんのおかげで少しは変われたと思って、でも一人になるとどんどん萎んでいく。
マリアちゃんが来るまでは、本当にうじうじ考え込んでいた。
「髪を切ったのね、似合ってる」
たった一言、それだけで僕の心は晴れていく。
嬉しそうな笑顔は、僕の好きなマリアちゃんの表情で。
幸せになるっていうのはこういう事なんだと思う。マリアちゃんに会う度に、僕は強くなれる気がする。
マリアちゃんと会った日はいつもそう。いや、会わなくても、僕はマリアちゃんの事を考えていて。
美味しいお菓子は、マリアちゃんにも食べて欲しいなとか。可愛いドレスは、マリアちゃんに似合いそうだなとか。綺麗な花は、マリアちゃんも好きかなとか。
お兄様達と話す事だってマリアちゃんの事ばかりで、そんな僕にお兄様は言った。
『ネリエルは本当に、マリアベル様が好きなんだね』
唐突に、明確に、現実を突き付けられた気がした。
マリアちゃんが好き、それは確かにその通りで。楽しくて嬉しくて、幸せで。もっと一緒にいたいって思うし、学園に上がる時は一年後に自分も行くと分かっていても寂しかった。
でも、それは、ケイト君にも言える事。
マリアちゃんが紹介してくれた歳上の友人はあまり笑わないけれど穏やかで優しくて、一緒にいると安心出来る。お兄様といる時、みたいな。
マリアちゃんだけじゃなくて、ケイト君も大好きで大切な人。
でもどうしてか、マリアちゃんとケイト君をイコールにするには違和感があって。
同じくらい好きだけど、少し違う。
同じくらい大事だけど、少しだけ、違う。
でも僕には、その違いが分からない。たった二人の友達は比べるにしても条件が違いすぎる。男の子と、女の子。歳も違って、元々ケイト君はマリアちゃんが紹介してくれた。
これは、当たり前の違いなんだろうか。
出会った早さの違い?それともケイト君を紹介してくれたのはマリアちゃんだから?
「ネリエルが入学したら、私の友人を紹介するわ」
その言葉に、心臓が音を立てて軋んだのが分かった。昔はいつも感じていた、お兄様と比較される度に自分の不甲斐なさを恥じる時と同じ。
世界を広げていくマリアちゃんと、自分の気持ちすら理解出来ていない僕。
嬉しそうに話すマリアちゃんには気付かれない様に、なんとか笑ってはみたけれど。それからの学園の話はほとんど頭に入っていない。
ただ、笑う彼女だけがあまりにも鮮明で。
「……僕、は」
マリアちゃんが、好きで。それは絶対に嘘じゃない。僕の世界はマリアちゃんが始まりといっても過言ではないのだから。
でも、それだけでは足りない気がする。好きだけじゃ、言い表せない気がする。
お兄様達とも、ケイト君とも、好きという感情は同じはずなのに。
マリアちゃんへのそれは、同じはずなのに全然違う物。
「何で、だろう」
何が違うのだろう。僕の感情なのに、どうしても分からない。
家族だから違うのか。男の子だから違うのか。
初めて出来た友達だから、こんなにも特別なのか。
マリアちゃんに感じるこの気持ちは、本当にマリアちゃんにだけ思う事なのか。
皆は、分かるのだろうか。人が人に抱く気持ちの種類は、どうやって分けられるのだろう。誰かと比べて、選んで、ようやく分かるのだろうか。だとすれば僕には最も必要な『比べる対象』がない。
比べるから特別なのか、比べられないから特別なのか。どちらにしろ他を知らない僕にはどうする事も出来ない。
結局僕は、自分の事もよく分からないまま。
当然だ、僕の世界を広げたのは僕ではなく、マリアちゃんなのだから。
「……ネリエル?」
「あ……」
一瞬、幻かと思った。考え過ぎた脳が見せた幻覚だって。
「どうしたの?灯りもつけないで……」
お風呂上がりだろうか。昼間よりもゆったりした服は寝るののに適した上下のセットで、お兄様が選んだ物の一つだろう。
幻にしては出来すぎている姿はあまりに現実的過ぎて、本人なんだと気が付くのに時間はかからなかった。
「月でも見ていたの?」
庭に繋がるリビングの窓は壁一面、今日の様に月が綺麗な日はその灯りだけで充分なくらい。マリアちゃんが僕の顔を判断出来たのもそのおかげだろう。
近付いて来たマリアちゃんはそのまま僕の隣に立って同じ様に空を見た。
「やっぱり自然の中だと綺麗に見えるわね。落っこちて来そう」
ふふ、と笑う顔は僕よりも少し高い。元々同年代の中でも低い僕が歳上のマリアちゃんより小さいのは当然なんだけど、今の僕にはそれさえも広がった距離の証明に見えて。
「僕……ダメですね」
「え……?」
「全然、ダメで……成長してると思ってたけど」
少しずつ、僕は変わっていいるのだろう。外へ出る事も、髪を切る事も、前なら考えもしなかった。
狭い世界が広がって、それはきっと素晴らしい事で。
でも、ここからどうすればいいのかが分からない。
どこに向かえばいいのか、進んだとしても正しいのか。この早さでいいのか、遅くはないか、もっと早くなくてもいいのか。
一歩一歩の先が見えず、足を踏み出して見ても底が見えない恐怖ですぐに戻ってしまう。
先へ進んでいく彼女を追いかけたくても、背中はどんどん遠ざかっていく。
「今まで遅れた分も、頑張らなきゃいけないのに」
世界を閉ざしていたのは僕で、その責任は勿論僕にあって、頑張らなきゃって思うのに。
「そう思ってるのは、自分だけかもしれないわよ?」
「え……?」
「成長って、自分では気付かないものだもの」
軽く放たれた言葉の意味を、きっと彼女は分かっていない。深い考えも、僕を慰める意図だってなく、思った事を口にしているだけ。
そしてそんな彼女にとって当たり前の行動が、いつも僕を変えていく。
「マリア、ネリエルいた……何やってんの?」
「ケイト!」
「呼びに行くって出たのに遅いから」
現れたケイト君も、マリアちゃん同様お風呂上がりを連想させる姿で。でも何だかケイト君には似合わないと思ってしまうのは、多分お兄様達のセレクトだからだろう。
「ネリエル、俺の部屋で遊ぶぞ」
「え、あの……」
「トランプやりたいって、マリアが。それでネリエル探しに行ったのに」
「月が綺麗だったから、つい」
「はいはい……」
「じゃ、行きましょ、ネリエル!」
こちらに向かって伸ばされる手は、あの時と変わらない。あの頃と同じ様に、マリアちゃんはどんなに離れていても僕を振り返ってその手を伸ばしてくれる。
それが心地良くて、甘えたくて、実際に甘えていたけれど。
それでは、得られぬ答えがあると知った。
「……うん、行く。僕トランプ強いんだよ」
「断トツで弱いのはマリアだろう、すぐ顔に出るから」
「違うわ!お母様には勝てるもの!」
「この三人でって意味だよ」
ネリエルと呼ぶ、彼女の声が好き。笑う時に下がる目尻が好き。大人びた口調が、一瞬だけ崩れる瞬間が好き。お菓子に目を輝かせる所も、暖かな手も、実はお転婆な所も全部。
沢山ある、マリアちゃんの好きなところ。
でも僕には、その感情が何なのか分からない。
だから、知りたいと思う。
この気持ちが、この特別が繋がる先を。願わくば、彼女だけに抱く想いであればいいと。
マリアちゃんが、僕の特別大好きな人だったらいい。




