ついでの手土産
番外編「悩む男」のすぐ後の話です。
「……ルシアちゃん。その手、痛そうだね」
いつものようにふらりとラグーレンに来て、しばらく賑やかに過ごすのだろうなと思っていたフィルさんが、困惑したように私の手をじっと見ていました。
何を見ているのでしょう。
視線をたどって、自分の手を見て、私ははっと気付きました。どうやら、あかぎれを見ているようです。
ここ数日、この時期にしては冷え込みが強い日が続いて、水が冷たくてちょっとつらいな、と思ってはいたのですが。
いつの間にか、あかぎれが増えていました。
でも、まだ料理が作れないほどではないし……と、あまり気にしないようにしていたのですが、フィルさんは目敏く見つけてしまったようでした。
「あの、そんなに痛くはないわよ?」
「そんなわけがないだろう。君は若い女の子なのに。血もにじんでいるよ。昨年までは、そこまでひどくなかったよね?」
「それは、最近はいろいろできるようになったからかな。料理とか掃除とか、水を使う仕事は多いから……あ、でも、本当にそんなに痛くないのよ?」
私がそう言っても、フィルさんは全く信じていない顔をしていました。
気にしすぎです。今年は少しひどいですが、冬場はいつもこうなるものです。
でも、私がいくらそう言っても、フィルさんの顔は晴れませんでした。
我が家にいるときは、にこにこと楽しそうにしている人なのに、こんな深刻そうな顔をされてしまうとなんだか落ち着きません。
居た堪れなくて、私はそっと手を背中に隠してみました。
恐る恐る目を向けると、まだフィルさんは困ったような顔で私を見ていました。
そして、何かを決意したように立ち上がりました。
「……ごめん。アルベスに、少し王都に戻ると伝えてくれる?」
「王都に戻るって、え? もしかして今から戻るの?」
「うん、そうだよ。用事を思い出したんだ。……そうだな、一週間か、もう少しかかるかな。用事が済み次第、またここに戻ってくるよ。だから、荷物は置いていっていいよね?」
「それは、もちろんいいけど」
「では、またね!」
軽く上衣を羽織っただけの軽装で、フィルさんはもう家から出て行ってしまいました。
慌てて私も外に出ましたが、厩舎に向かっている背中はもう小さくなっていました。背が高い人が大股で、しかも早足で歩くとあんなに早いんですね。
妙なことに感心しているうちに、フィルさんは騎乗して王都への道へ向かいます。一度だけ振り返って手を振ってくれましたが、その後すぐに一気に加速して、あっという間に見えなくなってしまいました。
いつも王都に戻る時には元気がなくて、馬の歩みもゆっくりゆっくりだったのに。別人のような姿です。
「……フィルさんって、あんなに速く馬を走らせることができたのね」
初めて見た意外な一面でした。
◇
その一週間後。
「これなんだけど」
ラグーレンに戻ってくる時も馬を飛ばしてきたのか、我が家に着いたフィルさんはかなり髪が乱れていました。
でも私が「お帰りなさい」と言うと、にこにこしながら小さな陶器を差し出しました。
両手で包み込めるくらいの、蓋つきの容器です。
地味な色合いの陶器で、でもとてもきれいな色の紐が巻き付けられて、とても可愛らしく見えました。
「それは?」
「実はね、王都に怪我や病気に詳しい知り合いがいて、王都に戻ったついでに会ってみたんだ。その人にルシアちゃんのあかぎれのことを相談すると、この塗り薬を分けてくれたんだよ」
「え、塗り薬なの?」
私がためらっていると、フィルさんは笑顔のまま私の手に小さな陶器を押し付けて、握り込まされてしまいました。
「すぐに治るというものではないらしいけど、悪化を防ぎながらゆっくり効いていくそうだ。それに、多少は予防の効果もあると言っていた。だから……今回の滞在費のつもりで受け取ってくれないかな」
「でも」
私は持たされてしまった陶器に目を落としました。
フィルさんの笑顔に促されてそっと蓋を開けてみると、つんと鼻につく独特の匂いがしました。
半透明で、表面がつややかで、油脂に似ています。
こういう薬は、お値段によって品質がいろいろです。とても地味な容器に入っていますが、容器の中の軟膏は混ざり方が均一で、ざらざらした粒もありません。とても丁寧に調合されているように見えました。
……これ、見た目ほどお安くはないのでは……。
私がじっと見ているだけなのに焦れたのか、フィルさんはまだはめていた手袋を外して陶器を持ち上げ、中に入っているヘラを使って軽く軟膏の表面を取りました。
「このくらいを、肌に擦り込むといいらしいよ。肌が切れていると痛みを強く感じると聞いたけど……大丈夫かな?」
少し控えめに手の甲や指に塗りながら、心配そうに私の顔を覗き込んできます。
確かに、かなりしみます。
でもそれは最初だけで、あとは油脂が傷をふさいでくれるせいか、ほんわりと痛みが和らぎました。
まだ少しかたまりが残っていたので、自分で両手を擦り合わせて広げてみました。すると、今度は手全体が柔らかな布に包み込まれたように感じました。
「どうかな?」
「……とてもいいわ。でも、本当にもらっていいの?」
「もちろんだよ! 分けてくれた人も、君に使ってもらえると嬉しいと思うよ」
私はフィルさんの笑顔を見上げていましたが、そっとアルベス兄様を振り返りました。
判断が難しい時にお兄様を頼ってしまうのは、私の昔からの悪い癖です。
お兄様は私より年上で、いろいろなことを経験しています。私が気づかないことまで考えてくれて、しっかりと判断をしてくれました。
だから、今日もつい頼ってしまいました。私はもう十七歳になっているのに。
アルベス兄様は、なぜか渋い顔をしていました。
でも私と目が合うといつもの笑みを浮かべてくれて、ため息をついてから私たちに近づいてきました。
「せっかくだ。もらっておけ。俺もお前の手のことは気になっていたんだ」
そう言って、大きな手で私の頭を撫でました。
まるで、私がまだ小さな子供のままのような手つきです。でも私は、お兄様の大きな手で撫でられるのは嫌いではありません。
……昔から、とても嬉しい気持ちになります。ずっと守ってもらっていることを感じるからでしょうか。
「お兄様がそう言うのなら。ありがとう、フィルさん」
私はフィルさんが持っている陶器を受け取りました。
すると、フィルさんはきれいな顔に、ふわっと優しそうな笑みを浮かべました。
「よかった。では、改めてしばらくお邪魔させてもらうよ。残念ながら休暇は少し短くなってしまったけど、まあ仕方がないかな」
フィルさんはため息をつきましたが、なんだか楽しそうでした。
そして、さっそくくつろいだ様子で椅子に座って、ゆったりと伸びをしていました。
明るいフィルさんの笑顔は、人を幸せにする力があるようです。
馬を飛ばして到着した時、呆れ顔で水を持ってきたユラナが今はこっそり笑っていますし、なぜか不機嫌そうに眉をひそめていたアルベス兄様も、向かいに座りながら笑顔になっていました。
そんな三人を見ていると、私もなんだか嬉しい気分になりました。
アルベス兄様の大きな手で頭を撫でられた時と同じような……そんな幸せな気持ちでした。
(番外編 ついでの手土産 終)
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