(46)見覚えのある馬
翌日、私はこれからの数日で何をするかを頭の中で整理しました。
まずフィルさん専用の客間に風を入れて、お掃除をして。
豆の在庫確認もしておきたい。焼き菓子は多めに作って、あとは……。
大体の流れを把握して、動き始めます。
客間の掃除はいつも通りにすぐに終わり、焼き菓子作りも昼前には終わってしまいました。
アルベス兄様は、今日は領地の端の水路を見に行っています。
ラグーレン家の近くの水路は、騎士たちが本気で動いてくれたので、かなり整備が終わりつつあります。残りは舗装用の石材が揃ってからになるでしょう。
おかげで、やっと領地の端にまで手が伸ばせるようになりました。
あの辺りに水路が行き渡ると、農地からの収入がさらに増える計算で、ほぼ安定した経営ができるようになるだろう、とお兄様は言っていました。
だから、アルベス兄様は朝早くから元気いっぱいに家を出発しました。
往復するだけならそれほど時間はかかりませんが、細かい視察をして、農夫たちとも話をしてくることになるはずです。
朝は早かったし、帰りも遅くなるかもしれないとのことだったので、簡単なお弁当を少し多めに渡しておきました。
家の周りの農地の水路は、滞在中の騎士たちが見回りをしてくれています。
その人たちにもお弁当を渡したので、日中は家にいるのは私と通いで来てくれるユラナだけになりそうです。
こんなにゆっくりできる時間は貴重です。
この機会に、最近試験的に植えてみた作物の畑を見に行くことにしました。
試験用の畑への道は、ある意味でとても安全です。
今日も近くの丘には羊飼いたちがいて、私を見つけると大きく手を振ってくれました。
私も手を振り返しますが、残念ながら彼らほど目が良くないので、手を振ってくれたのが誰なのかはわかりません。
でも羊の数が多いので、タロンくんの家族ではないかと思います。
……いや、ローリンさんかな?
とにかく高台から羊飼いたちが見張ってくれているので、この辺りは極めて安全だそうです。
アルベス兄様も認めている安全な道を進み、こじんまりとした畑に到着しました。
ここは、五年前に放棄された地区です。
以前担当していた農夫の一家はとても働き者だったのですが、大雨の後、農地の復旧をする前に流行り病で亡くなってしまいました。
それ以降、ここは誰も担当していません。
土地の場所は悪くないのですが、川の流れが大きく変わってしまったせいで、水路を作らなければ連続して農地にするのは難しくなってしまいました。
今は、ラグーレン家が直接管理しています。
昔の家の跡が近いので井戸はまだ使えますが、小石や砂も堆積してしまいました。土質が変わっても水が少なくても人手が足りなくても収入になるような、新たな作物を模索しているところです。
イレーナさんの家のように、染料とかそういう現金収入に繋がるものも作れたらと思っているのですが、土が合わなかったり日当たりが合わなかったりと、なかなか難しいようで……。
「……え?」
畑の作物を一つ一つゆっくり見ていた私は、足を止めました。
馬がいました。
大きくて、しっかりとした馬です。こちらをじっと見ていますが、特に警戒している様子はありません。
とても健康そうですが、全身は随分と汚れていました。
背中には立派な鞍があり、他にも武器がいくつか取り付けられていました。
手綱はどこにも結びつけられておらず、どうやら好き勝手に動いて草を食べていたようです。
美しい装飾も物々しい装備も、王国軍の騎士のものです。
それに、あの馬は見覚えがあります。
私は慌てて周りを見ました。
どこかに、乗り手がいるはずです。
馬の近くにはいません。
では、木の影? それとも畑の畝の隙間?
……まさか、水の枯れた小川の跡に落ちているなんてことは……。
「……あ」
見つけました。
ポツンと残っている井戸の横に、うつ伏せに倒れている人がいました。
体のほとんどを覆っている黄色のマントはくすんでいて、乱れ広がる銀髪も、ほとんど灰色になっていました。
「フィルさん?」
そっと声をかけると、わずかに頭が動きました。
「……水、もらえるかな」
少しかすれた声でした。
私は急いで井戸の水を汲みました。
何か、コップ代わりになるものはないかと探しましたが、少し水が残っている大きなたらいしかありません。馬用にフィルさんが汲んでいたようです。
でも、たらいは人間には大きすぎます。
他に何かないだろうか、コップ代わりになる草の葉がないかと周りに目を向けると、フィルさんがのそりと起き上がりました。
地面に座ったままマントを脱ぎ、剣を外し、騎士の制服の上着も脱ぎ捨てました。
そして、井戸の汲み桶を受け取ると直接口をつけて飲み始めました。
呆気に取られている間に十分に飲んだのか、残りの水は頭からザバリとかぶりました。
「ふう。ちょっと生き返った。ありがとう。ルシアちゃん」
フィルさんはふわりと笑いますが、少し輝きを取り戻した銀髪からは水がぽたぽた滴っています。
さすがに気になるのか、フィルさんは髪を後ろにかきあげていました。
「……何か、拭くものはないの?」
「馬に積んでいると思うけど、まあ、すぐ乾くよ」
いや、今の季節は寒いですよね?
北部に比べると暖かいのかもしれませんが……。
私の呆れた視線に気付き、フィルさんは苦笑いを浮かべて立ち上がりました。
そこへ、馬がポクポクと近寄ってきます。
フィルさんは馬の背の荷物から布を取り出して、がしがしと髪を拭きました。
やればできるじゃないですか。
それに賢い馬です。
……いや、それより気になることがありました。




