(41)一夜明けて
一睡もできないことも覚悟していましたが、いつの間にか眠っていたようです。
気がつくと朝になっていました。
寝台から降りて窓を開けると、まだ太陽は昇っていないようですが、外は既に明るくなっていました。
こんなにゆっくり眠ったのは久しぶりです。
手足は少し筋肉痛になっています。でも、体に重さはありません。
「……私、悩んでいたはずなのに。ぐっすり寝過ぎじゃない?」
思わずつぶやいてしまいました。
やはり私には、恋愛小説のヒロインのような可愛らしさは無縁のようです。
昨夜、ぼんやりしている時に聞いていた棚を覗くと、着替えがありました。
上質の布を使ったドレスは一人でも着られそうです。ありがたくお借りして、髪も簡単に整えました。
貴人はまだ眠っているはずの時間です。
しばらく部屋にいる方がいいでしょうが、私の体はのんびりするには元気すぎました。
中庭を見せてもらおうと、私は扉へと向かいました。
内側からかけていた鍵を解除し、音を立てないようにそっと扉を開けました。
廊下はしんと静まっていました。
ごく微かに、遠くから音が聞こえますから、使用人たちはもう忙しく朝の準備を進めているのでしょう。
邪魔をしないうちに、外へ……。
そっと足を踏み出そうとして、私は立ちすくんでしまいました。
「……フィルさん!」
廊下の壁を背に、フィルさんが立っていました。気配は全くありません。
一睡もしていなかったのだとすぐにわかるくらい、目の下にクマがありました。
でも、私が驚いたのはそこではありません。
ざっくりと着た服に、ぽたぽたと水が滴っています。……銀色に戻っている髪は濡れていました。
「ちょっと、その髪、どうしたの?」
「……頭をはっきりさせようと、水を浴びたんだ」
「だからって、そんなに濡れたままで! もう、こっちにきて!」
私はフィルさんの腕を掴んで、ぐいぐい引っ張りました。
暗い顔をしていたフィルさんは、少し驚いた顔をしましたが、大人しく私に引っ張られます。部屋に入る瞬間だけ身体が強張りましたが、私が引っ張ると何も言わずに中に入りました。
「ここに座って。えっと、確かここに……」
椅子に座らせて、急いで予備の布を探します。
洗面用の柔らかそうな布を手に戻ると、フィルさんは大人しく座ったままでした。
後ろに回って、濡れたままの髪をぐいぐいと拭きます。一瞬触れた耳は、ひんやりと冷え切っていました。
「いつから、廊下にいたの?」
「……まだ薄暗い頃かな」
「そんなに前から? いくらフィルさんでも風邪をひくわよ!」
そう言ってから、ふと口を閉じました。
うっかりいつも通りに接していましたが……この人は王弟フィルオード殿下でした。
「あの……えっと……フィルオード殿下は……」
「誰もいないから、フィルでいいよ。万が一聞かれていても、僕がそう呼ぶように命令したと言うから」
フィルオード殿下は……フィルさんはうつむき気味にそう言って、わずかに微笑んだようでした。
私は髪を拭く手を止めました。
きれいな銀髪は、ようやく水気が切れてきました。
でも、大きな背中はとても寂しそうです。
……私はしばらく銀髪と背中を見つめ、ふうっと息を吐きました。
「では、フィルさんと呼ぶわ。慣れない呼び方をしたら、言いたいことが言えなくなるから」
また髪を拭く手を動かしながら、言葉を続けました。
「こんなに濡れたままで、寒くなかったの?」
「北部の夜に比べれば、このくらいは別に」
「そういうものなの? 用事があるなら、声をかけてくれればよかったのに」
「何度かそうしようとしたよ。でも……昨夜、アルベスが君に飲み物を持っていっていたから、多分開けてくれないだろうなと思って」
そういえば、そうでした。
なのに、私はうっかり部屋に入れてしまいました。
「……でも、まあ、もう夜じゃないから、お兄様との約束は破っていない、かな?」
今も、ドアは開け放っているし。
そんなことをつぶやいていたら、フィルさんが小さく笑いました。
「何?」
「いや、君らしいなと思って。……騎士隊の連中もね、僕に普通に接してくれるんだ。命令されたから仕方がないとか言って。ああいうのは好きだな」
フィルさんは笑っていましたが、ふうっとため息をつきました。
「……ああ、やっぱりルシアちゃんが好きだな。君に会えなくなったら、全てがつまらなくなりそうだ」
「わ、私はまだ何も……!」
「でも、もう僕とは会わないつもりだったんだろう? だから……格好悪いのは承知の上で、廊下で君が出てくるのを待っていたんだ」
フィルさんは床を見ていました。
「最後に見たルシアちゃんが泣き顔なのは嫌だったんだ。思い出すたびに苦しくなるから。だから、こうして前と同じように接してくれているのを感謝している。本当にありがとう。僕は……もう死んでもいい」
最後は吐息に紛れてしまうような、弱々しい声でした。
私は髪を拭く手を止めました。
湿った布をテーブルに乱暴に投げ、フィルさんの前に回り込みました。
「フィルさん。顔を上げてください」




