(26)出発の前
フィルさんの休暇は、あっという間に終わってしまいました。
王都まで戻らなければいけないので、三日あると言っても実質は二日半です。だから、最終日の昼頃、つまりそろそろ出発しなければいけない時間になっていました。
いつもなら床に転がって、戻りたくないとか泣き言を言うのですが。今日は少し違いました。
床ではなく椅子に座り、何かをじっと考え込んでいます。
ただし暖炉の前に椅子を置いている時点で、かなり戻りたくない病が出ていますね。座り方もだらっとしていますし、銀髪もボサボサです。
「おい、フィル。そろそろ出発しろ。迎えが来るぞ。騎士隊長レベルならともかく、軍の重鎮の方々に押し寄せられたら困るんだ」
「……わかっている。迷惑はかけたくない。だが、戻りたくない」
ため息をついたかと思うと、頭を抱えこんで丸くなってしまいました。
床でないだけ、大人だなと思っていたのですが。
あまり変わらない気がしてきました。
アルベス兄様はため息をついて、私をちらりと見ました。
どうやら、私の出番のようです。
今日は蒸しパンはありません。お昼ご飯を食べてから出発すると聞いていたし、その準備で忙しかったので。
バスケットの中身も、日持ちのする堅焼きのお菓子にしてしまいました。
それを一つ出してみようかと考えていると、もう一度ため息をついたお兄様が、居間から出て行ってしまいました。
ずっと待っている馬を見に行ったのでしょうか。
誰か、迎えが来ていないかを確かめるためかもしれません。
「フィルさん。今日は本当にお迎えが来るの?」
「……来るかもしれない。今日中に絶対に戻れと言われているから」
あらら。
あまり信用されてないみたいですね。
思わず笑ってしまいましたが、フィルさんの背中が寂しそうだったので、笑いを急いで納めました。
フィルさんの椅子の横の床に軽く膝を突き、うつむいたままのフィルさんの顔を覗き込みました。
「ねえ、フィルさん」
フィルさんの膝にそっと手を乗せました。
「……フィルさんは、軍の中では偉い人なの?」
農作業と料理を楽しそうにしてくれる騎士たちは、皆、アルベス兄様の同期だそうです。剣の訓練の様子も見たことがあります。アルベス兄様も含めて、普通の騎士のレベルを超えていました。
あの人たちが平の騎士のはずがありません。
時々、フィルさんを迎えに来ていた騎士にも、普通の騎士ではない人がいた気がします。
そして、今日のお兄様の言葉。
「本当に軍の重鎮の方々が来るの?」
「……さすがに上層部は来ないと思う。騎士隊長たちが来るのは、年齢的に僕と仲がいいからだよ。それより下だと萎縮して役に立たないとわかっているから、重鎮どもは便利な遣いにしているんだ」
本当に騎士隊長クラスが来ていたんですね。
「今の僕は……第三軍の軍団長だ。第三軍には何人か軍団長はいるが、実質的に僕がトップだろうな」
フィルさんはそうつぶやいて、やっと私を見てくれました。
そんな心配そうな顔をしないでください。
驚いてはいますが、今さら態度を変えるつもりはありませんよ?
「今回は短かったけど、ゆっくりできた?」
「……うん」
「それはよかった。また来ていいから、頑張って」
ぽんぽんと膝を叩くと、フィルさんは頭から手を下ろしました。
やっときれいな銀髪が見えるようになりました。
私は立ち上がって後ろに周り、櫛でフィルさんの髪を整え始めました。ボサボサになっていた髪が、櫛を通すたびに光沢を増していきます。
髪を整えてあげるのは、何回目でしょうか。
初めてフィルさんが泊まりに来た時からだったと思います。きれいな髪なのにあまりにも見苦しい状態になっていたので、無理矢理座らせて櫛を通しました。
それ以来、時々こうして髪を整えていました。
出発前にしてあげるのは、初めてかもしれませんね。
最近はお菓子を口に入れていましたから。
「ルシアちゃん」
「何?」
「たぶん、もう今年はここに来れないと思う。……近いうちに、北部に戻るんだ」
「そうなのね」
髪はすっかりきれいになりました。
でも、もう少し触っていたくなって、私はエプロンのポケットに入れていた紐を取り出して長い襟足を束ね始めました。




