番外編 11 混乱する頭
走って走って、フロアの一番端にある非常階段のところに逃げ込んだ。
自分の吐く息と、どっくんどっくんと鳴ってる心臓がうるさい。
頭の中は混乱してる。
何が起こったの?
目の前に迫ってきた桐谷さんの顔・・くちびるが、わたしにちかづいて・・
え!? なに? なんだったの、さっきの。
・・きだ、汐崎。
耳元で言われた言葉。なに?
すきだ・・って言ったの?
うそでしょ? ウソよね。そんなわけない。
でも、そう、聞こえ・・
「おい、汐崎」
「きゃああ!」
突然ポンと肩に手を置かれ、私は飛び上がるほど驚いた。
見上げると、ズンと私を見下ろす石橋さん。
これから怒るぞコラって時の顔をしているので、一瞬にして私は今の状況を理解した。
ここは会社で、私は社員で。
すでに午後の就業時間は開始していて、それなのに私はサボって非常階段に座り込んでいる。
ハイ、間違いなく怒られます。
冷や汗を流す私に、石橋さんはふぅーっと大きく息を吐いた後、私の頭に手を置いた。
「コラ、と言いたいところだが・・・。桐谷に悪さをされて逃げたんだろ?
怒るのはお前じゃなくてアイツにしといてやる」
「ぇえ?」
なんで知ってるの? 見てたの!?と肩を竦める私。
石橋さんは呆れたような顔をした。
「見てたわけじゃないぞ。バカか。
そんな真っ赤な顔して走って逃げてくから分かっただけだ。
さあ、戻るぞ。もう三十分もオーバーしてる。桐谷は午後の会議に行っていないから安心しろ」
最後の方が言い終わらないうちにもう背中を向けて歩き出してしまったので、私も慌てて後に続いた。
その後の仕事は、ミスの連発で、石橋さんにチェックしてもらう度にボッコボコに指摘された。
だって・・・。
さっきの桐谷さんの顔が脳裏にチラチラ蘇ってしまって、集中出来ない。
こんな・・恋愛ごとの悩みなんて私の人生で今まで一度もなかったから、落ち着こうと思えば思うほど焦ってしまい、余計に作業が遅れてしまうという悪循環。
見兼ねた石橋さんが、就業時間が終わるとすぐに「今日はもう上がれ」と言った。
これ以上やってもミスの直しで手を煩わせるだけなので、大人しく帰ることにした。
帰るって、・・・桐谷さんの部屋に・・・?
どんな顔をして会えばいいんだろう。
どうしよう。シャルに電話して新しい引越し先を見せてもらいに行こうか・・・。
一人で悩んでいると、ポケットの中の携帯がブルブル震えた。「おい」と背後から石橋さんにも呼ばれる。
「桐谷は今日は出先から直接帰るから、後一時間ほどで戻るらしい」
「えぇ!?」
「話がしたいそうだ。・・・逃げるなよ、と言ってる」
ええー!?
口をパクパクするだけで何も答えられない私に、石橋さんはククッと低く笑った。
「きっと腹を空かせているだろうから、なにか簡単なものを作ってやれ。
二人とも、ちゃんと食うんだぞ」
「・・はい・・」
携帯を開くと桐谷さんからのメールだった。
内容は正に今、石橋さんから告げられた通り。
何だろう。逃げ道を塞がれた気分だ。
正直、部屋に帰りたくなかった。桐谷さんに会うのが気まずい。
なんだかもう、わけがわからないし。
私のことが好きっていうのが本当なら、だったら噂はなんなんだ。
火のないところに煙は立たないっていうし、山本さんと深い関係なのは事実みたいだから・・。
だとすると、・・からかわれた・・?
シャルが失礼な態度だったからムカっとしてて・・。
だからシャルにしたように、同じようにしてみろよ、って言ったんだろうか。
キスとハグはあっちの国では挨拶だから何も抵抗はないけど、それを日本人同士でやるのは意味が全然違うと思う、のに。
でも桐谷さんがそんなイヤガラセみたいなこと、するとは思えないし。
だけど、だったら、あの、すきだっていうのは、ほ、ほんとってことになるから有り得ないし。
・・考えれば考えるほど、泥沼に沈んでいくみたいに嫌な思考で頭がいっぱいになる。
でも、やっぱり桐谷さんと一緒にご飯を食べるのは嬉しいから、部屋に戻るとがんばって作った。
蓮根などの根野菜と茸で煮物を作り、じゃがいものしゃきしゃきサラダと、肉団子の甘酢あんかけ。
甘酢あんはうちの母の得意技で、魚や肉料理で度々登場する。
前作った時に桐谷さんがすごく気に入ってくれた料理だ。
今日も美味しいって言ってくれるだろうか。
「ただいま」と声がして、玄関ドアの閉まる音が聞こえる。
私は動揺を隠しきれないまま、キッチンから、リビングに入ってきた桐谷さんを迎えた。
「お、・・おかえり、なさい。あの、すぐにごはん食べられますから・・」
目が見られない。
言うだけ言って、キッチンに引っ込もうとした。
桐谷さんはスーッとそばに来て、ずんずん近づいて来る。
だから後ろに下がるんだけど、すぐに距離を縮められる。
トンと壁に背中が当たる。
目の前の桐谷さんが両腕を壁に付いて、覆いかぶさるように私を囲んだ。
「・・・汐崎。昼間のこと、無かったことにする気じゃないだろうな」




