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40 母の声

甘いコーヒーを飲み終えると、桐谷さんは、すっと携帯電話を差し出してきた。


私の手を掴んで携帯が乗せられる。


「番号は、分かるな?」

「・・・」


「はい」と答えたかったけど声にならなかった。

でも桐谷さんは「よし」と呟き、私の後ろ側に足を伸ばし、 座った。

私の手に大きな手を重ね、支えてくれる。

背中からすっぽり包まれるような姿勢だ。

男の人にこんなことされて、緊張しそうなのに、桐谷さんだと思うとほっと安心した。この人は、私を守ってくれるひとだから。

この人といれば安心だから。


「大丈夫だ。深呼吸して。はい、吸ってー、吐いてー・・」

すう、はー、すー、はー・・

桐谷さんの声に従って息をする。それだけで、少し落ち着けた。



「桐谷さん、私・・・、最初に何を言ったらいいんでしょうか」

「そうだな。まずは、名前を言って、久しぶりって挨拶したらいいんじゃないか」


私のすぐ後ろに桐谷さんの顔がある。

桐谷さんの声と一緒に息が耳に当たって少しくすぐったい。



電話番号はもちろん覚えている。

高校の時も、何度も、押そうとして最後の一つが押せなかった数字。

やっぱり同じようにあと一つのところで手が震えて、数字が押せれない。

「・・・いくつだ、最後は?」

耳元で問われる。

「ご、です」

桐谷さんは躊躇いもなく数字をタッチし、通話のマークが出てきた。


桐谷さんの手に操られるように携帯を耳に当てた。

プルルルルル、という電子音が鳴っている。



ほんの数秒が何十秒に感じた。



『はい』



お母さんの声だ!

どうしよう!?

頭が真っ白で、声が出てこない。


ポン、と肩を叩かれる。「す、鈴音です! お、ひさし、ぶり、です」

飛び出た言葉に、電話の向こうは一瞬静まる。



「すずッ!? すずなの!! すず、すず!!!」



耳がキーンとなるくらいの叫び声が返ってきた。

私が驚いている間にも、電話越しのお母さんの声は絶え間なく続いている。


「すず、今どこにいるの! どうして連絡の一つも寄越さないの!

一体、どこでなにしてるの! すず! すずッ!? すず!!

聞こえる!? 返事して、すず!!!」


ぽん、ぽん、と背中を叩かれ我に返る。

「あ、ご、ごめんなさい、お母さ」「もう、ごめんなんていいのよ! それより、いま、どこにいるの? なのしてるの!? 元気なの?」

「わ、私は元気、だよ。高校も卒業して、今は、会社に就職したの。あの・・・、お・・」


声が、震えた。

背中を撫でるようにトントン叩かれている。

がんばれがんばれって言われてるみたいで、私は言葉を振り絞った。


「お兄ちゃんはっ・・、どう・・してる?」


「っ、っく、すず、ごめんねぇ。ほんとに・・」

電話から母のすすり泣きが聞こえる。

どうして泣くんだろう。兄は、そんなに悪いんだろうか。

「お、お母さん、お兄ちゃんは?」

「心配いらないのよ。もう、すっかり立ち直ってる。

すず、和寿は立派に生きてるわ。あの子、美術の専門学校に通っててね。

画家を目指してるの。ふふ、信じられる? あのお兄ちゃんが、よ」


画家。絵描きさんになるのか、兄は。

信じられる?なんて母は言うけど、中学生の頃何度も落書きやイラストを見せられてた覚えのある私としては、ああ、と納得のいくものだった。そうそう、絵を描くのが昔から好きだったなって。


「だからね、鈴音。あなたは何も謝ることないのよ」

「・・・!」

「ずっと、謝りたかったのはお母さんの方。私がもっとしっかりしてれば、あなたが出て行くこともなかったのにね。本当に、ごめんなさい。鈴音」



涙が頬をつだった。携帯につきそうで慌てて拭う。

横からハンカチが出てきて、そっと頬に当てられた。



「顔が見たいわ。そっちでの話も聞きたいし、一度帰っていらっしゃい。すず。

お兄ちゃんもすずに会いたがってるのよ」

「ほ、ほんとに?」

「ええ。すずの絵ばっかり描いて、彼女にシスコンって呆れられてるのよ。笑っちゃうでしょ?」

クスクスと笑うお母さんの声。

昔のお母さんの笑った顔が目に浮かんだ。


「お兄ちゃん、私のこと、怒ってない・・?」

「そうねえ、怒ってるわよ」

「っ!」

「・・・すずがちっとも帰って来ないから怒ってるわ」

かくん、と身体から力が抜けた。と言っても桐谷さんの身体が背中に触れ、支えられた。


「汐崎、明日帰ると言え」

耳元で囁かれる。「あ、あした?」


「明日? すず、明日帰って来れるの?」

私が桐谷さんに言った言葉に母が反応して大きな声をあげた。


「 日曜日だものね。うれしいわ! お兄ちゃんにも言っておくから。気をつけて来るのよ。待ってるわ」

「え、あ、う、うん」

「それじゃあまた明日ね、すず!」


こちらの不安を吹き飛ばすような明るい声で、電話は切れた。


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