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25 こわかった、夜

「ほら」

目の前に差し出されたカップからは、温かい湯気が上がり、手に取るとふわりといい香りがした。

「・・がと、・・ます」

声が、上手く出ない。


真っ白いシャツは桐谷さんからお借りした。この部屋に連れて来てもらって、シャワーを借りて、服を借りて、頬や足の裏にできていた傷の手当もしてもらい、コーヒーまでご馳走になってる。

あたたかくて甘い、ミルクたっぷりのコーヒーを飲んだらいくらか気持ちが落ち着いた。

目を閉じて、深呼吸する。

目を開けると、向かいのソファに座る桐谷さんが心配気な顔で私を見つめていた。

私はカップを置いて、お辞儀をした。


「あの、本当に、ありがとうございました」

「無事で良かったよ。・・何があったのか、話せるか?」

こくりと頷く。私は記憶を辿り、ぽつりぽつりと口にした。





・・・アパートに着いたところで声を掛けられた。

見知らぬ男性。

上の階の住人で、私を何度も見かけ、ずっと声を掛けようとしていたのだと言う。

口調は優しいのに、声がネットリと気持ち悪くて。

顔は笑顔なのに、すごく嫌だと思った。

だからすぐに部屋に入ろうとしたのに、腕を掴まれた。

慌てて振り解こうともがいたら、「騒ぐな!」と頬を打たれて。

恐怖で頭が真っ白になって、とにかく、逃げ出そうと、暴れまくって走って逃げた。

後ろから、男がキラリと光るものを手にして追いかけて来た。

怖い。

殺される。

嫌だ、嫌だ、助けて!


いつも一人で歩いている夜の道なのに、恐ろしいくらい真っ暗に見えた。


走って、走って、何時の間にか会社に来てた。

エントランスは閉まってる。横の地下駐車場に駆け込んだ。

とにかくどこかに隠れないとって。


一番奥の壁に、緊急時の公衆電話が設置されているのを見つけて、気づいたら、桐谷さんに電話してた。

スーツのポケットには桐谷さんから貰った名刺が入っている。

でも、見なくてももう番号は覚えていた。何度も、眺めてたから。


桐谷さんはすぐに出てくれた。

私が何もしゃべれないのに「汐崎、どこにいる?」って。


小さくなって見つからないように隠れていると、遠くから足音が聞こえた。

嫌な声も。

「どこにいるのかなあ?」

「はやく出ておいでよ」

「ボクと遊ぼう」

声は行ったり来たりうろうろと歩き回っているようだった。


ゴクリと唾を飲む音と自分の吐息がやけに大きく感じて、男に聞こえてしまうんじゃないかと思うと怖くて怖くてたまらなかった。


また声が遠ざかり、どれくらいの時間が流れたのか、緊張と恐怖で寒くて歯が震えた。


「汐崎ッ!」

私の名前を呼ぶ、あの声は、桐谷さん。本当に来てくれた。

でも、ダメ。今は、あの男がいる。

私も桐谷さんの名を呼ぶ。

早く逃げて!

私の元に駆けて来てくれた桐谷さんの背後から、男が刃物を振り上げていた時には絶望を感じた。

イヤ!

やめて!

私のせいで、また、人がきずつく。わたしのせいで。






その時の男の形相を思い出し、また体が震えた。

「ごめんなさい、桐谷さん。電話して・・」

「何を言ってる。俺はお前を探してたんだ。電話してくれて助かった」

私が深く頭を下げると、背中にあたたかい手が触れる。


「無事で良かった。間に合って、本当によかった」

優しい言葉に、私は首を横に振る。

「でも、桐谷さんも、怪我をするとこでした。私が・・」

私が助けてなんて言ったからだ。


「汐崎」

桐谷さんの顔が近づく。

「俺は怪我なんてしなかっただろ?

護身術や合気道なんかはけっこうやってきたからな。腕っ節には自信がある。

ちょっとやそっとじゃやられない。大丈夫だ」

桐谷さんはにっと笑い、口から白い歯が覗く。


「お前の方が大変だろ。女の顔を殴るなんて最低な奴だ。やっぱりもっと殴っておけば良かったな。・・痛むか?」

そっと撫でられる。

「だい、じょうぶです」

「でも、震えてる。・・怖かったな。よく、頑張った。もう大丈夫だ」

桐谷さんの身体が近づき、私は桐谷さんにぎゅうっと抱きしめられた。

優しい力強さ。



だめ、はなれなきゃ、と思うのに、桐谷さんのぬくもりが心地よくて。

私は目を閉じた。

とても疲れていた。

走って走って、緊張しっぱなしだった体から力が抜けて行く。


小さい赤ちゃんのようにとんとんと規則正しく背中を叩かれ、私は吸い込まれるように眠りに落ちてしまった。


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