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19 残業

ある日お昼休み明けの二時ごろ社内報で回ってきたメールに、不審者に注意の文字。

会社付近で女性に声をかけたり触ったりする変質者が現れたらしい。

現在逃走中でまだ捕まっていないそうだ。


「まあ、いやあね。女性の敵ねえ」

隣の席でも山本さんがメールを開いたみたいで声を上げている。



「高校生の時、わたし電車通学でね、その時にも痴漢が出てホント嫌だったわ」

「お前、有段者だろ。捻じりあげたのか、犯人」

「ふふふ。石橋さんも投げられてみたい?」

「・・・」

「鈴音ちゃんも気を付けなきゃ駄目よ。あなた、徒歩なんでしょう? 」


山本さんが心配そうに見てくる。


「あ、いえ、本当にすぐ近くなので大丈夫です」

「ああ、桐谷も言ってたな。会社のすぐ裏だったって。

俺も近いとこに引っ越すかな」

「あら、石橋さん、毎朝の通勤が辛くなってきたの?」

「片道一時間は毎日だと堪えるな。やはり遠い。山本はいいな。十分くらいか?」

「ふふ。まあね。石橋さんは・・」

二人はパソコンで作業をしながらも話しているからすごいと思う。


私は話すと手が止まってしまうので、おしゃべりしながらパソコンなんて無理だ。ぺこりとお辞儀して、会話から抜けてパソコンに向かった。






八時に帰ろうとした時、急にトラブルが発覚して、皆で分担して処理することになった。

「帰ろうとしていたところ、悪いな。汐崎」

「いえ、大丈夫です。これをまとめればいいんですか?」

「ああ、頼む」

どうせ帰っても家でパソコンをするんだから大してかわらない。


パチパチと聞こえる桐谷さんのタイピングはいつもに増してスピードが速い。

私ももう少し速くなれるといいんだけど・・。


「汐崎」

「はい」呼ばれて顔を上げると桐谷さんがほらよ、と何かを投げる。

受け取ると、チョコレートのお菓子だった。

「食え。あと、姿勢が悪い。もう少し肩の力を抜いて、腕が楽に動かせれるようにすると、もっと速く打てるぞ」

「・・・は、はい! ありがとうございます」


姿勢。そんなことちっとも考えなかった。そういえば桐谷さんは背筋がしゃきっと伸びている。

試しにピッと背を伸ばして腕を少しストレッチしてからキーボードに手を置いた。

パチパチパチパチ・・

おお! 確かに、今まで余分に力がかかっていていたのが分かる。

サクサク打てるし、腕も痛くならない。

すごい・・! 後でお礼を言おう。って言う程まだ速くないか・・。


久しぶりに食べたチョコレートはビックリするくらい美味しくて、口の中に良い香りがいっぱいに広がって・・私はしばらく余韻に浸っていた。






十一時を過ぎた頃、ようやく皆でやり終えた。

分担と言っても、私は桐谷さんの四分の一もやれてないんだけど。


「お疲れ。俺は帰るぞ。また明日な」

「私もー。おつかれさまー」

石橋さんと山本さんがふらふらしながら帰って行った。


「あ、私も、帰ります。お疲れ様でした」

鞄をまとめて立ち上がると、桐谷さんも立ち上がる。


「本当にお疲れ様だったな。助かったよ。汐崎、遅いから送って行く」

「い、いえ。そんな。大丈夫です。すぐ、そこなので。

送るなら山本さんの方が」

「山本はちゃんと迎えが来てる。問題ない」

「いえ、あの、本当に大丈夫ですから」


また迷惑をかけるなんてとんでもない。

断っているのに桐谷さんはもう歩き出している。ドアを開け、「早く来い」と呼ばれて慌てて追い掛けた。

「あの、桐谷さん・・」

「腹へったな。ついでに軽く食って行くか」

「いえ、あの・・」


桐谷さんは足が長いので、スタスタ歩かれると私は小走りにならないと追いつけない。断ろうと追いかけているうちに会社を出ていた。



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