ウィンプルの蜂、夜の蝶
「やはり君は、『吸血鬼』……!」
獣のように四つ這いになって、男の死体からあさましく血を啜るリンネの姿を見据えて、マキシは震えながらそう呟いていた。
白蝋のような肌。血の色に染まった深紅の瞳。真っ赤な唇から覗いた、鋭い犬歯。
少女は、人間ではなかったのだ。
『吸血鬼』は、この世界で最も恐れられ、嫌悪される存在だった。
世界の始原の頃より存在する、邪悪な種族の末裔たち。
老いて死ぬことはなく、闇間に紛れて人間の血を啜り、命を吸い取る。
吸血鬼に血を吸われて死んだ者は、自らも吸血鬼となり蘇り、次なる犠牲者を求めて永劫の夜を彷徨うのだ。
過去、吸血鬼の跳梁を防ぎ切れなかったばかりに、滅び去り死の土地となった都市や集落は数え切れなかった。
そんな忌まわしい存在が、マキシの依頼人である小さな少女、御崎リンネの正体だったというのだ。
「グ……ウ……ア……。マキシさん?」
そして、男の死体から顔を上げて、リンネがマキシの方を向いた。
血の色だった瞳が、今は黒珠のようなそれに戻っていた。
リンネは我に返ったように辺りを見回すと、路上から立ち上がって困惑した表情でマキシに駆け寄ろうとした。だが、
「近づくな!」
マキシの氷のような一声が、リンネを制した。
少女を見据える探偵の表情が、先ほどまでとは一変していた。
「昨日からまさかとは思っていた。君とソーマ……顔形のまったく似ない姉弟。人間離れした君のタフネス。口にしない朝食。枯れ果てていた花籠。あの花籠の用途は魔遺物の隠し場所なんかじゃなかった。君の食餌だったんだ。バラやアジサイから、直接命を吸ったな?」
「マキシさん。落ち着いて……マキシさ」
「近づくなと言ったんだ!」
忌々しげに頭を振りながら、マキシは昨日からのリンネの様子を思い返していた。
必死で何かを弁明しようとする様にに、マキシに歩み寄ろうとするリンネに、再び放たれた探偵の厳しい一声。
「結論に至るだけの材料は揃っていた。しかし信じられなかった。いや、信じまいとしていた。君の膝で安心して眠るソーマの顔、そしてソーマを見る君の顔を見ていると……だが!」
探偵は路上に転がった死体と、リンネの口元を濡らした血……今は白蝋のようなリンネの肌に、見る見る染み込んで消えてゆく僅かな血の名残りに目を遣って、再び首を振った。
「やはり私は間違っていた。君は危険すぎる。理性を失うくらい……取り繕うことも出来ないくらい、渇いていたんだな!」
「違う! お願い聞いてよマキシさん……ねえマキシ!」
マキシの言葉に、リンネは苛立ったように人形のような顏を歪め、そう呼びかける。
「言え『御崎リンネ』……この名も本来のモノではあるまいが……! 教会から髪飾りを持ち出し、ソーマを連れ出し、なぜわざわざ私の屋敷に入り込んだ。一体何を企んでいた。どんな理由がある!?」
「だから! 企みなんて無かった。私はただあの子を……」
問いただすマキシに堪えかねたように、リンネが悲鳴のような声を上げた、その時だった。
「理由なんて単純ですわ。それはコイツが吸血鬼だから。ただ、それだけのこと……」
マキシの背後から、澄んだ女の声が響いた。
そして次の瞬間、ガオン!
轟音が夜の路地の空気を震わせ、マキシの右脇を空気を裂いて何かが掠めた。
「ギャアアアアゥウ!!」
「……リンネ!?」
そしてリンネに起きた異変に、マキシは思わず戸惑いの声を上げた。
リンネの身体が路上を苦し気に転げていた。
苦痛に歪んだ口元から吐き出されるのは、少女の小さな体からは想像も出来ないような獣のような恐ろしい絶叫。
マキシの背後から何者かの撃ち放った銃弾が、リンネの腹部に命中していたのだ!
「近づいてはいけませんわ。ミスター・マキシ。この者は不浄の者。この世に悪疫を広げる滅びの先触れ……」
「その声は。シスター・テレーズ!」
リンネを撃った者の姿を認めて、マキシは驚きの声。
そこに立っていたのは、輝くような金髪を揺らし、豊かな身体つきを修道服に包んだ、若い女だった。
贖罪教会のシスター・テレーズだ。
シスターの右手には、外套の光を受けて鈍く輝いた、銀色の回転式拳銃だった。
「一体だれが招き入れたのでしょう。もう一ヵ月も前から、夜な夜な教会に忍び込み子供たちの血を啜る、不浄の者がありました。誰にも気付かれないように、ほんの僅かずつ、孤児院の子供たちの血を……」
路上で苦し気な声を漏らすリンネを青い瞳で冷たく見据えながら、シスター・テレーズはマキシにそう言った。
右手の拳銃が、再び少女に狙いを定めていた。
「うう……ぐッ……」
そしてマキシは、路地に立ち込めた異様な匂いに、自分の口を覆っていた。
弾丸に貫かれ少女の腹部から流れた血が、道に滴り落ちたリンネの血が、濃厚な芳香を放っていたのだ。
それはまるで水仙のような、甘い花の香だった。
リンネの血を嗅いだマキシの視覚が、グニャリと歪んだ。
一瞬探偵を、強烈な酩酊感と眠気が襲った。
「距離を取るのですわ。ミスター・マキシ。この者の血は、嗅ぐ者を酔わせ、眠らせ、そして記憶を書き換える。邪悪な吸血鬼に都合が良い、歪んだ記憶にね……」
シスターの言葉に、リンネから後ずさるマキシ。
「その銃は……昨日私を撃ったモノと同じ型だ。では『探し屋』を雇ったのは、やはり君たち……!」
「その通りです。神父様とわたくしが、ようやく不浄の者の正体に気づき祓魔の儀式を決意した頃、コイツは孤児院の子供の一人をさらって、街へと逃げ出していたのです。そう、吸血鬼に魅入られた哀れなあの子。御崎ソーマをさらってね……!」
シスターは侮蔑の表情でリンネを見下ろしながら、マキシの問いに答えた。
「わたくしたちは、神から魔を祓う力を与えられていますが、人探しには向いていない。『探し屋』たちに拳銃を貸し与えていたのは、万一に備えての事でした。吸血鬼が邪悪な本性を現して牙を剥いてきた時、コイツを傷つけ殺せるのは『銀の弾丸』だけ。首を刎ねるか、銀の弾丸で心臓を貫くしかありません」
「あの銃は、そんな目的で!?」
「はい。黙っていて申し訳ありませんでしたミスター・マキシ。探し屋たちから吸血鬼があなたのお屋敷に潜り込んだと聞いたのが、つい今朝方の事。ソーマの身柄が吸血鬼に握られているうちは、慎重に事を運ぶ必要があったのです。でも、もうその必要もなくなった……!」
驚きの声を上げるマキシに毅然とした声で答えるシスター。
彼女が再び、傷ついたリンネを青い瞳でキッと睨んだ。
「ギ……ギ……! シスターァテレェズゥウウウウウ!」
リンネは恐ろしい形相で、シスター・テレーズを睨みつけていた。
その瞳は再び深紅に染まり、剥き出しになった2本の犬歯が蛇のようにシスターの方を向いていた。
「汚らわしい吸血鬼! 我ら『中央教会』とそこに仕える『祓魔師』は、お前たちの存在を、決して許さない。街に潜り込んだ事を、子供を連れ去った事を。お前の存在そのものを! 永久に滅びなさい!」
シスター・テレーズがそう言い放ち、リンネの左胸に狙いを定めて拳銃の引き金に力を込めようとした、その時だった。
「待て、待ってくれシスター!」
マキシが少し取り乱した表情で、シスターの前に立った。
「こいつには……吸血鬼には、まだ聞かなければならない事がある! 事件の真相を! 彼女の企みの真の意図を!」
「さっき言ったはずですわ。ミスター・マキシ。吸血鬼に意図などありません。あるのは血への渇望と、あさましい自己保身のための本能だけ。さあ邪魔をしないで」
リンネの身体を庇うマキシに、シスターが少し苛立った様子で歩みを進めようとした、だがその時。
ザワザワザワ……
「…………!」
マキシの背後、リンネの身体の方から感じられる奇妙な騒めきに違和感を覚え、少女の方を向いた探偵は息を飲んだ。
震える足で路上から立ち上がっていたリンネの身体が、何か黒い影のようなモノに覆われてゆくのだ。
「影……いやちがうアレは……!?」
リンネを覆ってゆくものの正体に気付いて、マキシの金色の瞳が見開かれた。
ザザアアアアアア……
リンネが変化してゆく。
か細い手が、しなやかな足が、撃ち抜かれた腹も胸も。
少女の身体が、何百頭もの小さな黒翅の蝶へと変じて、宙を舞っていた。
そしてリンネの顏と髪までが、蝶になってゆく一瞬。
リンネは、マキシを見ていた。
少女の黒珠のような瞳が、悲し気に探偵を見つめていた。
「しまった……黒蝶に変化を……!」
ハサハサと掠れた翅音をたてながら、無数の蝶の姿となって夜の空へと消えてゆくリンネを見上げて、シスター・テレーズが怒号を上げた。
「どういうつもりです! ミスター・マキシ!」
リンネに逃げる隙を与えてしまったマキシの行動に、シスターは探偵を指さしそう問い詰めた。
「ようやく吸血鬼からソーマを引き離して、アイツを滅ぼす絶好の機会に辿り着いたのに。また振り出しに戻ってしまった! いや……いくら吸血鬼でも銀で抉ったあの傷ならば、変化してもそう遠くへは……! さあ今すぐ追いかけて、確実なるとどめを!」
「いや。振り出しなんかじゃないさ、シスター・テレーズ……」
シスターの声に、マキシは何か確信に満ちた顔でそう肯いた。
「何をノンビリしているのです! 元はといえば、あなたが吸血鬼の話など信じて、アイツを屋敷に招き入れたから、こんな面倒になっているのです! アイツは悪疫を広げ街を滅ぼします。勿忘市で1番の探偵というお噂なのに、なんて間抜けな頭脳なのですか! さあ一緒にアイツを追うのです!」
「そうだ。確かに彼女は嘘をついていた……」
全くその場から動く様子の無いマキシに、シスター・テレーズが苛立った様子で探偵を責め立てる。
だが、マキシに動じる様子はなかった。
「確かに彼女の……リンネの話は嘘で塗り固められていた。だがそれは、あなたとて同じ事だ。シスター・テレーズ」
「同じ? 何を言っているの?」
「あなたの話もまた嘘だらけだと、そう言ってるんですよ。いやあなただけじゃない。吸血鬼リンネの嘘、あなたの嘘、そしてサンデー神父のついた嘘。三者三様の嘘が、逆に私を事件の真実へと導いてくれた……!」
マキシはシスター・テレーズを指さして、力強くそう言い放った。
「なん……ですって!?」
シスターの形の良い眉が、ピクリと引き攣った。
「あなたのついている嘘の最たるもの。それは自分の身上だ」
マキシはシスター・テレーズを指さして、そう言い放った。
「身上?」
「そうだ。あらかじめ中央教会にも調べを入れておいたんだ。贖罪教会に派遣された人物……いや、そもそも協会に所属する修道女にも祓魔師にも、テレーズなんて名前は無かった。この世に存在するはずのないシスターを、サンデー神父はいったい何処から呼び寄せたのだ?」
「教会に調べを入れた? おあいにくさまですわ。普通の修道女ならともかく、危険な仕事に携わる祓魔師の名前全てを、教会が教えるはずがないでしょう?」
「なるほど、往生際が悪いなあ……」
澄ました表情のシスターを見て、マキシは肩をすくめた。
「だが、君が本物のシスターで、さっきのリンネの話が全て嘘だとしたって、ゆうぎり町で起こった浮浪者連続変死事件は、厳然たる事実だ。彼らは誰が殺した?」
「殺されたわけではありませんわ。餓死、自然死。警察の鑑定結果もそうなってますわ。でなければ、あの吸血鬼がやったこと……」
「なるほど、全ての責任をリンネに負わせて事件をもみ消す。そういうハラか」
穏やかな口調のマキシだったが、その声は、まるで氷の刃だった。
「だが、彼らの死因はリンネではない。浮浪者の身体からは不審な傷は見当たらなかった。勿忘市警の鑑識も無能じゃない。刺傷も咬傷も、何も無かった。レストン警部補はそう断言したよ」
「どうでしょう。あなたも嗅いだでしょう、アイツの血の香を。吸血鬼は遊び半分で人を殺すといいますわ。あの香りに長いこと当てられたら、わたくしたちだってどうなるか……?」
「たしかに浮浪者たちの死体からは、甘い花の香がしたという。おそらくそれは、あのリンネの血と同じモノだったのだろう。そして、贖罪教会の礼拝堂に微かに漂っていた、あの香ともね……」
「なんですって?」
マキシの言葉に、シスターは初めて戸惑いの表情を見せた。
「彼女は利用されたのだ。君たちとリンネは仲間だった。いや、仲間なんて言葉も使いたくない。互いに悪事を隠し持つ者同士の、互いへの恐怖を鎹にした不穏な運命共同体と言ったところか……」
「私たちと、吸血鬼が仲間? 馬鹿なことを」
「リンネの血は、浮浪者たちを眠らせ、捕えるためにはうってつけだった。私の憶測では、眠らされた彼らは、ある『実験』に使われたのだ。そして『実験場』は教会の地下室……」
「アハハハ! 何を言い出すのかと思えば。全部あなたの憶測ではないですか?」
マキシの言葉に、シスターが堪えかねたようにコロコロと笑いだした、だがその時だった。
「――『魂の座』とは、『来訪者』たちが文字通り自らの魂を封じるのに使用したとされる、神器の中の神器である。彼らはこの器を用いて他者の肉体に自分の魂を転送し、永遠に等しい生命を得た――」
「…………!!」
突然、マキシが諳んじた何かの一文を耳にして、シスターの顏がこわばった。
「――だが現在の我々の魔道工学で、この『御業』を再現するには、決定的な『工程』が不足している。新たな魂の器となる肉体から、肉体の持ち主本来の魂を完全に消去する必要が生じるのである――」
「い、いきなり何を言い出すのです……ミスター・マキシ」
マキシを問いただすシスターの声が、微かに震えていた。
「今年の4月、とある人物が魔遺物に関する学術雑誌に発表した論文の引用だよ。その人物とは私も浅からぬ因縁があってね。彼の著作には一通り目を通すようにしていたんだ。もっともその人物は、2ヵ月前に起きた『トワイライト・エクスプレス脱線事故』の犠牲となり永遠に帰らぬ人となった……。そう思っていたよ。だが……!」
マキシの金色の瞳が、鋭くシスターを射貫いていた。
「シスター・テレーズ。リンネは私に、あなたが教会にやって来た頃から神父は豹変してしまったと訴えていた。だが、その表現は適切ではなかった。存在しないはずのシスターの来訪は、事件の『発端』ではなく『過程』に過ぎなかったのだ!」
「もうこの世にいるはずのその男。さっきの論文の著者こそが、あなたを教会に呼び寄せた者の正体だ。違うかね? シスター・テレーズ、いやミス……『レモン・サウアー』!」
探偵がそう問うなり、存在しないはずのシスターの表情が一変した。
ビュッ! マキシの目前に、いきなり何かが飛んで来た。
「くッ……!」
マキシが、咄嗟に右手で飛来物を払い落とすと、それはさっきまでシスターの右手にあった銀色の拳銃だった。
当のシスターの姿は、既にマキシの視界に無かった。
そして頭上から迫って来る異様な気配に気づいて、探偵は空を仰いだ。
街灯の光を反射してキラキラと瞬いた何かが、マキシめがけて降って来る!
「何を……!」
探偵は降り注ぐソレから咄嗟に身をかわし、右手で振り払ってゆく。
「針か!」
マキシは自身を襲ったモノの正体に気付いて驚きの声を上げた。
石畳に散らばっているのは、長さ20センチ以上もある、鋭い銀色の針だったのだ。
「気付くのがおそいですわぁ!」
「…………!」
耳元でそう囁きかける声に驚いて探偵が振り向けば、目の前に立っているのは、存在しないはずのスター。
マキシがさっき、レモン・サウワーと呼んだ女の姿だった。
そして、女の両手の2指の間から伸びた鋭い針先が、マキシの両目の寸前に突き付けられていた。
「ぐ……掌撃!」
咄嗟にマキシは、女のミゾオチに狙いを定める。
獣人のティゲールを昏倒させた、右手の掌撃を放とうとした、だがその瞬間!
「なにィ!」
探偵は、戸惑いの声を上げた。
ギギギギギ……右手が軋んだ音を立てていた。
腕の、探偵の意思を拒んで思うように動かない。
機械仕掛けの右腕の関節の各所が、おかしな方向に折れ曲がっていた。
いつの間にかマキシの右腕に打ち込まれ、歯車の回転やシリンダーの伸縮運動を阻んでいたのは、さっき探偵が払い落としたはずの何本もの銀色の針だったのだ。
「おせっかいな探偵さん。そして間抜けな探偵さん。このまま目玉を刺し貫いて上げてもいいですけど、あなたには、まだまだ用がある!」
女が、そう言ってニタリと笑うとマキシの眼前から針を引き、探偵の元から飛びすさった。
「『髪飾り』はこの場に無い。探偵も吸血鬼も持っていなかった……屋敷にあったのか。ならば仕方ない……」
自身の指の上で、まるで羅針盤の針のようにクルクル当て所なく回転している、小さな針を眺めながら女はそう呟く。
「探偵さん。本日この日、夜中の12時。例の『髪飾り』……『魂の座』を持って、贖罪教会までいらっしゃい。待っていますわ。ウチでお預かりしている御崎ソーマ君と一緒に……ね!」
女は探偵を指さしそう告げると、身を翻して霧の中へと消えた。
「く……! レモン・サウアー……『針術使い』か! 獣人なんぞより、よほど手強い!」
女の針に貫かれて、ねじ曲がってしまった自身の右手を眺めマキシは忌々しげに鼻を鳴らした。
#
その夜遅く。
表札の無い屋敷に帰り着いたマキシが、再び屋敷の鉄門から外出して暗い路地を歩き始めた、その時だった。
「マキシ……教会に行くつもり?」
探偵の背中から、鈴を振るような少女の声がした。
「……リンネか……」
マキシは無表情のまま、声の方を振り向いた。
立っていたのは、夜の闇を流したような黒髪を揺らした、人形の様な顏の少女。
リンネの姿だった。
「そうだ。御崎ソーマは奴らに捕らえられている、孤児院の子供たちも人質同然だ。行って、彼らを助け出さねば」
「罠よ! 危険だわ。あいつらは、わけのわからない恐ろしい技を使う……!」
「罠なのは承知だ。それでも私は……行かなくてはならない。それにこれは、私が決着をつけるべき因縁でもある。リンネ。この男を知っているか?」
そう答えてマキシがリンネに見せたのは、一人の男の顔写真だった。
厳めしい顔つきに鷲のような鋭い目をした、猛禽のような老人が写っていた。
「……いいえ。知らない顏だわ……」
「そうだろう。だが人となりの一端は君も知っているはずだぞ。この男は『アルバート・ベクター教授』……」
マキシは厳しい表情で、写真の男の顔を睨んだ。
「勿忘大学で教鞭を振るう魔道工学の権威。そして魔遺物研究の第一人者。だが裏世界に回れば、自身で魔遺物を創造すべく、ありとあらゆる非道な人体実験に手を染めて来た狂科学者だ。私も何度も奴の犯罪を追い、だが、そのたびに奴は巧妙に逃げおおせ姿を隠してきた。勿忘市内で起こる魔遺物絡みの殺人の半分は、この男の手によるものだと言われている。まさに犯罪界の大碩学だよ!」
男を見るマキシの目が怒りに燃えていた。
「『トワイライト・エクスプレス脱線事故』に、この男が巻き込まれて死亡したという記事を目にした時、私は巨悪の死に胸を撫で下ろした……と同時に探偵として忸怩たる思いも味わった。奴を犯罪者として裁く機会を永久に失ったのだからね。だが……!」
マキシが声を荒げた。
「私の考えは間違っていた。この男はいまだ生きているのだ。自身の生涯を賭した研究の成果を用いて……。イーラーイ・サンデー神父の身体を乗っ取って! 教会に行く。奴を捕えるのだ。そして今度こそ下すのだ、然るべき裁きをあの男に!」
自分に言い聞かすようにそう呟くと、マキシはゆうぎり町までの道筋を進み始めた。
「だったらマキシ。私も連れて行って。私もソーマを助けないと……」
マキシを追いかけながら、少女は探偵にそう懇願した。だが、
「駄目だ。君は連れて行けない」
マキシの声には、なんの感情も込められていなかった。
「君は彼らの仲間だった。自身の血を使い浮浪者たちを眠らせ、『実験材料』として彼らに引き渡していたな? 代償はなんだ! 君の身の安全か?」
「脅されたのよ! 教会は元々私の居場所だった。サンデー神父が、私を教会に招き入れてくれたの……でも神父は変わってしまった!」
「神父が君を招き入れた? つくならもっと、ましな嘘をつけ!」
リンネの弁明に、マキシの声が震えた。
「教会からソーマを連れ出したのは『人質』にするためか? 『食料』のためか? それとも血を吸い尽くして『仲間』にするつもりだったのか!?」
「ちがう! ちがう、ちがう! あの子は特別だった……!」
マキシの問いに、リンネは悲鳴にも似た声でそう答えた。
「吸血鬼に、人間だった頃の記憶は無いわ。あるのは血と生命への渇望。それに強烈な孤独感だけ。何処とも知れない曠野で目を覚まして、自分が誰だかわからないまま、血に飢えて辺境を彷徨い、草木やリスや野ネズミの命を啜る。その気持ちがあなたにわかる? ようやく見つけた大事な者や、自分の居場所を失う恐怖が、あなたにわかるの? わからないでしょう!」
「…………!」
リンネの叫びは、錆び付いて崩れかけてもまだ回転を止めない、歯車の軋みのようだった。
リンネの問いに、マキシは答えなかった。
ただ憮然と、探偵の背は少女の姿をした吸血鬼を否定していた。
「リンネ。君は悪党どもの企てに加担して、罪もない人たちを破滅させた。そして事態がいよいよマズくなると、逃げ出して私の元にやってきた。仲間を売り自分だけ逃れようとしたな。君には『品格』ってものが無い!」
マキシはやりきれない表情で、リンネを指さし首を振った。
「街を出るんだリンネ。君は人の法では裁けない。そして私も依頼人は殺せない。だから出て行けすぐに。永久に……さよならだ……!」
「…………!」
マキシの言葉に、リンネもまたやりきれない表情で目を伏せた。
探偵の背後で、何かの騒めく気配がした。




