第五十八話 月光、呪術師との戦い
外はすでに闇に沈み、月光だけが戦場を照らしていた。
結界に激突し、地面に叩きつけられた日野介とカナギ。舞い上がった砂煙が静まる頃には、二人はすでに囲まれていた。
黒の法衣を纏った三人の男が、三方に陣を組むように展開している。全身に無駄な動きはなく、手首には黒光りする数珠──ただの法師ではない。呪術師、それも手練れだ。日野介は一瞬でそれを察した。
「カナギ、こいつら呪術師だ」
「だな。空気が歪んでる……長引くと面倒だ。速攻で切り抜けるぞ!」
カナギの低い声に応え、日野介は静かに刀を抜く。月光を弾くように刃が光った
――その瞬間だった。
三人の呪術師が同時に、手を合わせた。
風が止んだ。いや、音そのものが一瞬、途切れた。
日野介の視界が揺らぎ、世界の色が褪せていく。次の瞬間──足元が“ぬるり”と沈んだ。
「なっ──」
視線を落とすと、日野介とカナギの周囲の地面が、波紋のように歪みながら、底なしの泥のように沈み込んでいく。日野介は思う──だが実際には泥など存在しない。ただ、確かにそこにあるはずの地面を、足が捉えることができない。
「幻術……か!?」
カナギの身も沈んでいく。前脚を無理に引き上げようとするが、空を蹴るように足が空回りする。
「チッ……踏み込みが効かねえ」
日野介の体は、すでに半身が沈みかけている。
呪術師の一人が、口元を歪ませて笑った。
その足元には三重の呪符が円を描くように重なり合って並び、そこから蛇のような気の流れが這い出ていた。
「この場は“土籠”の術中。術にかかった者は、土底に沈むが定め」
「土籠、だと……」
カナギは唸り、尾を振って気を拡散しようとするも、術の粘り気が動作を奪っていく。
「このままじゃ……飲まれる……!」
焦燥に駆られるなか、日野介の視線がふと、異様な違和感に吸い寄せられた。
(……あれは……)
呪術師たちは、両手で印を結んだまま、黒曜石のように黒光りする数珠を中指で操るようにゆっくりと回している。だが、そのうちの一人。カナギの背後にいる一人の動きと術の歪みが、わずかに同期していた。
日野介はそっと気づかれぬよう、刀の鍔を外した。それは、飛賀の里の猿翁から託された、妖術・呪術を防ぐ効果のある鍔。日野介は袴の内側に結んでいた細紐を素早く解いて、鍔に結び付ける。
(試すしかねぇ……!)
狙いは――あの男の数珠。
「カナギ、伏せろ!」
日野介は叫ぶと同時に、鍔を投げた。
紐に結ばれた鍔が、夜気を切り裂いて放たれる。鍔は、カナギの頭をかすめて、カナギの背後にいた呪術師の数珠に命中した。
パキンッ!
甲高い音とともに数珠が砕け散った。同時に地面に走っていた呪符がバラバラとほどけていく。術の効果が弱まったのか、カナギと日野介の足の感覚は、地面をとらえ始めた。
「なっ……!?」
呪術師が目を見開く間もなく、日野介は片足で地面を蹴った。半身で前に躍り出る。
一閃。
呪術師の印を結ぶ手を斬り払った。呪術師はよろけながら地面に膝をついた。
「今だ、カナギ!」
「へっ、任せとけよ!」
術の効果が切れたのを感じたカナギが、踏み込んだ足で一気に跳ねた。その白銀の巨体が宙を裂く。咆哮とともに突進し、二人目の陰陽師に正面から体当たりをかます。
ドンッ!!
陰陽師は吹き飛ばされ、地に転がった。
三人目が恐怖にかられつつ後退し、再び印を結ぼうとする。
しかし──。
すでに、日野介の刀が肩口をかすめていた。致命傷ではない。だが、その一撃は確実に、術の流れを断ち切っていた。
呪術の気配が霧のように消えていく。地面の歪みも完全に収まり、空気が澄み返ったように静かになる。
黒衣の呪術師たちは三人とも倒れ、二人は意識を失い、残る一人は膝をついたまま荒く息を吐いている。
日野介はゆっくりと刀を納め、息を整える。日野介が顔を上げたとき、白い仮面の男と異国の衣を纏った二人の男が貴子とコモリを連れ、ゆっくりと石段を登っていく姿が、闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
◆
一方、その頃、森の中――。
宵乃の心臓が、激しく脈を打っている。
(失敗……っ!)
まさか、結界自体は貴子とコモリとともに動いた。それによってカナギと日野介は結界に弾かれた。奇襲は防がれ、敵に位置を知られてしまった。宵乃たちにとっては、最悪の展開だった。
だが、すぐ傍らの塔子は、もう落ち着きを取り戻していた。
「こちらに気づかれましたね……」
塔子の瞳は、仮面の男たちを冷静に見据えている。
「……でも、いまの衝突で分かりました」
宵乃が塔子を見る。
「え?」
「この結界──私たちの作る霊的な結界とは違います。物理的な障壁としても機能している……つまり、気と物質の両方に干渉できる性質です。あの妖狐カナギが正面からぶつかって弾かれるほどの強度です。おそらく、気と金属の鎧のような複合結界界……」
「確かにそうね。私たちの結界とは違う」
「逆に言えば──物理的な力でも、壊せる可能性があるかもしれません。無論、私たちの結界術の助けも必要になります」
塔子は唇を引き結び、目を細めた。
「どこかに弱点はないかしら」
「ええ。すでに弱点は見つけています」
「えっ?」
宵乃はまた驚いた。
「私が、ではありません。貴子が。先ほど、カナギが結界に弾かれた瞬間。皆がそちらに注目しているとき、貴子の唇が動きました。まるで私がどこかで見ているのかを知っているように」
宵乃はごくりと息を呑む。
(いつの間に……)
「貴子様の口の動きを読み取ったの?」
「ええ、双子なので。お互いに意図していることはわかります。貴子が示したのは、結界の“頂点”です」
塔子はそう言って、指を差した。宵乃はごくりと息を呑み、塔子とともに森の中から、結界の頂点を見た。
――コモリと貴子を包む紫色の結界は、巨大な逆さまのお椀の形状をしている。その“頂点”──自然に光が集中する場所に弱点があると、一瞬の隙を得て、貴子は伝えたのだ。
しかし、彼女たちがいる場所と牛車の距離は遠い。カナギなら一飛びだが、塔子と宵乃が辿り着くには数分はかかってしまう。
「まずはあそこまでいかないといけない」
そのとき、宵乃の背筋に、ひやりとしたものが走った。
──白い仮面の男と、目が合った気がしたからだ。
白い仮面の男は森の方をひと目見やると、何の感情も見せぬままくるりと背を向けた。そして、異国の衣を纏った二人の男と、縄で縛られたままの貴子とコモリを伴って、鳥居の前へと進む。
立ち止まり、仮面の男が、静かに右手を掲げた。
その動きは、かつて都の結界を切り裂いたときと同じ──虚空をなぞるように手をすっと動かすと、鳥居の結界が薄く揺らめいたように見えた。
男たちは、そのまま階段を登り始めた。
貴子とコモリの身体を包む薄紫の結界も、空気を押し分けて移動していく。
「……頂上まで連れて行く気ね」
塔子が胸元に手を添え、静かに言った。
「もう、待っていられません。行きましょう」
森から、鳥居までは何も遮るものがない原っぱだ。移動の危険を伴う。宵乃は息を整え、決意を胸に刻んだ。
「宵乃殿。できれば使いたくはなかったのですが──」
そう言って、塔子が懐から取り出したのは、一羽の白いカラス。剥製のように動きはないが、その目だけがかすかに動いている。
──あの千影神社で見たものと同じ白いカラス。
「私が術をかければ、この白いカラスは大きくなります。宵乃殿を背に乗せて運ぶことも可能でしょう。ただし、術を維持する必要があるため……私はここに残ります。宵乃殿に危険を背負わせるのは心苦しいのですが……」
「大丈夫。行くわ」
宵乃は静かに、だが力強く答えた。
「わかりました。紫の結界には、宵乃殿の作った結界をぶつけてください。結界と結界を衝突させれば、霊力が相殺され、一定時間だけ弱まるはず。その隙に、頂点へ一撃を──そこが弱点です」
「失敗すれば、全員捕らえられてしまうかもしれません」
「でも、成功させるしかないわ。信じて」
宵乃の瞳に、揺るぎない意志の光が宿る。
塔子が手を翳すと、白いカラスの体が、光を吸い込むように膨らみ始めた。その翼が宵乃の運命を運ぶかのように、静かに広がっていく。




