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第五十五話 秘密の地下道

 内裏の中──千星家の庵。


「お母様、行ってまいります」


 塔子が寝台に横たわる聖子へ向け、膝をついて深く頭を下げた。聖子はゆっくりと目を開け、かすかに瞬きをしながら娘を見上げた。そのまま呼吸を整えるように小さく息を吐き、細い唇をそっと動かす。


「……気をつけて……必ず帰ってくるのよ」


「はい。必ず……」


 塔子のまなざしがわずかに揺れた。涙を堪えるように、そっと瞬きをひとつし、静かに立ち上がる。


 少し離れた場所から、その姿を見つめていた宵乃の胸に、熱いものがこみ上げた。


 ──塔子の小さな背に、千星家の重き責務が確かにのしかかっている。


 それでも一歩も引かず、毅然とそれを受け止める塔子の姿に、宵乃は言葉にできない敬意を抱いた。





 庵の外に出ると、庭は昼下がりの静けさに包まれていた。白と赤の花に蝶が舞う。池に風はなく、鯉が優雅に泳いでいる。


 その静寂の中で、カナギの身体が淡い光を帯び、瞬く間に巨大な妖狐の姿へと変わる。白銀の毛が陽光を受けて輝く。鋭い牙と赤い瞳が、周囲の穏やかさとは不釣り合いなほど、威圧感を放っていた。


「みな俺の背に乗れ。一気に牛車に追いつくぞ」


 カナギは低く吼えた。


 宵乃は日野介に手を取られ、背中へと乗り込む。カナギの毛皮は固いがなぜか安心感がある。さらに、塔子が日野介の手を借りてその背に乗った。


「では、元の場所へ戻るぞ」


 カナギは九つに分かれた尾を大きく揺らす。


「いいえ」


 カナギの背に乗った塔子が、すかさず口を挟んだ。


「どうしてだ? このまま真っ直ぐ戻るほうが早いだろう」


 カナギは頭だけ振り返って、不満げに問い返す。


「道継が千代田殿を殺した今、都は騒然としているでしょう。警備も強化されているはずです」


 塔子の言葉に、カナギはふんと鼻を鳴らす。


「確かにな……」


「”黒衣のもの”たちの目もあります。彼らに私たちの存在を知られたくはありません。内裏から都の外へ抜ける秘密の地下道があります」


「秘密の地下道?」


 日野介が問う。


「ええ。非常時に帝が逃げるために作られた抜け道です」


 カナギは鼻を鳴らした。


「わかったよ。言う通りにしよう。帝のための道を妖狐が通るとはな、妙な巡り合わせだな……」


 塔子はゆっくりと頷く。


「あちらです」


 塔子が指差した先には、淡い光が庭を横切り、池の橋を渡って小山へと続いている。


「母が用意した光の道を進んでください」


 カナギは頷き、音もなく駆け出した。


 間もなく、小山の麓に苔と蔦に覆われた古びた鉄の扉が姿を現した。重たげな鉄の表面は赤錆に染まり、蔦が絡まっている。淡い光は、ちょうどその扉の前で静かに途切れていた。


「焼くぞ!」


 カナギが炎を吐き、蔦を焼き払う。そして、塔子が術を唱えると、重い音を立てながら扉がゆっくりと開いた。


 その先は濃密な闇だった。


 地下道は予想外に広く、ひんやりと湿った空気が頬を撫でる。カナギが慎重に踏み出すと、地面の砂利が微かに軋んだ。


「私の術で明かりをつけましょう」


 塔子が言ったが、カナギは短く笑った。


「俺に明かりは不要だ。ずっと闇の中で生きてきたからな」


 暗闇の中、緩やかな坂を下っていく。


「思ったより広いな」


 日野介が声を漏らした。


「帝が馬車で通ることも考えてありますから」


 塔子が穏やかに答える。


「みなしっかり掴まれ。速度を上げるぞ」


 カナギの低い声が響くと、カナギは駆け出した。風が一気に強くなった。闇の中を猛烈な勢いで進み、宵乃は目を開けられない。髪が乱れて顔に絡まる。


 「宵乃、怖いのか?震えているぞ」


 日野介が宵乃に問いかける。


「ええ……だって、私たちの行動がこの国の運命を決めるなんて……」


「お前だけに背負わせる気はない」


 日野介は静かに笑った。その言葉が宵乃を少しだけ安心させた。


 ふと横を見ると、塔子がすぐそばで微笑んでいる。宵乃はその手を無意識に握り締めた。


 宵乃の腰の青い鈴が急に震え始める。


「近い!」


 宵乃が叫ぶと同時に、カナギが速度を緩めて急停止した。


 目を凝らすと、目の前には、さっきと同じような重厚な鉄の扉がある。


 カナギが一歩近づくと、塔子が再び、術を唱えた。その声に応えるように、鉄の扉がぎぎ……と鈍い音を立てながらゆっくりと開いていく。


 その隙間から、まぶしい光が一気に流れ込んできた。宵乃は思わず目を細めた。光に包まれた外の景色に目を馴染ませていく。やがて、木々のざわめきと土の匂いに気づいた。


 そこは、木漏れ日が柔らかく差し込む静かな森の中だった。枝の隙間から陽光が斑に地面を照らしている。


 静かだ。鳥のさえずりの声さえしない。


 「……どうやら着いたようだな」


 カナギが低く呟いた。


 宵乃は頷く。湿った土と苔、風に揺れる葉の匂いが混じり合い、鼻をくすぐる。だが、その奥に、微かな殺気が混ざっている気がした。


 腰の青い鈴は、リン……リン……と、強く、断続的に震えている。


 (鈴の震えが強い。牛車はすぐ近くにいるはず……)


 「いよいよ……最後の戦いか」


 日野介の声が、すぐ耳元で静かに響いた。


 ふと、カナギが森の奥を見据えて呟く。


 「……木々の向こうに見えるな。あれが、常世山とこよやまか?」


 木々の隙間から覗くのは、なだらかな円錐形の山影だった。


 これまで積み重ねてきたすべてが、この先にある戦いに繋がっている──宵乃はそっと腰の鈴を握りしめた。



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