第四十九話 血と刀、因縁を断つ光
内裏の外、南西角の塀沿い──。
巨大な妖狐と化したカナギは、風を巻き上げて一飛びで牛車のそばへと着地した。土埃が立つ中、その背から宵乃と日野介が飛び降りた。
宵乃の目が、牛車の上の塀に釘付けになった。
「……!」
一見、結界は無傷に見えたが、空間にかすかな歪みがあった。都の結界のときと同じ、見覚えのある切り裂き跡──。腰元の鈴が、共鳴するように不穏な音を立て続けている。
(やはり……ここでも……!)
牛車の前には、黒い烏帽子の男が二人と白い仮面の男が立つ。だが慌てる素振りはない。その周りを取り囲んだ黒装束の忍びたちは、鋭い視線で宵乃たちを睨む。
巨大化したカナギは、牛車を見下ろす。白銀の尾は九つに分かれており、風車が回るようにして動いている。青い炎のように、瞳は静かに燃えている。剥き出しになった牙と赤い舌は、かつて百人以上の人間を喰らった妖狐の姿そのもの。だが、白い仮面の男は微動だにしない。
カナギは、獣が獲物に飛びかかるように、牛車へ跳んだ。すると、白い仮面の男は空を撫でるように手をかざした。
「カナギ、奴が結界を張った!」
宵乃の声が鋭く響く。宵乃の目には、歪んだ線が世界を切り裂き、空間そのものを折り曲げるように結界が出現する様が見えた。それは、宵乃が作る結界とは全く異質なものだ。
「邪魔だ……!」
カナギが唸り声を上げ、前足を振り下ろした。爪が結界に触れた瞬間、まるで柔らかい幕のように弾かれた。──その結界は、物理の力をもろともせず、強固に牛車の周りの空間を守る力を持っていた。
宵乃は胸元で神紡を掲げ、結界の微細な綻びを探した。神紡の先端が淡い光を帯び、細い光の刃が弓なりに伸びる。
「ここしかない……!」
光の刃を結界へ向けて放つ。鋭い閃光がる。その刃は結界に触れた瞬間──結界に吸い込まれるように消失した。不協和音を響かせただけで、結界には何の影響も与なかった。
カナギは、再び巨大な前足を振り下ろした。だが、爪が結界に触れた瞬間、柔らかい膜に衝撃を吸い取られるように力を逃され、再び跳ね返された。
「チッ……!」
悔しげに唸り声を漏らし、カナギは一度後ろへと身を引いた。その隙を狙い、忍びたちが一斉に動く。素早く飛び出し、宙から手裏剣を宵乃たちめがけて放った。鋭い音を立てて空気を切り裂く。
カナギの白銀の毛皮は、手裏剣を全て弾く。日野介は素早く前に出、刀を振るってすべての手裏剣を弾き落とした。跳ね返る金属音が辺りに響き、火花が散った。
続けて、忍びたちが間合いを詰める。呼吸を合わせるようにして、先頭の二人が刀を持って斬りかかってきた。
「……来い!」
日野介は切っ先を翻し、二人を一瞬で切り伏せた。宵乃に飛びかかる影をも横薙ぎの一閃で弾き飛ばした。
「宵乃、ここは俺が防ぐ!牛車の結界をなんとかしろ!」
「わかってる……!」
宵乃の神紡が淡く光を放つが、結界はびくともしない。白い仮面の男が結界越しに声を発した。
「もうお引き取りを」
その声は冷たく、微笑みさえ含んでいた。耳元で囁かれるような錯覚に、宵乃の背筋が震えた。
「まだよ……破る……!」
カナギが再び力を込め、爪を結界に叩きつけた。鋭い光が走り、結界に小さな亀裂が走る。しかし、その反動でカナギの巨体が弾き飛ばされ、地面に激突した。その拍子、カナギの体は輝きを失い、元の小さな白狐に戻った。
「カナギ!」
宵乃は叫び、駆け寄ろうとした。しかし、結界の反響波に巻き込まれ、宵乃の体は吹き飛ばされて地面に叩きつけられた。宵乃の視界がぐるりと回り、土の匂いと血の鉄臭さが鼻を刺した。
「宵乃……」
日野介が駆け寄って、宵乃を抱き起こした。宵乃の唇に血が滲み、両手と両膝が擦りむけている。「くそっ!」日野介が、白い仮面の男を睨みつける。
そのとき──。
黒装束をまとった忍びの一人が、無言で装束を脱ぎ捨てた。現れたのは、頬に深い傷跡を持つ男。手には紫に輝く異様な刀を握り、冷たく宵乃と日野介を見下ろした。
「貴様は……!」
日野介の瞳に驚愕が走る。過去の記憶が脳裏をかすめた。因縁の相手、あの男──。
「日野介、私は大丈夫……」
宵乃が、震える声で言葉を重ねる。
「……あの男を止めて、必ず!」
その声に、日野介はハッと我に返った。日野介は宵乃を支えていた手をそっと離し、ゆっくりと立ち上がった。そして、愛刀を構える。猿翁から譲り受けた、猿の彫りがある鍔が装着してある──刀身は陽光に煌めき、鍔が黒く光る。
頬に傷を持つ男は、無言のまま唇の端をわずかに吊り上げた。その笑みは挑発的で、余裕すら感じさせた。
再び相まみえる──頬に傷を持つ男と。
「……もう負けるわけにはいかない」
日野介は深く息を吐く。
男は容赦なく、間合いを詰めてきた。紫の刀が鋭く閃き、空気を裂いた。日野介は咄嗟に後方へ跳び、最初の一太刀をかわす。
(普通にやり合えば勝てない……)
男は隙を逃さず、紫の刀の切っ先を日野介の顔へと向け、追撃する。日野介は再び後ろへ飛び、距離を稼いだ。だが男はさらに追い詰め、横薙ぎに刀を払ってきた。
(読めない……!)
一瞬、避けたつもりだった。だが紫の刀の軌道は不規則に変化し、日野介の横腹をかすめ、切り裂いた。鋭い痛みが走り、血が滴った。
(……まだかすっただけだ)
痛みに顔を歪めながらも、日野介は冷静さを保つ。あの不規則に動く紫の刀……正面から刀で受けても、弾かれてしまう。日野介の狙いは、鍔で受けること。猿翁の鍔は「妖」と「邪」を無効化する力を持つ。あの邪刀を鍔で受け止めることができれば……。ただし、一瞬でも受け間違えれば、即死。
(やるしかない……)
日野介は腰を低くし、刀を引き絞り、地を蹴った。姿勢を極限まで低くして男の足元を狙う。鋭い斬撃で男の袴を裂いたが、足には届かない。日野介の刀をかわした後、男は紫の刀を振り上げ、日野介めがけて振り下ろした。
(ここだ!)
日野介は低い姿勢から相手の刀に合わせるように、鍔で紫の刀をかち上げた。
──ガキン!
金属の衝撃音が響き、紫の刀は跳ね返され、男の体勢が崩れた。紫の刀身の色が徐々に変わり、毒々しい光が消えていく。灰色へと褪せ、鋭さを失った。
(よし……!)
邪気を失ったその刃にはもはや力がなかった。日野介は歯を食いしばり、怒号とともに力を込め、男の刀を押し込む。ついに、刃は男の肩口に深く食い込み、そのまま首筋まで滑り上がった。
──ザクリッ。
鋭い音が空気を裂き、血飛沫が舞った。男の首が胴から離れ、無力に地面へと落ちた。日野介は深く息を吐き、血に濡れた刀をゆっくりと下ろした。自分の心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いて聞こえる。
「日野介っ!」
宵乃の声に、日野介はゆっくりと顔を上げた。ようやく……倒した。日野介は唇をわずかに引き結び、じっと男の亡骸を見据える。
その時、わずかに衣擦れの音がした。宵乃が牛車の方に目を向けると、白い仮面の男が人差し指をゆらりと揺らして合図を送った。それに応じて、結界をまとったまま、牛車がゆっくりと軋みを立てて動き始めた。黒い烏帽子の男たちと、白い仮面の男は、宵乃を一瞥しただけで、感情を見せることもなく、音もなく牛車に乗り込んだ。
牛車は、北へ向かって静かに加速し、宵乃たちから離れていった。




