第四十四話 絶体絶命、反撃の糸口
──信蓮寺、本堂前庭。
宵乃は背後から茂吉に首筋へ小刀を当てられ、動けずにいる。日野介とカナギは鎖で拘束され、完全に身動きが取れない。
絶体絶命──
宵乃には、この状況をくつがえす手段が思い浮かばなかった。
(でも、ここで終わるわけにはいかない……。私には仕事が残っている)
その瞬間、低く野太い男の声が空気を裂いた。
「猿の坊主……大きくなったな」
どこからか、大柄な男が飛び降りてきた。淡い緑の着物を羽織り、無精ひげをたくわえたその男は、宵乃と茂吉の前にひょいと立った。宵乃はその男の顔を見上げる。
(知らない男だ……)
白髪混じりの髪を紐で束ね、顔に刻まれた皺は深い。
「い、犬飼膳左……!」
茂吉が驚愕の声を上げる。
「なぜ、貴様が。死んだはず……」
犬飼は肩をすくめ、ふっと笑った。
「色々あってな、都で捕まっていた」
周囲の忍びたちが、一斉に刀を向けた。
「犬飼!動くな!この女がどうなっても構わんのか!」
犬飼は、茂吉のその言葉を気にする様子もなく、ふらりと宵乃に近づいた。
「知らないな」
犬飼は歩きながら飄々と答えた。
「舐めるなっ!」
茂吉が叫ぶ。茂吉の手に力がこもる。
宵乃はぎゅっと目を閉じた。
「なっ……!」
しかし、茂吉は驚いた声を出した。
宵乃の首筋に当てられた小刀は、いつの間にか木の枝に変わっていた。
動揺した茂吉の隙をついて、宵乃はしゃがみ込み、素早く茂吉の腕から逃れた。ざっと数歩離れ、振り返る。
「お前らも、自分の刀をよく見ておけ」
犬飼が軽く指を鳴らすと、空気がゆらりと揺れた。忍びたちが握っていた刀や小刀、鎖鎌が、一瞬にして木の枝に姿を変えた──。
「おのれ……。なぜ、邪魔をする?」
茂吉は、サッと後ろに跳び、犬飼との距離をとった。
「ふ、ちょっと頼まれてな。茂吉……降伏しろ。俺に勝てると思うか?」
茂吉は怯まず、素早く印を結び始めた。だが、うまく指が動かない。
茂吉の両手には、いつの間にか木の根のようなものが絡みついていた。
「くそっ……!」
茂吉は手のひらに炎を灯し、木の根を焼いた。しかし、その動きに合わせて、犬飼の低い声が響いた。
「おっと。次、何か術を使えば、宣戦布告とみなすぞ」
犬飼は片手を掲げ、場を制するような鋭い視線を放った。
茂吉はそれでも構わず印を結ぶ。途端に、茂吉の体から黒い靄が溢れ、庭全体を覆い尽くした。
「逃げる気だぞっ」
と日野介が叫んだ。
犬飼は飄々としたまま手を打ち鳴らした。
パンッ!
次の瞬間、黒い靄は跡形もなく消え去った。
「……さて」
犬飼は再び場を見渡し、ゆったりと声を掛けた。
「おい、剣士と狐。お前らも早く手伝え」
日野介とカナギを縛っていた鎖が、いつの間にか藁に変わっていた。日野介はその変化に驚きつつも、両腕を軽く広げると、藁はぱらりと崩れて地面に落ちた。素早く身を翻し、近くに転がった自分の刀を拾い上げる。
「誰だか知らないが……助かった」
カナギも身をひねり、体に絡んでいた藁を鋭い歯で噛み切ると、軽い身のこなしで宵乃の横に戻ってきた。白狐の青い瞳が、油断なく辺りを見回す。
犬飼は口元に淡い笑みを浮かべた。そして、静かに茂吉に尋ねた。
「……さあ、どうする茂吉。続けるか?」
犬飼が一歩近づくと、茂吉の顔が歪み、その体が力を失ったように前のめりに崩れた。
ドサッ──。
地面に倒れ込んだ茂吉の顔は赤黒く腫れ上がり、口元から血がにじみ出していた。
「……奥歯に仕込んだ毒か」
犬飼が低く呟いた。だが、犬飼が手を伸ばした瞬間、茂吉の身体がぼやけ、霧のように消えた。
「分身の術か──どこかで本体とすり替わってやがったな」
犬飼が忌々しげに舌打ちした。その瞬間、四方を囲んでいた忍びたちが一斉に散り散りに逃げ去っていく。
境内に残されたのは、犬飼と日野介、宵乃とカナギの四人だけだった。宵乃はまだ緊張の解けない表情のまま、犬飼に視線を向ける。
「あなたは一体……?」
犬飼はわずかに口元を緩め、ゆっくりと肩をすくめた。
「荒賀忍びの元頭領、犬飼だ。訳あって今は別の身分だがな。千空の旦那に頼まれて、茂吉と紫の刀を持つ剣士を追っていた」
犬飼の目が一瞬鋭さを帯びる。
「旦那から話は聞いている──千鳥家の当主、宵乃殿だな」
宵乃はこくりと頷いた。
そのとき──。
リン、と澄んだ音が響いた。宵乃の身体がピクリと反応する。
「……この音は……」
宵乃の鈴は、結界の乱れや、”妖”の気を感じ取ると鳴る。今の音は、結界の乱れを告げるもの。
──内裏の結界に、何か異変が起きている!
(まさか、仮面の男……?黒衣のものたちは本堂にいるはず……!)
宵乃は息を呑み、そして声を張り上げた。
「本堂に入るよ!」
「正面突破だな」
犬飼が口元を吊り上げ、愉しげに言った。
日野介も短く頷いた。
そして、日野介と犬飼が、同時に本堂の正面扉に体ごとぶつかった。
ドーン!
扉が勢いよく開き、埃が舞い上がった。
しかし、そこには──誰もいなかった。
静寂だけが、重苦しく宵乃たちを迎える。
「どういうこと……?」
宵乃の呟きが、広い本堂の中でむなしく響いた。
「どこに消えた……?」
日野介が刀を握りしめ、辺りを見回す。
リン──
再び、宵乃の腰で鈴が高く澄んだ音を響かせた。
「……内裏の結界が乱れている……!」
宵乃は鋭く息を呑み、はっと顔を上げた。
「内裏へ急ぐよ!」
迷いのない宵乃の声に、犬飼は唇を歪めてにやりと笑った。
「いいだろう。退屈しない一日になりそうだ」
宵乃の呼びかけに頷いた二人と一匹は、素早く身を翻し、内裏へ向けて駆け出した。




