第三十七話 千代田信勝と”黒衣のもの”
──都、南の大門の外。
都でもっとも大きな正門。その門前には、はるか遠くまで人々の列が続いていた。
空はよく晴れ、白い雲が風に流されていた。朝というにはやや遅い時刻──日が高くなり、柔らかな光が街道を照らしている。乾いた土の路面は、人の足で踏み固められ、ところどころに草の根がのぞいていた。
街道のはるか先、小高い山々が重なり合う中──ひときわ目立つ峰の頂に、黄色と黒の千代田家の旗が何十本も掲げられていた。その周囲には、槍や甲冑が日差しを反射してきらめき、いくつもの陣幕が張られているのが、遠目にもはっきりと見える。そこが大軍を束ねる本陣であることは、一目で明らかだった。
街道沿いには、槍を携えた京極家の兵たちが、寸分違わぬ間隔で整列している。その外側には、見物に集まった都の人々の波。
腕を組んで最前列に座る商人、華やかな着物に身を包んだ町娘、肩車の上で揺れる子どもたち──そして、仕事の手を抜けてきたのか、天秤棒を肩にかけた物売りまで──年齢も身分もさまざまな人々が、いまかいまかと街道の先を見つめている。
昨夜までの静けさが嘘のように、そこは熱気と期待に包まれていた。
もちろん、皆の期待の先にあるのは、ただ一人
──千代田信勝。
三年のうちに六つの大名を倒した男。いま、最も勢いのある若き武将。
その千代田が、初めて都を訪れ、帝と謁見する。
都の人々は、その姿を一目見ようと押し寄せていたのだ。
◆
宵乃は、群衆の中に紛れて、じっと様子をうかがっていた。
化粧を施し、唇に紅を引いた顔には、いつもの面影はほとんど残っていない。薄桃色の小紋には金糸で菊花の刺繍が施されている。町娘が好むような高く結い上げた髪。いずれも、千空照雅が侍女に命じて用意させたものだった。
宵乃がいつも身につけていた母の形見である青い鈴と、赤い宝石の簪は、外からは決して見えないよう、着物の内に丁寧に仕舞い込んだ。
この変装には日野介ですら一瞬気づかず、目を見張ったほどだ。
宵乃の役目は、都を覆う結界、そして内裏に張られた結界──その両方の「音」を聴くことだった。
宵乃は、結界の歪みを音として感じ取ることができる。わずかな乱れであっても、その響きは宵乃の耳にはっきりと届く。それは、結界が破られる兆しをいち早く察知できるということでもあった。
だがその力ゆえに、宵乃は”黒衣のもの”たちにとって、最も警戒すべき存在でもあった。
宵乃の故郷が襲われ、家族を失ったこと。茂吉が宵乃を殺そうとしたこと。それらは、宵乃の一族の力が敵にとっていかに脅威であるかを如実に物語っている。
宵乃の顔は、すでに“面が割れて”いる。
だからこそ、宵乃は変装し、群衆に紛れるという手段を選ばざるを得なかった。もちろん、それは危険を伴う行動だった。日野介は強く反対したが、宵乃が押し切った。
(……日野介が、どこかで見ていてくれるはず)
日野介もまた、変装して群衆の中に紛れている。だが、宵乃にはその居場所は分からない。互いに目を合わせたり合図を送ったりすれば、敵に悟られるおそれがある。
だからこそ、宵乃は日野介が今どこにいるのかを知らされていない。だが、彼がどこかで自分を見守っている──その確かな気配だけは感じていた。日野介が背中を支えてくれているいうことが、何よりの心強さだった。
やがて、ざわめきが高まり、遠くから歓声が上がった──
軍勢の影が、ゆっくりと近づいてくる。
道の彼方から現れたのは、旗印を掲げた歩兵の列。黄色の地に黒い三日月が三つ縦に並んだ千代田家の旗印。そして、その後方には、黒漆の鎧に金の装飾を施した騎馬武者たちが続いていた。
物々しい雰囲気があたりを覆う。その威容に気圧されたのか、さっきまでざわめいていた群集は息を呑むように静まり返った。
そして、黒馬に乗る一際目立つ人物──
千代田信勝。
黒漆の鎧には金の紋が輝き、兜には三日月を模した大きな飾りが据えられている。
だがい、宵乃が思い描いていた“剛の者”とは、まるで違った。小柄で、細身。肌は白く、顔立ちは整っていて、どこか儚げな印象すらある。むしろ、筆を持つ文人のような雰囲気──だが、その目は、まっすぐに前を射抜くような、鋭く澄んだ眼差し。
信勝の隣には、まるで山から抜け出てきたかのような巨躯の男がいた。頭には鹿の角を模した異形の兜。大きな槍を片手で軽々と構え、視線だけで群衆を黙らせるような睨みを利かせていた。
──そして。
その後方に続く、一団。
彼らは明らかに武士ではなかった。全員が黒い法衣に身を包み、その姿は妙に静かで、生気が感じられない。ただそこにいるだけなのに、周囲の空気がゆらりと歪んで見える。
──まるで、彼らのまわりだけ霧が立ちこめているかのように。
宵乃の目には、確かにそう映った。
白馬にまたがる異国人たち。肌は白く、鼻は高い。首から十字架の飾りを下げている。その後ろには烏帽子を被った男たち、さらに最後尾には異様な白い仮面をつけた一人の男がいた。
──“黒衣のもの”たち。
(まさか、これほど堂々と姿を現すとは!)
宵乃は驚いていた。今朝、宵乃たちは、彼らは隠れて都に忍び込むんじゃないかと話し合っていた。だが現実には、千代田の軍勢の後ろにつき、衆目の中、都へ入ろうとしている。
白い仮面の男──その姿を目にした瞬間、宵乃の背筋に冷たいものが走った。思わず呼吸を忘れる。ぞくり、と皮膚の奥が粟立つ感覚。
あれは……岩村城の城下町で見た、あの男だ。
ただ見るだけで、体が拒絶する。記憶の奥にこびりついた、不快で禍々しい気配。
そのとき、着物の内側──胸元に忍ばせた鈴が、かすかに震えた。
“妖”に反応するはずのその鈴が。
だが、あれは妖ではない。
……それに近い。だが、もっと得体の知れない、異質な何か。
鈴の音が小さく、執拗に警告を鳴らしていた。
(あの者たちが、都に入れば──)
宵乃は思わず息を呑む。
彼女の務めは、千代田の軍勢が正門を通過する瞬間、結界に何らかの異変がないかを確かめること。
都の結界は、門と塀に沿って張られている。
それは見たことのないほど強力な六層構造で、妖や邪なるものを通さぬとされていた。宵乃がこれまで見てきた結界が布一枚ならば、これは分厚い鋼の鎧のよう。
──簡単に破れるはずがない。
そう思っていた。
軍勢の先頭が門を通過したとき、門の内側から歓声が沸き上がった。兵士たちは次々と、何の抵抗もなく門を越え、中へ入っていく。
そして──千代田信勝も。
異国の者たちが門へと差しかかる。一瞬、彼らが見えぬ結界に弾かれたように見えた。
が、そのとき。
最後尾にいた仮面の男が、軽く手を振った。
すると、何事もなかったかのように、黒衣の集団は門を通過していった。最後に門を通るとき、仮面の男が振り返った。そして、宵乃の方をチラリと見た気がした。
その瞬間、宵乃の鈴がはっきりと鳴った。
まさか──結界に何かが起きたのか?
だが、ここからでは見えない。
都の南門。
千代田の軍勢がすべて門から都に入った。群衆も騒ぎの余韻に背を押されるように、ぞろぞろと中へ流れ込む。京極家の兵たちが「走るな」と声をかけるも、人々の勢いは止まらない。
宵乃もまた、その波に混ざりながら進み、門の前で立ち止まった。背後から押し寄せる人波に倒れそうになりながらも、宵乃は門を見上げる。
なんと……
──結界が、裂けていた。
まるで鋭利な刃物で切り裂いたような、一直線の亀裂。門の中央。そこだけが明らかに破られている。宵乃の感覚が、それをはっきりと捉えていた。
腰の鈴は、止むことなく警戒を告げていた。
(まさか……)
仮面の男が、結界を切った──?
最強と謳われる都の結界が、かくも容易く破られるとは。
(……予想だにしなかった)
そのとき。
ぽん、ぽん、と肩を叩かれた。
宵乃は、はっとして身を引き、振り返った。
そこには、老夫婦が立っていた。
「宵乃さん、驚かせて悪かったな」
にこりと笑ったその顔には、見覚えがある。
──千影神社の、狸の夫婦だ。
「ほほほ……ヨリ様に頼まれてな、様子を見に来たのじゃよ」
奥方がにこやかに笑いながら言い、続けて隣の旦那が口を開いた。
「にしても──”黒衣のもの”たちは正面から都に入りよったか。まったく……大胆不敵もいいところじゃ」
宵乃は声をひそめた。
「……結界が……切り裂かれています」
その言葉に、狸の旦那の目が細くなった。
「ふむ……やはり、そうじゃの。“黒衣のもの”の中に結界を壊す奴がいる。まさか都の結界まで……」
「結界を早く修復しないと。でも……私の力だけでは、何日かかるか……」
宵乃が俯くと、狸の旦那はふっと表情をゆるめた。
「心配するな。ここは我らが何とかしよう」
「でも、それじゃ……」
「心配なさるな。ヨリ様も、そう言うじゃろう」
そう言いながら、狸の旦那はにっと笑い、続けた。
「宵乃殿。そなたは中へ向かうがよい。それと──この狐を連れていきなされ。きっと役に立つ」
「……え?」
戸惑う宵乃の目の前で、奥方の袂から、小さな白い狐が顔を覗かせた。人形のように整った顔立ち。ふわふわの尾が、ふうっと揺れる。
「この子はカナギじゃ。器を換えて、今はこの姿になっておる。結界が破れておる今なら、”妖”のものでも都へ入れる」
狐は何も言わず、ふわりと宵乃の肩へと飛び乗った。
宵乃は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
風が吹き抜ける。宵乃は正門の結界の裂け目から、ふたたび都の中に入った。裂けた結界の断面が、かすかな音を立てて、宵乃の耳を撫でた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今話から、いよいよ都編・後編に突入です。
ついに──
千代田信勝、そして“黒衣のもの”が、その姿を現しました。
結界の異変。静かに動き出す陰謀。そして、宵乃の決意。
物語は、いよいよ核心へ──。
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