第二十五話 音のたわみ、忍びの合図
これまで、それは見事なまでの調和を保ち、何重にも美しく折り重なったように響いていた結界の音。
本来なら、ただ耳を慣らすだけのはずだった夜。
何も起こらないはずの、平穏な夜。
けれど——
宵乃の背筋に冷たいものが走る。
(……やはり、また……)
南西の角。そこだけが、わずかに、ほんのわずかに、音のたわみを生んでいた。破れではない。”何か”の手が加えられているような小さな違和感。
すぐそばの壁際、日野介が目を開け、宵乃をじっと見つめている。
(……本当は、私の目で見に行きたい。でも、それはできない)
ヨリ様との約束——「決して、この場所を離れるな」
宵乃は胸元を探り、黄色の札を取り出した。
赤は緊急、結界に破れが生じたときに使う。
今は黄色でいい。
(……本当に、これでいいの? 聞き間違いじゃない?)
宵乃は心の奥で問う。
答えは、分からない。でも——
(私の直感を信じる——!)
目で合図を送ると、日野介がそっと頷き、札を受け取った。
彼は静かに西側の扉の下の引き出しへ、それを滑り込ませる。
扉の向こう側——顔も知らない協力者が、そっと引き出しを引く音。
人の気配があるのに、まるで風のように気配を感じさせない。
訓練された者だ。
日野介はそっと宵乃のもとに戻り、低くささやいた。
「もう三刻(*現在の6時間)、ここに座り続けている。少し、休め」
宵乃はようやく瞼を開き、小さく息を吐いた。
結界の波長はほとんど手の中にある。
今なら、少し休んでも問題はない——そう思える。
宵乃は差し出されたおむすびに、小さく手を伸ばした。
(……私が出した黄色の札。これがどう動くか——?)
分からない。ただ、待つしかなかった。
◆
内裏の中——西側の塀の下。
コモリは音もなく白壁の内側に着地した。
足袋の下に感じる柔らかな土の感触。
そして、外とはまるで違う、濃密で神聖な空気。
首筋がゾクゾクとする。
何かに見張られているような感覚さえある。
木陰で、誰かが素早く縄梯子を引き上げ、影に消えた。
コモリはすぐにその動きを見て、ついて来い、の合図と理解し、音を立てずに後を追った。
姿が消えたと思った瞬間、視界の上方——大きな松の木の枝の上に、その影はいた。
コモリも素早く木の上に登る。
女官の衣に身を包み、白粉を厚く塗った若い女性。
だが、その目——それは、明らかに忍びの目だった。
「……私はアワイ。千星家に仕えるもの」
低い声。名乗り終えると、アワイはすぐに周囲に鋭い視線を走らせた。
その一瞬の目の動き。冷静さの裏側に、かすかな焦りがにじんでいた。
「コモリだな、話は聞いている。私は第二皇女・貴子様に仕えている。あなたは、私の下につく。今は時間がない。詳しい説明は後だ」
アワイは布包みを差し出す。
「これに着替えて、化粧を。準備ができたら——西棟の控えの間へ。扉の前に目印がある」
アワイの指先が、かすかに強張っていた。
コモリは強く頷いた。アワイは、それを確認するや否や、影に溶けるように姿を消した。無駄が一切ない。
(熟練の忍びだ……。しかし何かに焦っている)
コモリは急いで女官の衣に着替え、化粧を施し、髪を結う。
脱いだ衣は丸め、松の幹のうろに押し込み、樹皮と苔で慎重に覆い隠した。
松林の中、このあたりは内裏でもひと段低く、明かりも届かない。
湿った夜気が重く、鼻先に土と草の匂いが濃く絡む。
静かに周囲を確かめ、コモリは指示された西棟へ向かう。
三つ並ぶ小部屋、真ん中の部屋の前に小さな白い石が置かれてある。
忍び同士ならわかる合図。
二畳ほどの、誰もいない小部屋だった。
外へ通じる扉が一つ。中へ通じる扉が一つ。
(……来るのは、どっちだ?)
コモリは自分の呼吸の乱れに気づく。
(息があがっている……)
少ししか動いていないのに。緊張のせいか、それとも内裏に漂う重苦しい空気のせいか。それともずっと結界の中にいるからだろうか。
◆
コモリは浅く息を整え、じっと耳を澄ましていた。
(……遅い。もう半刻(*現在の1時間)は経ったか?)
心の中でそうつぶやいた、そのとき——
外の扉がわずかに軋み、静かに開かれた。
黒い影が、音もなくすっと入り込んでくる。
「アワイ……?」
名を呼びかける前に、その影はゆっくりと崩れ落ちてそのまま——
どさり。
地面に落ちた。
(——え?)
コモリは息を呑んだ。駆け寄り、倒れた体を抱き起こした。
指先に触れたぬるっとした感触。これは……血だ。
「……アワイ……?」
その背中には、短刀が深々と刺さっていた。
すでに、アワイは絶命していた。
コモリの指先が、かすかに震える。
(何が……起きている……?)




