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第二十五話 音のたわみ、忍びの合図

これまで、それは見事なまでの調和を保ち、何重にも美しく折り重なったように響いていた結界の音。


本来なら、ただ耳を慣らすだけのはずだった夜。

何も起こらないはずの、平穏な夜。



けれど——

宵乃の背筋に冷たいものが走る。


(……やはり、また……)


南西の角。そこだけが、わずかに、ほんのわずかに、音のたわみを生んでいた。破れではない。”何か”の手が加えられているような小さな違和感。


すぐそばの壁際、日野介が目を開け、宵乃をじっと見つめている。


(……本当は、私の目で見に行きたい。でも、それはできない)


ヨリ様との約束——「決して、この場所を離れるな」


宵乃は胸元を探り、黄色の札を取り出した。

赤は緊急、結界に破れが生じたときに使う。

今は黄色でいい。


(……本当に、これでいいの? 聞き間違いじゃない?)


宵乃は心の奥で問う。

答えは、分からない。でも——


(私の直感を信じる——!)


目で合図を送ると、日野介がそっと頷き、札を受け取った。

彼は静かに西側の扉の下の引き出しへ、それを滑り込ませる。


扉の向こう側——顔も知らない協力者が、そっと引き出しを引く音。

人の気配があるのに、まるで風のように気配を感じさせない。

訓練された者だ。


日野介はそっと宵乃のもとに戻り、低くささやいた。


「もう三刻(*現在の6時間)、ここに座り続けている。少し、休め」


宵乃はようやく瞼を開き、小さく息を吐いた。

結界の波長はほとんど手の中にある。

今なら、少し休んでも問題はない——そう思える。


宵乃は差し出されたおむすびに、小さく手を伸ばした。


(……私が出した黄色の札。これがどう動くか——?)


分からない。ただ、待つしかなかった。





内裏の中——西側の塀の下。


コモリは音もなく白壁の内側に着地した。

足袋の下に感じる柔らかな土の感触。

そして、外とはまるで違う、濃密で神聖な空気。

首筋がゾクゾクとする。

何かに見張られているような感覚さえある。


木陰で、誰かが素早く縄梯子を引き上げ、影に消えた。

コモリはすぐにその動きを見て、ついて来い、の合図と理解し、音を立てずに後を追った。


姿が消えたと思った瞬間、視界の上方——大きな松の木の枝の上に、その影はいた。

コモリも素早く木の上に登る。


女官の衣に身を包み、白粉を厚く塗った若い女性。

だが、その目——それは、明らかに忍びの目だった。


「……私はアワイ。千星せんせい家に仕えるもの」


低い声。名乗り終えると、アワイはすぐに周囲に鋭い視線を走らせた。

その一瞬の目の動き。冷静さの裏側に、かすかな焦りがにじんでいた。


「コモリだな、話は聞いている。私は第二皇女・貴子様に仕えている。あなたは、私の下につく。今は時間がない。詳しい説明は後だ」


アワイは布包みを差し出す。


「これに着替えて、化粧を。準備ができたら——西棟の控えの間へ。扉の前に目印がある」


アワイの指先が、かすかに強張っていた。


コモリは強く頷いた。アワイは、それを確認するや否や、影に溶けるように姿を消した。無駄が一切ない。


(熟練の忍びだ……。しかし何かに焦っている)


コモリは急いで女官の衣に着替え、化粧を施し、髪を結う。

脱いだ衣は丸め、松の幹のうろに押し込み、樹皮と苔で慎重に覆い隠した。


松林の中、このあたりは内裏でもひと段低く、明かりも届かない。

湿った夜気が重く、鼻先に土と草の匂いが濃く絡む。


静かに周囲を確かめ、コモリは指示された西棟へ向かう。


三つ並ぶ小部屋、真ん中の部屋の前に小さな白い石が置かれてある。

忍び同士ならわかる合図。


二畳ほどの、誰もいない小部屋だった。

外へ通じる扉が一つ。中へ通じる扉が一つ。


(……来るのは、どっちだ?)


コモリは自分の呼吸の乱れに気づく。


(息があがっている……)


少ししか動いていないのに。緊張のせいか、それとも内裏に漂う重苦しい空気のせいか。それともずっと結界の中にいるからだろうか。





コモリは浅く息を整え、じっと耳を澄ましていた。


(……遅い。もう半刻(*現在の1時間)は経ったか?)


心の中でそうつぶやいた、そのとき——


外の扉がわずかに軋み、静かに開かれた。

黒い影が、音もなくすっと入り込んでくる。


「アワイ……?」


名を呼びかける前に、その影はゆっくりと崩れ落ちてそのまま——


どさり。


地面に落ちた。


(——え?)


コモリは息を呑んだ。駆け寄り、倒れた体を抱き起こした。

指先に触れたぬるっとした感触。これは……血だ。


「……アワイ……?」


その背中には、短刀が深々と刺さっていた。

すでに、アワイは絶命していた。


コモリの指先が、かすかに震える。


(何が……起きている……?)



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