第4話 理想(前編)
「殿下――そろそろ正妃をお決めください」
ザリーナ王妃の声が、
石造りの執務室を重く満たした。
「……またその話ですか」
アルシオンは羊皮紙から顔を上げず、
低く吐き捨てる。
「“また”ではございません。
国王陛下もご高齢。
後継を盤石にするためにも、早急にご決断を」
微笑みを浮かべながらも揺るがぬ王妃の視線に、
アルシオンは短く息を吐いた。
青銅縁の石卓には粘土板と羊皮紙が幾重にも広がり、
軍報、交易路の再編、関所の管理、
偏る物資供給の是正――。
老王が政務から距離を置き始めた今、
その重荷はすべて彼の肩にのしかかっていた。
「……」
葦筆を置き、深く息を吐く。
政務の圧と王妃の言葉が、同時に胸を締めつける。
だが“正妃”という言葉に触れた瞬間、
否応なく、過去が脳裏に甦った。
◆
かつて、政略によって迎えた妻がいた。
有力諸侯の娘。
容姿も振る舞いも申し分なく、
最初は互いに距離を測りながらも、
アルシオンは誠実に向き合おうと努めた。
好みを覚え、儀礼に共に臨み、
祝宴にも顔を出すことを厭わなかった。
だが次第に、
彼女は王家の規律を軽んじるようになった。
他国使節との不適切な接触。
許可なき外出。
王の不在を理由にした、振る舞いの逸脱。
そして――
遠征に出ていた数か月の間に、
彼女は別の男の子を身ごもっていた。
帰国した日に、
処罰を覚悟した侍女が震える声で告げた真実。
怒りよりも先に胸を満たしたのは、
どうしようもない虚しさだった。
その場で離縁を申し渡し、
彼女は実家へと戻された。
「……もう、形だけの結婚はごめんだ」
あの日、アルシオンは自分にそう誓った。
◆
戦場にいる間は、
その誓いを忘れるほど日々が忙しかった。
だが、ある前線の夜。
訓練場で剣を振るう若い女兵の姿に、
ふと視線を奪われた。
泥と汗に塗れながらも、
必死に踏みとどまり剣を振るう背。
「腰が浮いている」
思わず声をかけると、
彼女は真っ直ぐにこちらを見返してきた。
切れ長の瞳が炎のように揺れ、
その奥に迷いはなかった。
後に知った――彼女がサフィアだと。
その時、彼女はまだ、
目の前の男が王太子であることを知らなかった。
だからこそ、
階級でも肩書きでもなく、
剣を振るう一人の戦士として、
真正面から向き合ってきた。
その後も幾度となく顔を合わせた。
危地で背を預け合い、
矢雨の中で兵を救い、
死線を共にくぐった。
地位や名ではなく、
剣を振るう自分そのものを見てくれる存在。
その在り方が、
どれほど自分を救ったか――
今も忘れられない。
そして今、
彼女は己の隣にいる。
戦友であり、
恋人であり、
唯一無二の理解者。
(……正妃にするなら、俺はもう迷わない)
◆
「……私の正妃は、私自身で決めます」
アルシオンは葦筆を置き、
まっすぐにザリーナを見据えて言った。
王妃は一瞬だけ目を細め、
やがて静かに笑みを浮かべる。
「では――
その時を、気長に待ちましょう」
衣の裾を揺らし、
王妃は静かに執務室を後にした。
◆
数日が過ぎた。
初日以降、表立った嫌がらせはぴたりと途絶えている。
廊下ですれ違えば、側室たちは視線を逸らし、
口元を引き結ぶ。
耳に入るのは、せいぜい遠くからの影口程度。
(これくらいなら、どうってことないわね)
着替えを手伝いながら、
リサがふと笑みを含ませて言った。
「……やっぱり、あの日の牽制が効いたんですよ」
セレナは帯を締めながら、軽く肩をすくめる。
(私……そんなに怖かったの?)
「上出来だったと思っておくわ……」
◆
石畳に硬い足音が響き、
重厚な扉が押し開かれた。
革鎧の匂いが流れ込み、
乾いた空気に鉄と汗の匂いが混じる。
机に向かっていたセレナは、
ぱたりと羊皮紙を伏せて顔を上げた。
そばにいたリサはびくりと肩を震わせ、
机の端をぎゅっと握りしめる。
現れたのは、浅黒い肌に汗の跡を残した男。
肩にかけた外套は乱れ気味だが、
立ち姿は揺るぎない。
書庫の静謐を破り、
武官の気配が空気を引き締める。
「――やっぱり書庫にいたか。
暇つぶしに巻物を漁るとは、物好きなお姫様だな」
低く掠れた声に、
リサが再び肩を揺らし、
怯え混じりにセレナへ視線を流す。
(好きで暇を持て余しているわけじゃないのに……)
心の中で小さくムッとする。
男はちらと侍女を見やり、
すぐにセレナへと目を戻した。
「俺はカリム。殿下直属の近衛副隊長だ。
サフィアの幼馴染って言えば分かりやすいか」
その名を聞いた途端、
セレナの肩がぴくりと動いた。
リサの瞳がわずかに揺れる。
カリムは一歩近づき、声を落とす。
「単刀直入に言う。
……彼女を泣かせるような真似はするなよ」
石壁に低い声が重く響き、
書庫の空気がぴんと張りつめた。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
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