第3話 渇望【前編】
淡い光が帳の隙間から差し込み、鎧ではなく白の薄衣のまま、サフィアは寝台に横たわっていた。
(……昨夜は、結局アルシオンと顔を合わせることはできなかった)
いつもなら、夜更けに視線で呼ばれる。
ただ立っていればいい。名を呼ばれずとも、彼の意図が分かる。
その合図に従うことは、呼吸のように自然だった。
けれど昨夜は――何もなかった。
だから分かる。あの時、呼ばれたのは別の女。
(夜伽……)
そう、理解していたはずだ。
アルシオンは王太子。
正妃となる以上、他の候補を迎えるのは“務め”のひとつ。
知っていて当然のこと。
それなのに、胸が締めつけられ、
吐く息は苦しく、指先がかすかに震えていた。
(……嫌。頭では分かっているのに……どうしてこんなに苦しいの)
理性と感情がぶつかり合い、静かな痛みだけが残った。
◆
朝の回廊。差し込む光のなか、アルシオンは政務室へ向けて歩を進めていた。
廊下の角を曲がったところで、足を止める。
「……殿下」
サフィアの声。琥珀の瞳が、かすかに揺れていた。
朝に顔を合わせるのは珍しくない。だが、今朝は空気が違う。
「どうした」
問いかけながら、アルシオンはその表情を測る。
(……昨夜のことを口にするつもりはない。でも――)
サフィアは小さく首を振り、ぎこちなく微笑んだ。
「ただ……殿下のお顔を見たくて」
足元の空気が沈む。
アルシオンは短く息を吐いた。
「……そうか」
それだけ。
だが胸のどこかに、微かなざらつきが残る。
(気づいているのだろう。……だが、言わないか)
深く追わない。サフィアはいつもそうだ。
そう理解して、歩みを再び進める。
彼女の脇を過ぎる。
マントが揺れ、風が二人の間を切り裂いた。
(――離れない。その強さに救われてもいる)
表には出さず、振り返りもせず、政務室へ向かって歩を進めた。
◆
書庫の窓から差す光が背表紙を撫で、舞い上がった埃が金色の粒のようにきらめいた。机の上には、昨夜の続きの帳簿が広げられている。
セレナは椅子に腰を下ろし、静かに葦筆を取った。墨を含ませる手つきはいつも通り――けれど胸の底には、まだ昨夜の余韻がかすかに残っていた。
(一国の姫としてはあるまじき態度ね……でも仕方がないじゃない)
相手だって、私を求めていたわけではなかったのだから。
セレナはそっと息を落とし、指先で帳簿の端を整えた。
隣でリサが控え写しを整えながら、ちらりと主の横顔を盗み見た。
「……セレナ様。……大丈夫でしょうか?」
その声音はかすかに震え、憐れむような眼差しが注がれている。夜伽に呼ばれ、拒まれて戻った――リサには、そう見えたのだろう。
(拒んだのは私……とは、さすがに言えないわね)
セレナは筆先を葦紙に滑らせ、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫よ。心配かけてごめんね」
リサはなお言葉を飲み込み、心配そうに眉を寄せる。
(……サフィアは、どう思っているのかしら)
もし正妃になっても後宮は残り、殿下は夜伽の務めを果たさねばならない。それが義務だと分かっていても――胸が痛むのは避けられない。
墨が葦紙を染め、数字が列を成して並んでいく。外の光がひときわ強まり、書庫の空気を少し明るく変えた。
セレナはひとつ息を整え、黙々と筆を走らせる。
(……私だったら、いやだな)
小さな吐息とともに浮かんだ本音は、墨より淡く消えていった。リサはその背を見つめ、やはり「拒絶された」と思い込んだまま、眉根を寄せて黙っていた。
(……私も誰かに愛されたいな……)
前世で諦めていたこと。彼と出会って変わったこと。けれど――後宮では、それを望むのは夢物語。
(みんなはどう思っているのかしら……)
前世の記憶を取り戻してから、この時代の女性たちの恋愛観がつかめなくなってしまった。
帳簿を閉じ、席を立つ。今日は妃候補たちの茶会が開かれる日。
(……思い切って聞いてみようかしら)
裾を整え、廊下へ出る。香の漂う回廊を歩むごとに、胸の奥がざわめいていった。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
感想をいただけたら、とても嬉しいです!」
◆お知らせ
今後の新作予告や更新情報は、Twitter(X)でお知らせしています。
→ @serena_narou
ぜひフォローしてチェックしていただけたら嬉しいです。




