第2話 夜伽【後編】
回廊の灯が一つずつ点る。セレナは侍女に伴われ、静かな石畳を進んだ。
(……姫として夜伽に呼ばれるのは名誉。だけど――)
胸裏に細い波紋がひろがり、なかなか鎮まらない。
(まったく興味もなく、嫌々に伽われるのは……いやだなぁ)
自分では打算的に考えているくせに、相手に心を求めてしまう。
(だって……殿下が苦手なんだもの)
そう思っていなければ、折れてしまいそうで。毛足の長い敷物が踵を撫で、足音は吸い込まれていった。
手を胸に抱き、瞼を伏せた。
(でも……今世の私は一国の姫。祖国の顔として、この場から逃げるわけにはいかない)
歩を進めるほど香は濃く、重い扉が近づく。その向こうに王太子の寝所。
侍女が静かに膝をつき、取手へ細い指を添えた。
(……殿下のお顔を、ちゃんと見られるかしら)
答えは闇の中。セレナは深く息を吸い、踏み出す。扉が低く軋み、香煙がふわりと流れ込んだ。
侍女に背を押されるように、一歩を進める。
(……まさか、殿下の寝室に入る日が来るなんて)
入内まもなく「お飾りの正妃候補」と突きつけられて以来、呼ばれることはないと思っていた。だから、殿下を想うようなことは二度としない――そう誓っていた。
視線を落としたまま、歩は自然と小さくなる。油皿の炎が揺れ、卓上に残された書簡の影が壁に長く伸びていた。
部屋の奥、椅子に腰掛けるアルシオン。藍の視線が射抜いた瞬間、セレナの背筋は氷のように強張り、胸の奥で脈が跳ねる。
「……」
声は出ない。絨毯の上に膝を折り、深く一礼した。
(こんなに緊張するのは、久しぶり……)
瞼を伏せたまま息を詰める。返答を待つ時間は、やけに長かった。
◆
アルシオンは椅子に深く腰をかけ、跪くセレナを見据えた。
伏せられた睫毛、こわばる肩の線。
隠しきれない緊張が、その姿勢から滲み出ている。
灯の明かりが絹の裾を撫で、淡い金糸がほのかに光を返した。
肩から落ちる薄衣は水面をすべる月光のように揺れ、髪には真珠飾りがひとつだけ静かに光る。
セレナがわずかに動いた拍子に、清らかな香がふっと広がった。
その気配に触れたせいか、アルシオンの手が一瞬だけ止まった。
藍の瞳を細め、低く声を落とす。
「……顔を上げろ、セレナ」
おずおずと顔が上がる。
灯を掬った藍の視線が、真正面から彼女を捉えた。
セレナは息を呑む。
(……明らかに嫌悪している顔ではない?)
不安で視線をそらせず、そのまま彼を見返してしまう。
沈黙ののち、アルシオンは微かに眉を寄せた。
「……怖じているのか。だが、お前の目は逃げていないな」
冷たさを装った声音の底に、かすかな驚きが滲む。
セレナは瞼を伏せ、静かに一礼した。
「……殿下にお呼びいただき、光栄に存じます」
努めて落ち着いた声だが、胸の底は冷たくざわめく。
アルシオンは一拍置き、短く答えた。
「礼は要らぬ。これは務めだ」
淡々とした声の芯には、揺るがぬ硬さがあった。
(務め、ね……確かにその通りだけど、これまではその務めさえ誰も引き受けなかったじゃない)
セレナは胸の内で息を整えた。
(もしかして……秋の宴でのやりとり。気に留めてくださった、なんて――)
わずかな期待が胸を震わせ、すぐ押し殺す。
(馬鹿ね。もう誰かに期待して傷つくのはやめたはずでしょう)
灯芯がぱちりと弾き、影が一度だけ揺れた。
沈黙が、重く二人の間に落ちる。
「……セレナ。お前は“正妃”という座を、どう思う」
命令でも飾りでもない、真意を量る低い問い。
一瞬、セレナの膝の上の手が、ぴたりと止まった。
(また急に難題……この人はいつも私を試す……)
指先が、わずかに白くなる。
(――正直に答えちゃお……どうせ、私になど関心はないのだから)
目を伏せたまま、言葉を探す。
「……殿下。申し訳ございません。“正妃”は思案の途上で、いまここで定義を言い切れません」
言い終えた瞬間、部屋に静けさが落ちた。
床の模様をじっと見つめ、胸の奥で小さく息を潜める。
(……でも、もしこの人が私の言葉を拾ってくれたなら――)
顔を上げ、まっすぐ見据えた。
「ですが……殿下を一途にお想いする方が正妃であれば、殿下はきっとお幸せになられると存じます。
そして殿下の幸せはやがて民へ広がり、国を満たす――私は、そう信じております」
アルシオンは無言で見据えた。
言葉に収まらぬざわめきが、その奥で静かに渦を巻く。
(正妃は“務めを果たす者”……そう返すと思っていた。だが――)
彼女は自分を差し置いて「殿下を一途に想う方が」と言った。
名は出さずとも、その像はサフィアを呼ぶ。鋭く胸に刺さる。
(この娘は――“国”へ繋げて語った。俺の幸いを民へ渡す、と)
拳が膝の上で音もなく結ばれる。
(駒として呼んだはずが、その視線は……あまりに正妃に近い)
喉で言葉がつかえ、吐息だけがこぼれた。
「……お前は飾りを望まぬのだな」
嘲りも賞賛もない、揺れる迷いの呟き。
(どうしてそう思うのかしら……私はあなたを諦めているのに。
……まったく、夜伽の空気ではないじゃない)
セレナは静かに口を開いた。
「私は、殿下のお心を踏みにじってまで伽を求めようとは思いません」
一瞬の沈黙。セレナは己に言い聞かせる。
(そうよね。殿下は立場上、私を拒めない。なら――私から離れればいい)
藍の瞳がわずかに見開かれた。
(……なんだと? そうするつもりはなかった。だが――勝手に退くのか?)
胸の底を、細い苛立ちが走る。指が肘掛けを硬く叩いた。
「……勝手に決めるな。もうよい、下がれ」
淡々とした声に冷えが混じり、室内の空気がさらに沈む。
セレナは深く一礼し、静かに立ち上がった。裳裾が低くさざめき、静けさに溶けた。
(そんなふうに言って――いちばん安堵しているのは、あなたでしょうに……)
唇がかすかに震え、言葉にならなかった想いだけが胸に沈んだ。
胸の澱を抱えたまま、セレナは扉の向こうへ消えた。
◆
自室に戻ると、燭台の明かりが壁に柔らかな影を落としていた。
リサが慌ただしく駆け寄り、深く頭を下げる。
「お帰りなさいませ、セレナ様……!」
心配に曇る瞳が、揺れる。
「……殿下とのお渡り、いかがでしたか?」
セレナは静かに首を振り、肩から外套を解いた。
「……何もなかったわ」
(私が、そう選んだからだけど……)
リサは目を丸くし、それから小さく息を呑む。
「……そう、でございましたか」
セレナは寝台に腰を下ろし、鏡の中の自分を見つめた。
頬には紅が残っているのに、瞳の奥は冴えない。
(今回、夜伽に呼ばれて……分かったことがある)
胸の奥に、静かな熱が込み上げる。
(一国の姫として、伽は務め。
いつかは向き合わなければならない――)
薄衣の裾を握りしめ、唇をかすかに噛んだ。
(だけど……気持ちのない相手となんて、やっぱり嫌――!)
「セレナ様……」
リサは声を落とし、そっと距離を保つ。
主の胸の内を察しきれず、ただ寄り添うことしかできない。
だが、セレナの胸には、すでに揺るがぬものがあった。
祖国のためであっても、自分を失う選択だけはしない。
燭台の炎が静かに揺れ、
沈黙が、二人を包み込んだ。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
感想をいただけたら、とても嬉しいです!」
◆お知らせ
今後の新作予告や更新情報は、Twitter(X)でお知らせしています。
→ @serena_narou
ぜひフォローしてチェックしていただけたら嬉しいです。




