第2話 夜伽【前編】
「セレナ様、王妃様がお呼びです」
侍女の声に、セレナは筆を止め、胸の奥がひやりと冷えた。
(王妃様が直々に?……何の御用かしら)
入宮の儀で拝謁して以来の召しの声。歩むほど鼓動は速く、足取りは重くなる。
(……もしかして、国へ帰れと言われるんじゃ……)
外様の姫、殿下の寝所にも呼ばれたことがない。
正妃候補として、目に見える形で選ばれていないのは事実――そう思うと、背筋が冷たくなった。
(うう……務めを果たせていない、と判断されても仕方がない……)
やがて王妃の間。
香煙の奥に、玉座に凭れたザリーナ王妃がいた。
(……相変わらずお美しい方。美魔女とはまさにこの人のことね)
艷やかなさを帯びた。
(この母あってこその殿下、ね……似てはいないけれど。殿下の青い瞳は大王様由来なのね)
セレナが深く一礼し、顔を上げた瞬間、澄んだ声が場を支配する。
「――今宵は殿下の御寝所へお渡りなさい」
端正な声音が空気を震わせた。
「……えっ」
声にならぬ息が喉に零れる。胸の底に沈む意味はただ一つ。
(……夜伽の命令……)
◆
夕暮れの訓練場では、砂が風に舞っていた。
カリムが水袋を肩にかけ、片手で剣をくるりと回す。
「……おいサフィア。最近お前、殿下に甘えてばかりじゃないか?」
幼馴染の軽口に、サフィアは眉をひそめる。
「な、何を言う」
「以前は“殿下を支える剣”だってばかり言ってたろ。
なのにこの頃は……女の顔をしすぎてるんじゃないのか?」
からかいに胸が熱くなる。
だがサフィアは琥珀の瞳を真っ直ぐ向けた。
「……私は変わらない。殿下を守る剣、それが務めだ。
殿下の名誉を汚す者があれば、誰であれ斬る」
カリムは肩をすくめ、口端を吊り上げる。
「ならいい。……幼馴染として言ってみただけさ」
風が二人の間を抜けた。
小さなざわめきは残ったまま、サフィアは己に刻み直す。
(私は殿下の剣。……どんなときも、それは変わらない)
そのとき、柱の陰から侍女たちの囁きが漏れた。
「……見た? ルナワの姫様の支度部屋に、特別な香炉が運ばれていたわ」
「ええ。それに殿下の御寝所では寝具の入れ替えまで。
あんな支度、滅多にないでしょう」
囁きは風に流れた。
だが、サフィアの胸には冷たいものが落ちた。
(香……寝具……そんな支度、まさか)
拳に爪が食い込み、呼吸が乱れかける。
カリムが怪訝そうに眉をひそめた。
「どうした、サフィア」
「……なんでもない。ただの準備の話だ」
無理に整えた声の奥で、胸がきゅっと縮む。
カリムは視線を細め、低く呟いた。
「……ただの準備にしては、大げさだな」
(違う。噂や影に惑わされてどうする……私は、アルシオンを信じる)
サフィアはまっすぐな誓いを、
掌に残る痛みとともに、深く刻み込んだ。
◆
政務室では、夜半の灯が卓上を照らし、粘土板と葦紙の影が長く伸びていた。
封泥を割った欠片が小皿に残り、油皿の火がぱちりと弾ける。
ラシードは脇卓に葦筆を置き、口角だけをわずかに上げた。
「……殿下。どうしてセレナ様をお呼びに?」
薄い皮肉の奥に、探る色が滲む。
アルシオンは短く息を吐き、窓外の闇へ視線を逸らした。
「……理由は単純だ。帳簿に向かっていた。
政務を語るなら、通じる相手のほうがいい」
声音は淡々としていたが、膝の上で結ばれた拳は固い。
ラシードは肩をすくめ、卓上の葦紙の端を指で、こつりと弾いた。
「なるほど。異国の姫が泥をかぶってくださるおかげで、
殿下は“政務を語れる相手”を得た――そういうことで」
灰の眼が半ば伏せられ、思案が静かに沈む。
(ようやく、あの姫君から目を逸らせなくなりましたな。
最初から“芽”には見えておりましたが……さて、殿下は)
油皿の火が、また小さく弾けた。
沈黙はそのまま、石壁の奥へ沈んでいった。
◆
夜気が帷の隙から忍び込み、薄く張られた絹を冷やしていた。
侍女たちは声を潜め、香炉を整え、衣と飾りを手早く準備していく。
御料庫から選りすぐりの品が運ばれるたび、部屋の空気は静かに熱を帯びていった。
磨き上げられた青銅鏡に映る自分を見つめながら、セレナの胸で疑問が泡立つ。
(どうして……私なの?)
正妃候補は他にもいる。
しかも自分は属国ルナワの姫――この国では“外様”。
序列は最も後ろのはずなのに、王妃様の直命のあと、封泥付きの呼び札まで届いた。
行き先は“殿下の寝所”。支度は急ぎ――そう、簡潔に記されて。
(後宮の務めを担っていたことを、お知りになったから……私を?
――つまり、認められた……の?)
胸の奥を、冷たいざわめきが撫でる。
(……殿下は、どうお思いになるのかしら)
夜伽は王太子の義務。
だが彼の心は別の人にある。
(あんなにサフィア一途なのに。夜伽だなんて……)
それは――彼にとっても、決して楽なことではないはずだ。
「姫様、少し首を……そう、こちらへ」
リサが震える指で青銅の櫛を操る。
落ち着かぬ瞳が、必死に行き場を探していた。
(……リサの方が怯えているじゃない。私が、しっかりしなくちゃ)
背後では、立ち会い役として控える年長の女官たちが視線を交わし、
囁きが香煙に紛れて落ちる。
「……殿下の寝所まで、支度が運ばれるのは久しいわね」
「ええ。王妃様の直命とあらば……」
言葉はすぐに煙に飲まれたが、刃のように耳に刺さる。
香が満ち、セレナはそっと瞼を伏せた。
たとえ正妃になれなくとも――
夜伽とは、女が王家と国の手に差し出される儀。
その一歩で、立場も未来も揺らぐ。
(そうよ……私はルナワの姫。ここで退くわけにはいかない)
油皿の火がわずかに揺れ、香煙が髪の先を撫でた。
控えの侍女が合図の小鈴を一度だけ鳴らす。
――支度、整いました。
夜の気配が、しんと部屋を満たしていく。
(……なんだかんだ言って、私、姫様らしく振る舞っているじゃない)
かすかに失笑し、その裏に寂しさを抱えたまま、息を整えた。
◆
王太子の寝所の卓上には、政務の書簡と粘土板が積まれていた。
アルシオンはそれらに目も通さず脇へ押しやり、両肘で額を覆う。
(……呼んだのは俺だ。王妃の命を“借りた”だけ。あの娘を駒として使うために)
胸の内で繰り返す。外交の圧力は現実で、正妃の空席は情熱で覆せない。政務を語れる相手が要る――理屈はそれで足りるはずだった。
だが理屈だけなら、もっと穏やかでいられる。拳が机縁を音もなく叩いた。
(駒に過ぎぬなら、なぜ胸がざわつく)
秋の宴で堂々とサフィアを隣に据えた。信じ、選んだ理想の姿。サフィアは剣を取り、名誉を守る――それ以上は求めないつもりだった。
(それなのに……帳簿に埋もれる姫の姿が、どうして離れない)
剣ではなく、数字と秩序で後宮を支えようとする眼差し。
サフィアとは異なる形で、確かに責務の方角を向いていた。
“駒”と切り捨てようとするほど、その像が胸に刺さる。
藍の目が灯を掬い、睫の影が揺れる。
……いつの間にか、心が二つに割れていたのか――
近衛が音もなく膝をついた。
「殿下。すべて整っております」
アルシオンは短く頷く。抑えるつもりの声が、低く漏れた。
「……来るか、あの娘が」
呟きは闇に溶け、誰にも届かない。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
感想をいただけたら、とても嬉しいです!」
◆お知らせ
今後の新作予告や更新情報は、Twitter(X)でお知らせしています。
→ @serena_narou
ぜひフォローしてチェックしていただけたら嬉しいです。




