第1話 秤【後編】
夕政務室の窓から差す西日が床に長い影を引いていた。
アルシオンは封泥を割り、羊皮紙の書簡を広げ、黙して読み込む。
扉が軽く鳴り、ラシードが入ってきた。目尻だけを笑わせ、灰の眼差しを寄こす。
「殿下。後宮の書庫で、あのルナワの姫君を見かけましたが……帳簿の山にすっかり埋もれておられましたぞ」
アルシオンは眉間を押さえ、低く問う。
「……なぜ、彼女がその役を負っている?」
ラシードは肩をすくめて続けた。
「女官長の手に帳簿を残せぬと判断したナヴァリス殿が、すっと回収しましてな。
……で、何も知らぬ姫君の机に、さりげなく積んでいったわけです」
(……帳簿に埋もれる姫、か)
アルシオンは視線を西日へ流し、唇を引き結んだ。
(本来なら、誰もが当然のように避ける役目だ。
正妃候補が触れる必要など、本来は――ないはずだ)
前の妻もそうだった。
印章だけは欠かさず整え、実務には背を向ける。
形式だけを守り、後宮の采配は空洞のまま――それが自分の婚姻の記憶。
(だからこそ、その光景は異質だ。
取るに足らぬはずなのに……なぜか胸に残る)
侍女と肩を並べ、羊皮紙に身を折って向き合う異国の姫。
飾りではなく、必要とあれば泥に手を伸ばす姿。
虚飾でも忠誠の誓いでもなく、ただ在るべき務めを探そうとする力。
拳が机上で、音もなく結ばれた。
(サフィアは俺のために剣を抜く。
だが、この娘は……俺の知らぬところで、場の足元を支えている)
胸の奥でざわめきが広がる。
(これは正妃の姿に近いのか。
それとも、ただの自己満足か――)
口端が、ごくわずかに緩んだ。
(……厄介な娘だ)
◆
黄昏の書庫はひんやりと静まり返り、灯心の明かりが机上の帳簿を淡く撫でていた。
セレナは葦筆を握り、山積みの帳簿と格闘している。
(……こんなに大変だとは思わなかったわ)
アウレナ式の帳は、ルナワと勝手が違う。
油皿の油の受領数、祭祀の香の減り、侍女たちの織物の支給――
前月の残りと今月の受領を合わせ、使った分を差し引く“数の締め”。
(しかも……何故か侍女のシフトまで私が付けさせられてるし……
本来これは後宮監ナヴァリスの仕事でしょう……!?)
眉根を寄せ、頁を払い、視線を走らせる。
正妃の務めは最後に印章を押すだけ――そう聞いてきたのに。
(数字を揃えるのは侍女や記録官の役目ではなかったの……?)
葦筆の穂先を止め、ふっと息を吐く。
(まあ……これもいずれ、私の力になるはず……よね)
隣でリサが写しを取り、小皿の小石を仕訳に合わせて移している。
扉の軋む音。リサが顔を上げた。
振り返ると、夕光を背にアルシオンが立っていた。
(えっ……! で、殿下!?)
長い影が床を横切り、視線がセレナに止まる。
散らばる数字、墨で汚れた指先――無言のまま舐めるように見られ、場の空気が張りつめた。
「……本当に、帳簿に埋もれているのか」
リサは慌てて立ち上がり一礼し、身じろぎもしない。
(しまった……最近はお目にかかることもなかったから、気が緩んでいた)
秋の宴以来、殿下とまともに言葉を交わしていない。
声をかけられるなど、もう二度とないと思っていた。
驚き。戸惑い。
それに、ちいさな痛み。
セレナは扇を胸に当て、静かに頭を下げた。
アルシオンは一歩進み、灯の揺れが数字の列をゆらりと撫でた。
「……他の候補たちが避ける務めを、一人で引き受けているのか」
その声音には、興味とも苛立ちとも知れぬ色が滲む。
(原因は――あなたが寵姫ひとりを贔屓しているから、でしょうに)
喉元まで出かかった言葉を、セレナは飲み込んだ。
「……他の妃候補の方々は、それぞれの“座”をお楽しみです。
せっかく後宮に活気が出てきたところ、私が水を差したくはありません」
短い間を置いて、視線を落とす。
「それに……これは自分のためにやっていること。
大変ではありますが、苦ではありません」
淡々とした声の底に、かすかな決意。
アルシオンはその言葉を黙って受け止め、長い睫の影から見据えた。
(……自分のため、か)
掌の上で、指が一度だけ強く折りたたまれる。
「他の候補が避けた務めを“自分のため”と受け止めるか……」
低い呟きは、嘲りでなく意外の色を帯びていた。
(前の妻は飾りに徹した。誰も泥に手を伸ばさなかった。だが、この娘は――)
説明のつかないざわめきが、胸奥で波立つ。
セレナは扇をそっと胸に寄せ、改めて頭を垂れた。
「……ですので、殿下はどうかお気になさらず」
(私は自分のためにやっているもん。だから、放っておいて――)
そう言い聞かせつつ、どうしても思い出してしまう。
――秋の宴以来、この人が苦手になった。
前世で“呪術師”をしていた頃は、人を軽蔑したこともある。
けれど神父に諭されてからは、誰かを嫌うことなんてなかったのに。
なぜ、この人だけは。
視線を帳簿へ落とし、扇を握り直す。
落ち着いているふりをしながら、胸のざわめきは沈まない。
しばしの沈黙。
アルシオンが短く言う。
「……『苦ではない』と口にする者ほど、いちばん苦労しているものだ」
それだけ残し、視線を外した。
長身の影が踵を返し、夕光の向こうへ消えていく。
残されたセレナの胸には、
言葉よりも重たい余韻だけが、静かに沈んでいた。
◆
寝室の薄絹の帷越しに油皿の灯が揺れ、静かな夜気が漂っていた。
鎧を外したサフィアはアルシオンに身を寄せ、沈黙に耐えかねて口を開く。
「……ねえ、アルシオン」
黒髪を下ろした横顔に、琥珀の瞳がわずかに曇る。
「あの夜――サーヒ様が還送されてからのあなた、少し変わった気がする。
……何を考えているの?」
自分を見る目は、変わらずやさしい。
けれど、ふとした瞬間だけ――視線が深い底へ沈んでいく。
アルシオンは短く息を吐き、サフィアの頭に手を置いた。
「……考えることが多いだけだ。政務や国境の情勢もな」
指先が髪を撫で、視線が柔らかく向く。
「お前を忘れたことはない。
お前がいてくれるから、俺は迷わずにいられる」
(――ほんとうに?)
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
けれどサフィアは、その感覚を言葉にしない。
「……なら、よかった」
小さく笑い、肩を預ける。
「無理はしないで。あなたは、ひとりで抱え込みすぎるから」
アルシオンは応えず、ただその背を抱き寄せた。
(アルシオンがそう言うなら……
それ以上を疑うのは、私の弱さだ)
気づけば、胸が少しだけ苦しい。
だから――サフィアは気づかないふりを選んだ。
アルシオンの隣にいると、決めたのだから。
◆
執務室に沈む重い空気の中、ラシードが巻物を置いた。
「殿下……秋の宴の件ですが、各国の使節が一斉に不満を申し立てております」
アルシオンの眉が険しく寄る。
「……不満?」
「『正妃の座が不明瞭では、国の姿勢が疑わしい』と。
サフィア殿を妃席に座らせたことが、“情を盾にした統治”と受け取られたようでして」
灯火が揺れ、灰の眼に細い炎が映る。
アルシオンは短く息を吐き、わずかに目を細めた。
(……やはり来たか)
重い沈黙。
(分かっていたつもりだった。
好きな女を正妃に据えるなど、理想にすぎないと。
だが外交の場から正面切って突き返されると、その脆さが骨にまで響く)
アルシオンは窓辺へ歩み、沈みゆく陽を仰いだ。
西日に照らされた横顔に、深い影が落ちる。
やがて、低い声。
「……セレナを呼べ」
控えていた近衛が頭を垂れ、回廊へ駆けていく。
夕風が帷を撫で、油皿の炎が小さく脈打った。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
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