第1話 秤【前編】
執務室でラシードが葦筆を置き、静かに言った。
「……サーヒ様は実家へ還送。処罰としては軽いが、表向きはこれで落ち着くでしょうな」
ナヴァリスは帳簿を閉じ、まぶたを半ば伏せる。
「後宮から外れた時点で再起は難しい。追放同然です」
「問題は女官長。印章の管理の不備に、侍女監督の怠慢。――それでも在籍のまま……これもまた軽い」
ラシードの声に、薄い皮肉が乗った。
「王妃殿下の庇護がある。駒を手放すおつもりはないのでしょう」
ナヴァリスは肩をすくめ、口角だけを小さく動かす。
ラシードが短く息を吐いた。
「……侍女筋から聞こえる限りでは、烈火のごとくお怒りだとか」
「ええ、外面では。だが“怒り”と“庇い”を両立させるのが王妃殿下らしさ。――表で叱責し、裏で守る」
沈黙が落ち、油皿の火が帳簿の影を壁に揺らした。
「……つまり我らは、制度で締めるしかない」
ラシードの結びに、ナヴァリスが短く頷く。
「静かに、確実に」
小さな間が落ちた。
ふたりの沈黙は、執務室の空気をひどく冷たくする。
ラシードが横目で笑みを寄こした。
「――そういえば、“皆で分担”という話はどうなった? 財政に政務に娯楽に……立派な座は並んでいたが」
ナヴァリスは首を僅かに振り、淡々と答える。
「見事に形骸化しました。
政務は文書整理に留まり、財政は印章の管理に収まり、
娯楽は場の演出に終始している。
――制度としての責務を、誰も引き受けておりません」
「つまり、泥をかぶるのは――」
ナヴァリスはわずかに目を細めた。
「本来、帳簿に触れるのは女官長か年長の妃。若輩の候補が手を出せば“出過ぎた”と笑われるものです。……ええ、ルナワの姫君お一人です」
ラシードが肩を竦める。
「飾りの光は皆で守り、雑務は姫様へ押し付けられた形ですな」
口元に笑みを浮かべながらも、二人の眼差しは冷え、
セレナという“芽”がどう育つかを測っていた。
◆
暖かな陽が差し込む書庫で、セレナは帳簿の山に顔を埋めながら、心の内でため息をついた。
――どうして、こんなことになったの?
ナヴァリスとも話していたけれど、本来こうした正妃の務めは古株の候補たちが“やりたがる”ものだと思っていた。
けれど現実は違った。
「殿下が選ぶのは、あの武官でしょ? もう決まっているのに、わざわざ泥をかぶる必要はないわ」
彼女たちはそう言わんばかりに、誰も手を伸ばさない。
そしてナヴァリス――あの柔らかな笑顔のまま、すべてを彼女の机に積み上げてきたのだ。
(確かに私が言い出しっぺだけど……ナヴァリス、最初は私の提案に乗り気じゃなかったのに、手のひら返すように仕事を置いていくのだもの……)
そのとき、書庫の扉が音を立てて開いた。
「おや……ずいぶん賑やかですな」
低い声に振り返れば、ラシードが腕を組んで立っていた。
薄く笑い、書類に埋もれるセレナとリサを見やる。
「これはまた……若い姫が、帳簿の墓場で殉職なさったのかと」
リサが慌てて姿勢を正した。
「さ、宰相閣下……! い、いえ、セレナ様は殉職など――!」
セレナは苦笑し、筆を机に置く。
(相変わらず、人の不幸を面白がるのね……)
ラシードはゆるりと歩み寄り、帳簿の山を覗き込んだ。
「侍女の配分表に、各座の運営報告、ああ……儀式の進行案まで。なるほど、“皆で分担”とは名ばかりだ」
ちらとセレナを見やる。
「見事に、どろ役を一身に引き受けさせられましたな」
乾いた笑いが短く弾んだ。
「励ましに来てくれたわけではないのですね……ただの冷やかしだけですか?」
恨めしそうに視線を送ると、ラシードは唇の端を上げた。
「ひとつ、お伝えしたい事がありましてな」
「あの検問所の仕組み。物資は量と品に応じて賦課、馬や荷車は定額、人と荷は動線を分ける……実際に回せば、渋滞は減り徴収漏れも少ない。なかなかの成果ですよ」
セレナが瞬きをする間に、ラシードの灰色の目に冷えが差した。
「そこに私が通行札と記録を加えた。通過した荷の番号と時刻を残させたのです。すると――面白いものが見えてきた。積んだ荷より“軽くなる”便がある」
セレナは首をかしげ、筆を握ったまま見上げた。
「……どういう意味ですか?」
ラシードは指先で机上の羊皮紙を二度、軽く叩く。
「横領ですよ。積んだ荷と着いた荷を照らせば、抜かれたか否かが一目瞭然ですからな。番号と時刻を残すだけで、横領は格段にしづらくなる」
灰の眼に薄い光。
「これまで好き勝手に荷を抜いていた豪族や役人どもは、さぞひやひやしていることでしょう」
セレナは小さく息をつき、首をかしげた。
「……では、私の発案がお役に立てた、と受け取ってもよろしいでしょうか?」
ラシードは一瞬だけ口元を結び、やがて頷く。
「ええ。少なくとも、この宰相の机の上では“役立っている”と申し上げて差し支えない」
わざと曖昧に言い、目元だけで微笑んだ。
「外に名が出ることはありません。功績は静かに、しかし確かに積み重なっておりますよ」
リサはぱっと顔を明るくし、嬉しそうにセレナを見上げる。
「セレナ様のお考えが、ちゃんと役に立っているのですね……!」
その横顔につられ、セレナも小さく微笑んだ。
(功績か……嬉しいな。)
私は突出した能力も知識もない。
だから、こうやって地道に歩んで行こう――
よし、と息を整え、再び目の前の帳簿へ視線を落とす。
燭台の火に揺れる文字列を追いながら、握った筆に静かな力を込めた。
セレナ「お読みくださりありがとうございます(^^)
感想をいただけたら、とても嬉しいです!」
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